走性

「なぁ、その髪解かないの? 」


 住宅街から離れて煌びやかな街道に出た頃、俺は彼女の背後でずっと見ていたそのか細い背中に揺れるポニーテールの黒髪が気に入らなくなってきた。

 少女はこちらを振り向き、怪訝そうに眉をひそめた。


「あんた絶対髪下ろしているほうが」


「やめて」


 こんなくだらない発言が、いったい彼女の何を刺激したのかはわからない。だが、彼女は柄にも無く大きく声を張って俺の言葉をかき消した。さっきまでは深い海のように冥かったその目には、憎しみとも怒りとも形容できぬ色が灯っていた。この感情の色を知っている。悲壮。だが、何故それなのか。そしてまた何故にそれ程に痛そうなのか。俺にはわからない。

 思えばここまで見測れない奴は初めてだった。その死人のような気配も、ふと垣間見えるその激情も、隠された心も。

 ああ、わからない。わからないって腹が立つ。発見だ。


「ははは」


 何故笑ってしまうのかもわからない。だが、今の俺は生来きってに意欲的だった。

 何もかもが酷く退屈だった? そんなもの、もう過去の物だった。

 頬が歪む。ここまで人に付き纏うなんて。ああ、わからない。自分の気持ちすらわからない。そんな自分が目の前の、しかもこの死の臭いのする異質な少女の事などわかるのだろうか。ああわからない、腹が立つ。


「はは……ふふふ」


「……?」


 今度は彼女が立ち止まって、こちらを見てわずかに首を傾げて、そしてしばらくそのままでいた。俺が笑った意味を探っているようだった。固まってしまった彼女の身体に反し、そよぐ風に真っ黒い髪がふらふらと揺れていた。


 思えば俺たちは互いにどこか頭のネジが緩んだり飛んだりしているらしい。その事が今は心地が良かった。仲間を見つけて喜ぶのは人の性だなと己の体験をもってして実感する。


「俺たち、ぶっ壊れてるな」


「……ふっ」


 少女は人差し指で口元を隠しながら笑った。まるで当然だと言うように。





「なぁ、意味もなく歩き回ってるように見えるけど、これからどうするの?」


「……行く宛てなど無いよ。ただする事も無いし帰る場所も無いから歩くの」


「へぇ……」


「……何? そんな見つめられても困るのだけど」


「いや、あんたならいくらでも帰る場所作れそうだなって思っただけ」


「きっと金以外の宿代が要るでしょ? そういうの、心の底から嫌いなの……吐き気がする」


「わかるよ。……人間ってのはおおよそ快楽に浸りたいがために平気で人を貪るからね。何が理性だって思うよ。所詮、回りくどいだけで皆猿なんだから」


「じゃあこの世界に人間は貴方と私だけなのかしら」


 少女は溜息を漏らす。俺も同じく溜息を吐く。


「それは俺を人間って見てくれてるって事? 今日会ったばかりで、よく知りもしないこの俺を? 」


「まだ少ししか話していないけど、貴方はまだ一回も、そこらにいる人みたいに回りくどく、言葉を選んで話す事はしなかった。自分の思った事をそのまま口に出してる気がする。かえって可哀想に思えてくるわ」


「俺の事可哀想って言ったのは君が初めてだよ」


 彼女と話すのは愉快だった。それに彼女からは、共通のシンパシーのようなものが感じられた。話していると心地が良かった。


「なぁ、俺たちって……」


 その時、遠くからパトカーのサイレンが不鮮明に聞こえてきた。その瞬間、彼女は絢爛な街道から外れて、暗闇の路地のほうへ入った。


「おいどうしたんだ! 」


 彼女は答えない。ただ、街の明かりから、人の目から逃れるように路地の闇の奥へ進む。そして、入り組んだ迷路のような路地の行き止まりに差し掛かった時、ようやく彼女は立ち止まって、思い出したかのように肩で息を始めた。


「どれだけ走らせるんだよ……まったく。で、どうしたの? 」


「……いや、別に何でもないわ」


 彼女の表情は更に青ざめていたが、それに反して生気は宿っているように見えた。


「何、あんた警察に追われるような事したの? 」


「……さぁ、どうかしらね」


 少女は自嘲気味に頬をひくつかせて笑った。


 肩で息をする彼女を先導し、虫のように明るい方へ吸い寄せられるが如く歩いているとまた眩しい街道に出た。どうやら中央通りらしかった。この街道は、この街の中心となる駅から真っ直ぐに伸び、人通りも建物も明かりも多かった。それらに俺という人間はかき消されるが、彼女のその何色にも染まらない闇が住んだ髪だけはこの有象無象蔓延る胸焼けしそうな場所でも異質の存在感を放っていた。この髪が解かれ、風にはためいた時の美しさを俺は想像した。


「……ねぇ、あまり人が多い所に行きたくないわ」


「……そうだな、んじゃゲーセンかカラオケか、それとも飯でも食いに行く? 因みに俺は腹が減りました」


「……そうね。私もお腹減ったかもしれないわ」


「んじゃ決まりだね」


 そして、ここらに詳しい俺は近くの食べ放題がある焼肉屋に彼女を連れていった。彼女は「そんなお金持ってない」と入るのを躊躇っていたが、俺が足りない分は出してやると行ったら渋々俺の後ろに縮こまりながらついてきた。

 美味いものを食べさせたら少しは人間みを露見させてくれるかもという浅はかな考えだった。

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