月下美人

緑夏 創

花に集る虫

 どうしようも無く、彼女は綺麗だった。夜の闇の中で一際浮き立つ黒髪、白く冷たい陶器のような肌、スラリと伸びた四肢、深い海のような瞳。

そして、纏う死の気配。

そう、どうしようも無く、綺麗だったんだ。



 ――何もかもが酷く退屈だった。

 虚無に心を飲まれて、俺はただ、夜の街が放つ光によって微かに白んだ夜空をずっと見上げてい

た。

何時間そのままにしていたのかはわからない。

 気づけば、今にも落ちてきそうな重苦しい雲が空を覆い尽くしていて、雨の臭いがしたと思えばざぁと音を立てて降ってきた。俺はそのまま鬱々とした雨空を仰ぐ。

 夜の通り雨は一瞬にして俺と街とを水浸しにした。


 そのまま夜の街を歩いた。


 少しして雨はもうすっかり止んだが、空気が重く、湿っぽくて、内側から喉を締められるようだった。今はちょうど夏が過ぎ去って彼岸花が咲き始める頃だが、俺はいつ何時も、雨の後は嫌いだった。ぺトリコールが何か精神を蝕む瘴気のように思えて俺はそれにあてられて溜息ばかり吐くことになるから、どうせなら永遠と雨が降り続いて欲しかった。

 そんなどうにもならない事を考えながら、街から離れて、真夜中の、街路灯だけが等間隔で設置されている、不気味なまでに静まりきった住宅街の一本道を歩いていると、不意に足元に蝉がひっくり返っているのに気づいて、俺は足を止めてしゃがみ込んだ。


「……確か蝉って、ひっくり返ってても足が開いてたら生きてるんだっけ」


 それが本当に正しいのであれば、こいつは生きていた。夏はもう過ぎ去ったというのに、この蝉はさっきの雨にうたれ、ひっくり返って、その様を俺に見られてまだ生きていた。夏の一つの象徴がその夏に置いてかれた様は実に哀れに思えた。抗議するように蝉は羽をばたつかせた。だが、酷く弱々しかった。もうすぐ死ぬのだろう。

 その時、眼下の蝉より一層俺の興味を惹きたてる音が、俺の正面の、一つ向こうの街路灯の辺りからぼんやりと聞こえてきた。耳を澄ますと、どうやら誰かが口論しているようだった。蝉をパチンとつついてから立ち上がり、声のほうへ向かうと、何やら同い年くらいの学生に見える黒い髪の少女が、いかにもチャラそうな男二人に絡まれている所だった。二人の男の内、片方の少女に意欲的に絡んでる奴は金髪で、唇にはピアスを空けていて、痛くないのかと思った。金髪の後ろで笑ってるずんぐりした体型の男は白いタオルを頭に巻いていて、たこ焼き屋をしたらいいのにと思った。あまりにも自分が呑気過ぎて笑いがこぼれる。

 少女は俺と似たような格好だった。パーカーにハーフパンツ、そして長い黒髪を簡単にポニーテールでまとめたその風貌は部屋着のまま出てきたような、まるでお洒落など、いや、人に見られる事になど初めから興味など無いと言いたげな、そんな雰囲気を漂わせていた。そんな彼女は今、腕を掴まれてどこかへ連れて行かれそうな状況になっていたが、少女は腕を掴まれてなお二人の男に臆すること無く、殺意を込めた瞳を尖らし、必死に、それでいて静かに抵抗していた。彼女は荒れ果てた野にたった一本咲く花が風雨に晒されてなお強く咲いているように気高くそして凛々しかった。


「……へぇ」


 そしてその姿に、俺はどうしようも無く惹き付けられた。


「なぁ、何してんの?大の大人が寄って集ってさぁ」


「あぁ?なんだてめぇ」


 金髪の男は険悪に眉をひそめて、顔を舐めしだくように不快な声で言った。


「……なんだてめぇって、俺の事知りたかったらまず自分から名乗るのが筋ってもんじゃないの? 」


「……いや知らねぇよ! てかガキかよ。おらガキ、はよどっか行け。俺ら今からこの子と遊ぶんだからよ」


 そう言うと、少女の腕を掴んでいる金髪の男は舌なめずりするように少女のか細い身体を見た。少女の目は更に尖り、金髪男の首を刺していた。


「あ、そう。んじゃ先に俺と遊ぼうよ。俺が勝ったらその子は俺と遊ぶって事で……んじゃそういう事でよろしく」


 そう言うと俺は、金髪野郎のおちゃらけが染み付いた顔面を正面から躊躇無く殴った。あまりに躊躇がなく、呼吸するように自然に出た拳はまるで拳自体が別の脳を獲得したように思えた。完全に無防備だった男は吹っ飛び、少女はあの汚らわしく肉を貪ってきたのであろうその手から解放された。子分の男は、金髪が吹っ飛ばされて怯んだようだったが、


「くそっ、やっちまえ!」


 金髪の放ったそのチンピラの教科書に載っていそうな言葉にノせられて向かってきた。誰かの下についた男は子供のように素直だなと感心しながら拳を振り上げる。

 俺はやったことの無い本気の殴り合いにあろうことか勝ってしまうだろうという謎の自信があった。それにこんな底辺猿野郎共に負けるなんて微塵たりとも思わなかった。

 そこの少女には何か興味を唆られるし、このやるかやられるか、命をやり取りする緊張感に俺は身体が小刻みに震える程歓喜していた。


 何もかもが酷く退屈だった。

 だが、今はそんなもの、どこにもなかった。

 嬉々として呼気を吐いた。

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