東京虫

猫村まぬる

1 夫の和也が昇進で東京の本社に戻るのに伴い…

 夫の和也が昇進で東京の本社に戻るのに伴い、早希は仕事を辞めて故郷の街を離れることになった。

 地方とはいえ都市部で育った早希にとって、東京の暮らしに慣れるのはそれほど難しくなかった。電車の乗り換えが分からないとか、やや物価が高いとかいった問題はあるにはあったが、当分は職を探さず家にいることにしていたし、昇進で和也の収入も増えていたから、それで困ることもない。

 早希は家事にこだわったり、暇な時間をネットで過ごしたりするタイプではない。2DKのマンションに一日中こもっていることはあまり無く、天気が良ければ買い物がてら外に出て、本屋に寄ったり、近くの喫茶店やベーカリーカフェで息抜きをしたりしていた。都心から離れた郊外でも、そういった場所には事欠かない。それは確かに東京の良い点だった。



 早希が初めてその『虫』を見た場所は、ひどく暑い日の昼下り、銀行の帰りに寄った喫茶店のテーブルの上だった。

 客のまばらな店内でぼんやりとアイスコーヒーを飲んでいた彼女の目が、何か小さな、黒いものが動いているのを、視界の隅にとらえた。

 とぼとぼと、二本の脚でテーブルを横切ってゆく、一センチちょっとの、小さな生き物。

 二本の脚で、歩く?


 それは、男だった。

 小さな、小さな男。


 自分が何を見ているのか、早希には理解できなかった。その生き物は確かに人間の形、それも、彫りの深い顔の、若い男の形をしていた。グレーのスーツを着て、ソフト帽をかぶり、両腕で古風な革製の鞄まで抱えている。

 寒そうに肩をすぼめ、うつむいて歩いていた身長十数ミリの男は、身の隠しどころのないテーブルの真ん中まで来てようやく、頭上からの早希の視線に気づいたらしく、うろたえ、立ち止まり、おびえた様子で彼女を見上げた。

 水色の半袖のワンピースから伸びた早希の白い腕に、見る見る鳥肌が立った。顔が冷たくなり、背中がぞわぞわするのを感じた。悲鳴を上げようにも、喉がつまったようになり、小さな男と互いに恐怖の表情で見つめあったまま、しぼりだすように小さな声で、彼女はマスターに声をかけた。

「……あ、あの、これ……」

「どうしました?」

 初老のマスターはカウンターから身を乗り出して早希のテーブルをのぞき込み、早希の震える指の示す先に目を向けた。

「ああ、なんだ。こりゃ、すみません」

 マスターはカウンターから出てくると、ティッシュを二、三枚取ってテーブルに近づき、さっと手を伸ばしてその生き物を捕まえた。

 早希の喉から小さく「あっ」と声が出た。

「すみませんねえ、どうも。夏になると、ときどき虫が入ってきちゃう」マスターは首を傾げながらティッシュを丸め、蓋付きのゴミ箱の中に放り込んだ。「どこから入ってくるのかなあ」

「虫……?」

「お飲み物、お取替えしましょうか?」

「いえ……、大丈夫です」

 マスターはにっこりして、早希の顔と、それから胸元にちらっと目をやり、カウンターに戻った。

 虫?

 今の、ほんとうに虫?

 あれが、虫なの?

 自分が見間違えたのだろうか、と早希は考えた。あんな虫がいるはずがない。でもマスターは何とも思っていないようだった。幻覚? 今までにそんなこと、一度も無かったのに。

 やはり、慣れない土地での暮らしで、自分は少し疲れているのだろうか。

 いずれにしても、この店にはもう二度と来るまいと早希は思った。



 その夜、和也が帰ってきたのは十一時過ぎで、軽い夕食だけを取って風呂を浴びると、そのまま先にベッドに入ってしまったから、二人で話す時間はほとんど無かった。

 とはいえ早希は、あの奇妙な「虫」について彼に話すつもりはなかった。たまたま見間違えただけのことだ。わざわざ話すまでもない。茶化されても嫌だし、大げさに心配されてもわずらわしい。

 身の回りのことを済ませたあとで、ベッドで眠る和也の隣に潜り込み、早希は彼の体に片腕を回し、分厚い背中に額を当てて目を閉じてみたけれど、妙に速く感じる彼の寝息と、昔と変わってきた気がする匂いのせいか、なんだかまるで、知らない男の隣で寝ているような気がした。

 離れようとした時、眠っていると思っていた男が急に手を伸ばしてきて、パジャマ越しに彼女の左の乳房をぐわっと掴んだ。

「ちょっと」早希は彼の手を振り払い、体を離した。「違うの。ごめん。おやすみ。わたし疲れてるみたいだから」

 相手は何も答えず、彼女に背を向けて体を丸めた。

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