3 門柱のベルを押すと、芝生の庭の向こうのドアが開いて…

 門柱のベルを押すと、芝生の庭の向こうのドアが開いて、パーカーとワイドパンツ姿の多恵子が手を振った。

「いらっしゃい早希ちゃーん。ゆっくりしてって。旦那は明後日まで出張でいないから」

「おじゃまします。遥斗はると君は?」

「遥斗、早希お姉ちゃんにごあいさつは? ほら」

 うながされてようやく、多恵子の腰の後ろから、小さな息子が怒ったような顔をのぞかせた。

「こんにちは、遥斗君。早希お姉ちゃんだよ。覚えてる?」

 腰をかがめて話しかけると、子どもは顔をそむけて、また多恵子の後ろに隠れた。

「照れてるのよ。この子、ついさっきまで『サキおねえちゃんいつ来るの』ばっか言ってたのに」

 二階まで吹き抜けになった広々したリビングで大きなクッションに座り、早希が買ってきたクッキーをお茶うけにしながら、二人は互いの近況などを話した。『田舎』とは言えないが、大きなガラス窓の外には庭木が茂り、秋の夕暮れの光線に芝生が輝き、公園みたいに気持ちがよかった。

 幼い遥斗は大人たちに背を向けて、窓際に敷いたラグに座って積み木で遊んでいた。

「早希ちゃんは子ども、作らんの?」

「うーん。作らん、ってわけやないけど……。いろいろ考えちゃって」

「昔から頭がええけんね、早希ちゃんは。それで余計なことばっか考えちゃう。ははは」

 多恵子がトイレに行って席を外し、一人遊びを続ける子どもと、早希は二人きりになった。広い部屋に、積み木のかちゃかちゃ鳴る音だけが聞こえる。

 子どものそばにそっとしゃがんで、小さな声で話しかけてみた。

「遥斗くんは、何して遊んでるの? お姉ちゃんも見ていいかしら?」

「虫」と遥斗が背中で言った。「虫がいるよ」

「えっ?」

 早希は眉をひそめて、遥斗の前に組み上げられた積み木の家を見た。

 たしかに、そこには『虫』がいた。

 一番上に置かれた、赤い三角形の積み木の稜線りょうせんの左右に、危ういバランスで座り、互いを抱きしめて身を寄せ合っている、それは、若い恋人たちの姿に見えた。どちらも茶色の髪で、男はグレーの作業服のようなものを、女は白いセーターと黒いロングスカートを着ている。

「やだ、遥斗くん、これ……」

 早希は息ができず、二人の『虫』から目が離せなくなった。

 突然「バーン!」と叫び、遥斗が積み木の家を手でぎ払った。「ばくだんだあ!」

 飛び散り、崩れ落ちた積み木の間から『虫』たちがい出し、足を傷めたのか、肩を組んで支え合いながらよろよろと立ち上がった。

「ミサイルはっしゃ!」

 遥斗が投げた円筒形の積み木は、ラグの毛をかき分けながら窓に向かおうとしていた『虫』たちのすぐそばでバウンドして、転がった。女の『虫』がおびえてしゃがみこみ、頭を抱えた。男のほうがそれを助け起こそうとする。

「2発目はっしゃじゅんび……」

「やめて!」早希の叫びは悲鳴に似ていた。「おねがい、遥斗君。殺さないで」

「なに? 早希ちゃん、遥斗、どしたの?」

 戻ってきた母親に、遥斗は赤い頬をして胸を張った。

「ママ、サキちゃんは女の子だから、虫がこわいんだよ。しかたないから、ぼくがまもってやった」

「あらそう?」

 多恵子はガラス戸のサッシを開けると団扇うちわを持ってきて、二匹の『虫』を外に吹き飛ばした。

「はい、虫さんバイバーイ。これで大丈夫。言っとくけどママも女の子ですからね」

 早希はぐったりとクッションに座った。遥斗はまた一人遊びに戻って、なにか言いながら積み木を並べ始めた。

「多恵ちゃん、あの、さっきの……虫? どんな形しとった?」

「ええ? そんなのしげしげ見んよ、気持ち悪いもん。普通の虫でしょ?」

「あんな虫、東京来るまで見たことなかった」

「あー、じゃあ東京虫だ」

「……東京虫? 多恵ちゃん何か知ってるの?」

「うそ。知らん。でたらめ。言ってみただけ。ははは」

 早希は笑わなかった。『東京虫』。でたらめでも名前がついてしまったことで、あの『虫』たちの実在が確かなものになってしまったように思えた。東京虫。東京虫。東京虫。東京虫。

「早希ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ」

 東京虫、東京虫、東京虫東京虫東京虫東京虫……。早希はふらりと立ち上がった。

「……多恵ちゃん。ごめん。わたし、具合悪いけん帰るね」

 本当なら夕食をごちそうになり、子どもを寝かせてから飲む酒も用意していたのだけれど、心配する多恵子をよそに、早希はタクシーを呼んで真っ直ぐマンションに帰った。運転手がしきりにルームミラーを見ながら「お姉さん大丈夫すか」「ちょっと停めて休みますか」と話しかけてきたが、彼女はずっと目を閉じてシートにもたれていた。



 和也は部屋にいなかった。電気もつけず、カーディガンとスカートだけ脱いでベッドに入り、頭までシーツをかぶって丸くなり固く目をつぶった。少しうとうとして、夢うつつで何かひどく不快なものを見た気がした。いや、見られた気がした。ベッドを出たのは深夜1時。和也はまだ帰らない。冷たい汗で濡れた体を拭き、下着を替え、上半身はTシャツ一枚だけになって、お茶を沸かそうとキッチンへ行く。ガス台の上のケトルはずっしりして水が入っているのが分かったので、そのまま火をつけた。

 湯が沸くまで、早希はテーブルに顔を伏せてじっと息を潜めていた。何かの視線を感じたりは、今はしなかった。生きているものの気配はどこにもない。

 ブザーが鳴って火が止まり、ガラスのティーポットにカモミールのティーバッグを入れ、ケトルの湯を注いだ。空気がつぷつぷと音を立てて、湯気が上がる。ケトルの口からなめらかに流れ出た熱湯が、ポットの中でくるくると舞った。

 その中に、白っぽい小さなものがいくつかまじり、ひらひらと回りはじめたのに早希は気づいた。

 ティーバッグが破れたのか、と思った。

 でも違った。

 一瞬しか見なかったが、それは『東京虫』の死骸だった。

 煮えたぎる熱湯の中で白っぽいピンクに変色して膨れ上がり、年齢も性別も分からない姿になっていたが、一つは男物のスーツを身にまとったまま、もう一つは腰のあたりで二つにちぎれて、裸でそれぞれに湯の中で踊っていた。青いドレスが浮いていた。

 早希はぎゅっと目を閉じ、ゆっくりとケトルを置いてから床にしゃがみ、暗い廊下をトイレまでって行った。

 吐いても何も出なかった。まるで便器にすがりつくような格好で床に崩れ、胃液の混じった唾液をしたたらせて激しく咳き込み、温かい便座に突っ伏して泣いた。歯を食いしばって声を殺し、喉の奥で「うっ、うっ」とうめきながら、冷や汗と涙と鼻水とよだれでTシャツをぐしょぐしょにして泣き続けた。

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