「あっ、ああ、かっ、和也……」

 体の奥を繰り返し圧迫されながら、かき乱された呼吸の合間を縫って、早希は声をしぼり出した。

「見て、む……、む、虫が……」

 大人の男女と、子どもが二人。

 ヘッドボードの棚には、四人の『東京虫』が立っていた。

 大人の男は、無帽。銀縁の丸眼鏡、濃緑色の古びたコート。革のトランクを抱えていた。

 少し距離を置いて、栗色の長い髪の女。白いワンピースの上にカーキ色のコートを羽織り、赤ん坊を抱いていた。四人ではない。五人いるのだ。

 そして二人の幼い子ども。似たような年格好の、男の子と女の子だった。

 男の子は、グレーのコート、長いマフラーをぐるぐる巻きにして、きれいに切りそろえた赤毛にハンチング帽をせていた。

 女の子も同じ赤毛のおさげ髪で、ポンポンのついたケープをまとい、ぼろぼろになった布製の人形を抱いていた。

 彼らは一様に、絶望的な道行きに疲れたような顔で、二人の交わりを呆然と見ていた。まるで、高台から津波を眺めている人たちみたいに。

「やっ……か、和也、やめ……和也!」動きを止めない夫の背中を握り拳でどんどんと叩きながら、早希は叫んだ。「み、見てる! んっ、んん、むっ、虫が!」

「何だよ早希、こんな時まで。まだそんなこと……」

 和也はようやく体の動きを止め、そのままの姿勢で手だけ伸ばしてヘッドボードに置いたカード入れを取り、トランクを抱えた男の『東京虫』に向かって振り上げた。

「これか?」

 ぱん、と音がして、彼とつながったままの下腹部に、軽い衝撃が伝わってくるのを早希は感じた。

 次の瞬間には、『虫』はコーデュロイのズボンに包まれた二本の脚だけを残してつぶれ、飛び散っていた。二本の脚はひしゃげたトランクの下でひくひくと痙攣していた。

 早希は声にならない、長い悲鳴を上げた。息を吸うこともできず、『虫』たちから目を離すこともできなかった。

 子どもたちは目を見開いて、早希たちの方を向いて立ったまま、金縛りにあったみたいに硬直している。赤ん坊を抱いた身長一センチあまりの女は、男の死骸の無惨さに驚いて、後退りして後ろ向きによろけた。

 和也は再びカード入れを振り上げ、女に向けて振り下ろした。今度は直撃はしなかったが、『虫』は衝撃で躍り上がってヘッドボードから早希の枕の上にぽとりと落ちてきた。和也はすぐさま、小さな女を指先でぴんと弾き飛ばした。

 いったん壁にぶつかって、床に落ちた女は、頭を下にして『卍』のような形に腕と脚がねじ曲がり、むき出しになった白い太ももが上を向いていた。

 早希は、ひゅうう、と大きく息を吸って「いやああ!」と叫び、体を震わせて泣きじゃくった。「いや、いや、お願い、和也、和也、お願い、子どもたちは殺さんといて、子どもたちだけは……」

「早希、しっかりしろ。よく見ろよ、これはただの虫だぜ」

 ヘッドボードに二人並んだ子どもたちは、そろって十字を切り、ひざまずいて祈り始めた。

「でも……でも……まだ子どもよ……」

「まあ、早希の言いたいことも分からなくはないよ。早希にはきっとこれが、幼い男の子と女の子のように見えるんだろう? 鳥打帽をかぶって、マフラーを巻いた意志の強そうな少年と、人形を抱いた、赤毛の三つ編みの、そばかすのある少女みたいに」

 早希の瞳が大きく見開かれた。

 紙のように白くなった彼女の顔に、汗の粒が無数に浮かんでいた。両腕は力を失い、マットレスの上にだらんと伸びた。大きく開かれた両脚の間には、和也の腰が乗ったままだった。

「確かに、色も形も、そんなふうに思えば、そう見えないこともないかもな。でも早希、これは虫だよ。だって虫なんだから」

「……か、か……」早希は口を半開きにして、顎をかくかくと震わせた。「あっ……う」

「虫は虫だよ、早希。いい加減、大人になれよ」

 和也はいら立ちをぶつけるみたいに、素手でばん、と二匹の虫を一度に叩き潰した。虫たちは声ひとつ無く、二つの染みになった。

 凍りついた早希の唇に、彼は優しくキスをした。

「早希、お前は寂しいんだよ。だから神経過敏になってるんだ。なあ早希、俺たちそろそろ子どもを作ろうよ。いいよな?」

 そしてその言葉を証するかのように、早希を強く抱きしめ、つながりあった身体を激しく動かし始めた。早希は揺さぶられながらも、拳に精一杯の力を込めて、男の頭や肩や腕や背中に叩きつけた。けれど彼はそれを戯れとしか思わないようだった。

「ああ、早希、早希、俺の早希、愛してるよ早希。女の子を……女の子を産んでくれよな、早希、早希そっくりの、かわいい娘を、な? 早希、早希、早希、顔を……顔を見せて、かわいい早希。いいかい早希、女の子産むんだよ、女の子だよ、準備はいいね? 早希、早希、早希、ああ、早希早希早希早希早希っ、早希かわいいよ早希……」

 男は固く目をつぶって早希の肩に顔を押し当てた。体と心に流れ込んで来て激しく渦巻く全てにやり場がなく、早希はただ泣きながら男の体に強くしがみついていることしかできなかった。あの女が抱いていた赤ん坊はどこへ行ったんだろう、と一瞬だけ思った。

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