4 明け方近くに玄関を開けた和也は…

 明け方近くに玄関を開けた和也は、明かりをつけてはじめて、ドアを開けたままのトイレで、今夜はいないはずだった妻がTシャツとショーツだけの姿でぐったりしているのに気づいた。

「どうした、早希。早希!」

 駆け寄って抱き起こすと、息も意識もあったが、青白い頬が涙に濡れていて、ただ事とは思えなかった。妻を抱きしめ、湿った髪を撫でながら、和也は低く抑えた声で言った。

「早希、大丈夫か。何があった。まさか、多恵子の旦那か……?」

「ちがうの、和也……。虫、虫が、虫が……」

「虫?」


   …………


 寝室のドアが静かに開き、薄暗いベッドでぼんやりと横になった早希のところに、和也が戻ってきた。

「虫は片付けといた。もう大丈夫だよ」和也は早希の隣に横たわり、おしぼりにしたタオルでそっと早希の顔を拭いた。「いつもは虫ぐらいで騒ぐ早希じゃないのに。疲れてるんだな。かわいそうに」

「……見た? どんな虫だった?」

「普通の虫だろ。ガガンボかなにかの仲間じゃないかな。人間の形になんて、俺には見えなかった。早希の気のせいだよ。忘れたほうがいい。そんな風に思いはじめると、何でもそう見えてくる。木目がお化けに見えたりするのと同じさ」

「ううん。ちがう。そういうんじゃない。はっきりとリアルに見えたのよ。帽子をかぶってたり、スーツを着てたり、鞄まで持ってたり。髪型とか、おびえてわたしの方を見てる顔とか……」

「いや、リアルだと思いこんでるだけなんだよ。早希、冷静に考えてみな。もしほんとにそんなに小さな人間がいたとして、早希の視力でそこまで細かく見えるはずがないだろ。それこそ実在じゃない証拠だ。脳が見せてるんだよ。夢と同じさ」

 和也は早希の頭を軽くぽんぽんと叩き、頬に軽く唇を当てた。そして「汗びっしょりじゃないか」と言うと、彼女のTシャツの裾をまくってタオルで背中を拭き始めた。それから脇腹や首筋も。

 されるがままになりながら、早希は思った。彼の言うとおりかもしれない。確かにわたしは過敏になってる。でも単なる気のせいと言うには、あの『東京虫』たちの存在はあまりにも生々しい。

 夫は早希の胸元を拭きながら、彼女の頬や額に繰り返しキスをした。

「わたし、頭がおかしくなったの?」

「いや、早希はただ、淋しいんだよ。心と体が淋しいから、脳がそんなものを作り出すんだ。俺の都合で早希を無理にこっちに連れてきたせいだ。悪かったと思ってるよ、早希……」

 そう言いながら、和也の手は、もう早希の汗を拭くのではなく、胸とその周りを撫で回したり、指先でなぞったり、つついたりしはじめていた。額や頬への優しい口づけは、時間をかけた唇へのキスに変わった。

「早希、これからは、もっと相手してあげるからね。早希、早希……」

 夫の声は優しかったが、酒の匂いを帯びた息は荒く、ぎらついた赤い目で瞳をのぞき込まれて、思わず横に顔をそむけた瞬間、男は彼女に覆いかぶさり、耳の中に舌をねじ込み、同時に下着に手を入れてきた。そしてさらにもっと中にも。

「やだ。ちょっと、和也、ちがう、今そんな――」

「いや、今必要なんだよ、早希。気持ちいいだろう? 早希。虫なんかじゃなくて、これがリアルだよ、早希。早希……愛してるよ早希」

 このひと、わたしの体の中に手を突っ込んで、内側から心を操作しようとしてるんだ。

 早希はそう思った。でも押し問答をするのも、物理的に抵抗するのも、もう億劫おっくうだった。引き抜くようにTシャツを脱がされた時点で、早希はあきらめて夫の背中に腕を回し、自分から唇を合わせた。まあ、これでいいや。任せて、受け入れるほうが楽だ。彼とは百回以上してきたし。それに彼の言うことにも一理ある。少なくとも、体を動かしている間は嫌なことを考えずに済むだろう。

 和也はもどかしげに裸になり、早希の頭越しに、腕時計とカード入れをヘッドボードの棚に置いた。そして彼女の両脚を持ち上げた。

 入ってきて動き始めると、早希は何もかもを彼に委ね、つながっている部分だけに意識を集中して、全てを忘れてしまおうとした。手を握って「和也、和也、好き」と言ってみた。だけど、こうしてベッドにひっくり返されて男を受け入れている自分を、何かがどこかでじっと見ているかもしれないと思うと、体の感覚に没入することはできなかった。

 遠くを見るような目で早希、早希、早希、早希と名前を呼びながら規則的に体を動かし続ける夫から顔をそむけ、天井を仰ぐと、腕時計やカード入れが置かれたヘッドボードが視界に入った。



 そこに、四人いた。

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