その夜を境に、全てが変わった。

 早希は二度と変な物を見なくなり、地下鉄にも普通に乗れるようになった。冬になって彼女が子を宿したことが分かると、和也はますます優しくなり、妻を乱暴に扱ったり、きつい言い方をしたり決してしなくなった。

 春が来る頃には、お腹も少し目立つようになり、生まれてくる娘を迎えるための買い物には、千葉の多恵子も都心に出てきて付き合ってくれた。

「女の子欲しかったんでしょ、よかったね早希ちゃん」

「うん。に女の子がいいなって、思ってたから。名前ももう決まったの。早希と和也から取って、ひらがなで『さや』って」

「さやちゃん、うちの遥斗はるとと仲良しになってくれたらいいなあ」

「でも、仲良くなりすぎて、はとこ同士で恋愛にでもなったらどうする?」

「いいじゃん、ネットで見たけど、もし結婚しても、法律上も、遺伝とかも問題ないみたいよ。あはは」

「やだ多恵ちゃん、わざわざ検索したの?」

 心ゆくまで買い物を楽しみ、紙袋をいくつも抱えた二人は、笑いながらエレベーターを降りた。部屋のドアを開けると、エプロン姿の和也が出迎えた。

「早希おかえり。おー、多恵ちゃん、お久しぶり。ちょっと待ってて。すぐに昼飯にするよ」

 女二人がリビングで話している間、和也がキッチンに立って料理をしていることに、多恵子は驚いていた。

「早希ちゃん、和也さんちょっと変わった? 雰囲気も前より優しくなったみたい」

「そう? 前から優しい人だけど……」早希は頬を赤くした。「でも、なんか最近パパの自覚が生まれたんだって」

「いいなあ。うちの旦那なんて、いまだに父親の自覚無いみたい」

 あれこれ話して笑い合っていたとき、早希がふと、床の上の小さな黒いものに気づいた。

「やだ。虫だわ」

 テレビ台の横から殺虫剤のスプレー缶を取ろうとした早希を、多恵子が制止した。

「殺虫剤とか、お腹の赤ちゃんに良くないわよ」

「そっか。そうね。ごめんねえ、さやちゃん」

 早希はテーブルの上にあった宅配ピザのチラシを折りたたんで、「えいっ」と虫の上に振り下ろした。そしてつぶれた小さな虫をウエットティッシュで拭き取り、チラシと一緒にまるめてゴミ箱に放り込んだ。

「たくましくなったねえ。虫も殺せなかった早希ちゃんが」

「そりゃそうよ。わたしもママになるんだもの。和也にばっかり甘えてられないし」

 ふたりの女の笑い声がリビングに響き、キッチンでニンニクの芯抜きに苦闘している和也の耳にも届いた。その華やいだ声は彼に、母になってもなお愛らしい妻と、美しく育った娘さやとの幸福な生活を予感させた。

 南向きのマンションの部屋を、春の優しい日差しが暖める。鍋の中でパスタが踊り、ケトルがかたかたと鳴る。鉄とガラスとアスファルトの間にわずかに残された土の中で、東京の虫たちも陽気に誘われて動き始める、そんな昼下りだった。



(了)

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東京虫 猫村まぬる @nkdmnr

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