二輪
俺達は焼肉屋を後にして、街外れの山の登山道を歩いていた。今思えば飲食店でなんて事話していたんだと思った。
視線を彼女の背から空へ移す。今夜は月が出ていなかった。山道は闇に飲まれたように暗く、いつ登山道を踏み外して斜面を滑り落ちてしまうかも分からない。そんな暗闇を、心許ないスマホのライトだけを頼りに何とか歩く。生命が枯れ果ててしまう冬のように、静かで、空気も肌寒かった。墓地の空気に似ていた。俺達が草木を踏みしだく音、そして呼吸音だけがこの暗闇に響いている。
「咲いているといいのだけど」
少女は凛とした声で静かに静寂を破った。
「何が? 」
「彼岸花」
「……もう九月も終わりの頃だから、そろそろ咲くんじゃない? 因みに俺はよく散歩するけどまだ見てない」
「望み薄じゃない」
そう言って少女は愛しい人の髪を撫でるかのように優しく笑った。
「こっちよ」
すると彼女は整備された登山道から外れて、背の高い草が生え茂る方へ躊躇なく進んで行った。俺も、スマホのライトで照らして何とか進む。一応、踏み固められているようであり、獣道じみているが道ではあった。途中で頬を草で切った。だが、痛みに苛立ちを憶える前に、甘く上品で、優美な香りが俺の脳を優しく撫でた。
「……月下美人? こんな所に? 」
彼女が呆けた視線を向ける先へライトを当てる。そこには、全く穢れの無い世界で産まれたかのように白く、そしてナイフのように鋭い花弁を無数に重ね合わせた月下美人が一輪、登山道から外れた人目も付かぬこの暗闇に咲いていた。その花が放つ香りは辺りのべっとりとした闇を華やかに満たし、どうしようも無く人の枠から破綻してしまっていた俺達を魅了した。
俺は呆けたままだった。口を半ば開いて、その花に圧倒されていた。だが、彼女ははっと思い出したようにまた前へと進み直した。
彼女を突き動かすのは、ただ"あの子"との思い出である。その事を、彼女と話すにつれて理解出来てきた。
人に共感する事は、その体験を、感情を食うことである。
例えば俺に唯一の友が出来たとして、そいつが殺人鬼であって、そのくせ唯一の理解者であったとしたら。そしてそいつが死んだら。俺はそれを認められなくて同じように犯行をそいつの存在をこの世から消さぬよう同じような犯行を企てるのだろうか。それはわからない。わからないが、例え僅かにでもやる可能性はある。そう想像することで、俺は彼女の行いに共感する事が出来る。
唐突に目の前から少女が消えた。ライトで前方を照らせど、その姿はやはり無い。もしかしたら転落したのかもしれない。そんな最悪と言うべき状況を想定をする。だが、俺は進行方向を変えずに歩を進める。別に自分が死のうが生きようが俺はどうでもよかった。ただ彼女の安否だけを知りたかった。
その先は奈落ではなかった。背高草の道を抜けると、最端部が視界の奥へ突き出した、岬のような場所がそこにはあった。その視界の奥から風がくすぐる。彼女はこちらに背を向けて、ただ野に咲く一輪の花のように強く立っていた。吹く風に彼女の夜闇よりなお黒い髪が絡まることなく揺れる。彼女はポニーテールで纏めていた髪を解いていた。
「……咲いてなかったわ」
無機質な声が風に乗って俺に届いた。
「まぁまだ何処にも咲いてなかったからね」
「……それでも、咲いてるって信じてたわ。ふ……、奇跡って、願ってしまったら起きないものね」
俺は無言で立ち尽くす彼女へ歩み寄る。彼女のその黒髪は艶やかに踊っていた。その髪を掬ってやりたくなる。だが、そんな事より、俺はスマホの覚束無いライトに照らされた先にある一輪の花を見つけ、そしてそれを指さした。
それに気づいた彼女はゆっくりとその髪を揺らしながら歩み寄る。壊さないように、崩さないように、労るように。俺もその後ろをついて行く。歩み寄ってはっきりと照らし出されたそれは、たった一輪の白い彼岸花だった。それは、岬の最先端に吹き荒ぶ風に耐え、強く咲いていた。
「……ああ、待っててくれたのね」
愛おしそうにその花の花弁を撫でる彼女は、おもむろにズボンのポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。そして今にも風に煽られ折れてしまいそうなその花の茎をナイフで切り、摘み取ると、あろうことか岬の先の奈落へと放り投げた。俺は奈落の底へ落ちゆく白い彼岸花をライトで追った。意外にも近い場所で花は着地した。花の落ちた先を照らす明かりはゆらゆらと揺らいでいて、どうやら岬の先は池か湖らしい事を知った。
彼女はしばらく、ライトで朧気に照らされた彼岸花を眺めていたが、一つ、何か充足感を感じられる溜息を漏らすと物言わず立ち上がって、そして踵を返した。
「もういいの? 」
彼女はこちらを振り返る。
「……ええ、もうお別れはすんだわ」
酷く無機質な声に戻っていた。そして、彼女はまた背高草の獣道へ歩を進める。
「これから何処に行くの? 」
「……高い所に行きたい」
彼女はもう一度こちらを振り返って、懇願するようにそう言った。
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