2 二度目は、地下鉄の駅だった。
二度目は、地下鉄の駅だった。
喫茶店での出来事から二週間ほど後、都心の展覧会に行くために、ホームのベンチで電車を待っていると、早希のサンダルのつま先から数センチのところを、三人家族のように見える『虫』が横切って行くのが見えたのだ。
ホームに敷き詰められた白いタイルの目地の黒い線を、まるで荒野の細い道を旅するみたいに『虫』たちは連れ立って歩いて行く。
先頭の男は、兵隊みたいな帽子と革の上着で、荷物を背負っている。その後ろを男の子が、質素なコートのフードで頭を覆い、うつむいて歩いている。そして最後尾は、髪に赤いスカーフを巻いた痩せた女。花柄のワンピースの肩に黒いショールを掛けている。寒さをこらえているのか体を縮め、片足を少し引きずっていた。
ホームにはちらほら人がいる。誰かに助けを求めたくて悲鳴を上げようとしたが、喉がぴくぴくと
その声に『虫』たちはびくっと足を止め、早希の顔を振り仰いだ。
早希はベンチから立ち上がって逃げようとしたけれど、足もうまく動かなかった。ただ両手で口を覆って、激しく乱れ始めた呼吸を抑えようとするので精一杯だった。
『虫』たちの振る舞いは、小さな舞台劇のようだった。女が転びそうになりながら、子どもに駆け寄り抱きしめた。男は二人を守ろうとするかのように、一歩前に出て早希を
「うそ……。やだ……わたしは……」
その時突然、大きな黒いものが視界に割り込んできて、たん! と床を踏み鳴らした。
男物の大きな革靴が、つい今まで小さな人間たちのいた場所を踏みしめていた。
息を呑んで見上げると、ビジネススーツを着た五十歳くらいの男が、早希に微笑んでいた。同情するみたいに、ちょっと
「あ……あの……あの…」
「大丈夫? 今時珍しいね、虫も殺せぬお嬢さんなんて」早希の顔ではなく、ノースリーブのブラウスの胸元を見つめながら男は笑った。「悪い虫にはお気をつけなさい。ははは」
男が去った後には、何も残っていなかった。小さなものたちがいたあとには、茶色っぽい汚れのようなものがあるだけだった。
地下鉄の匂いの風を吹かせながら、銀色の車体が滑り込んできたが、早希はそのままマンションへ帰ってベッドにもぐりこんだ。
その日から早希は、必要最低限の外出しかしなくなった。買い物や用事に出ることはあっても、できる限り足を止めず、下を見ないようにした。知らずに踏み殺している可能性は忘れるように努めた。
そのおかげか、あの『虫』を一度も目にすること無く二ヶ月が過ぎた。
秋になる頃には、早希が家にこもりがちなことに気づいた和也が、彼女を土日に外食に連れ出したり、金曜の夜に映画に誘ったりするようになった。
はじめは渋っていたけど、これは早希にはいい気晴らしになった。足元を見なくても歩けるように和也と腕を組んで、彼の顔や高層ビルばかり見上げるようにしながら秋の夜の都心を歩くと、和也もうれしそうだったし、早希自身も都会の恋人たちを演じているようで楽しかった。
やや背伸びしたクラスのフレンチの夕食の後、駅からの帰り道を腕を組んで歩きながら、ワインの酔いも手伝って、やっと尻尾を捕まえた幸福感を少しでも長持ちさせようと、早希は少し大げさに言ってみた。
「わたし、和也といっしょに東京に来て幸せかもしれないって、最近思うの」
「それはがっかりだな」和也は立ち止まり、早希の頭を引き寄せて額に口づけした。「俺は二人で品川駅に降りた瞬間からそう思ってたのに」
自分はただ、寂しかっただけなのだろうかと、ベッドに転がされながら早希は思った。それでおかしなものを見たのだろうか。
知能の低い生き物みたいで情けないけど、人間の神経や脳なんてコアの部分は原始的なものだ。現にこうして、美味しい料理とアルコールの酔いと、夜の都会の風景と、ちょっとした会話と体のぬくもりだけで、心と体のモードが変わっている。今夜の早希は、彼に一方的に抱きすくめられても、のしかかられても、舌を
ワインの香りの残る、二人の混じり合った唾液の甘さを味わいながら、早希はそんなことを考えていた。
全て終わった後の気だるいベッドで、和也は早希の髪を撫でながら言った。
「こんど
先に地元を出てきた従姉の多恵子たち夫婦が家を買ったのは、千葉の郊外の住宅地だった。真っ直ぐな道に同じような一戸建ての家が果てしなく並ぶその街と、故郷の港町とが同じような「田舎」とは全く思わなかったが、言ってもどうせわからないし、多恵子には会いたかったから、早希は微笑んだ。
「うん。ありがとう。多恵ちゃんに聞いてみる」
「俺たちもいずれどこかに引っ越そうよ。もうちょっといい所に住ませてやるよ」
そう言って肩を抱き寄せられた時、早希は誰かの視線を感じた。
見てる、わたしたちを。
それも、一つじゃない。部屋のあちこちに何かが身を潜めて、さっきまで激しくぶつかり合っていた裸の二人を、おびえた目で見つめている。そんな気がした。
まさか、あの『虫』?
この部屋に?
考えたくない。見たくない。気づきたくない。早希は夫の熱い胸に顔を押し付けて、背中に回した両腕に力を込めた。
「どうしたんだよ早希、そんなに幸せか?」と和也はうれしそうに、彼女の耳に唇を当てた。「もう一回欲しい?」
そう言うとまた、早希の体の柔らかい部分をもてあそぶように触り始めたが、今の彼女は汗に冷えた体を固く縮めて、彼の胸板にごりこりと額を押し付けるばかりだった。
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