闇に咲いた花
「綺麗だと思わない? あのイライラするくらい眩しい街が、ここじゃ一望出来るんだよ。ここに来ると、人間の繁栄が愚かに思えてくる。所詮は少し離れた高台に来れば、一人の人間の視界にすっぽり収まってしまうんだよ」
一時間ほど歩いて、俺は街外れの山の中腹に建てられた展望台へ彼女を引き連れやってきた。
彼女はその瞳に、地に煌びやかに輝く人工的な星々を写す。彼女の瞳は凪いだ湖のように穏やかだった。鏡のようにも思えるその藍色の瞳は、ただ街の光を写している。
そして、彼女は展望台の転落防止の柵を猫のように身軽に飛び越えた。闇より黒い髪が宙を切り裂く。
柵の向こうの僅かな足場に彼女は立っている。俺は柵にもたれかかり、彼女の背を見つめた。俺は手を伸ばせばその陶器のように白く綺麗な腕を掴むことも、そのか細い背を押して眼下の街の星海へ突き落とすことも出来た。
彼女は何処か嬉しそうに微笑みながらこちらを振り返った。
「……不思議ね。ここから街を見下ろすと、まるで自分が偉くなったように思える」
「はは、わかるよ」
場違いな、価値の無い言葉を交わす。彼女は己の死に場所をじっと見ていた。絶壁の下から吹き上げる風に前髪が揺れて、何本かが艶めかしく唇に引っかかる。
空は端の方が白んできていた。もうすぐ夜の闇を茜空が焼き尽くす。あの月下美人は萎んでしまうのだろう。そして、目の前の彼女も。
「……ああ、私にもう夜明けは要らない」
彼女はもう前だけを向いている。彼女の声は無機質で、その気配は凛として美しく、だけど濃厚に、死の匂いを纏っている。
友を喪い、記憶を失い、人を殺し、そしてこれから自分も殺す。どうしようも無く不幸で身勝手で壊れた彼女は、それでもどうしようも無く綺麗だった。そして、これから死をもって彼女は完成するのだという予感が俺の身体を震わせていた。
一際風が強くなった。そして、冷たい。肌が粟立つ。まるで世界が、彼女の死を悟って舞台を用意しているようだった。
「……今日はありがとう。そしてご馳走様。貴方たらしだから、私を落とそうとか思っていたのかもしれないけれど、それも徒労に終わっちゃったわね。一応謝っておくわ」
「はは、今言う事かよ……あと落とす気はありません」
舞台を整え、台本通り事を進めようとする世界をからかうような俺達のセリフに笑みが耐えられなくなる。
「……今しか言えないから」
動揺しているのか僅かに声がうわずっていた。
そうだなと俺は笑う。死んだようでありながら最期まで人間らしさを、不純物を捨てきれない彼女が最早愛おしいとまで思えてくる。
「それじゃあこの辺りでさよならね。貴方たらしだけど、そんなに嫌いじゃないわよ」
もう彼女は振り返らない。だが、微笑んでいるのがわかった。彼女は死を前にしてまた一つ強く、成長しているようだった。
彼女は最期に懺悔するように死にゆく夜空を仰ぎ見た。
「……最期まで名前、思い出せなかったわ。それに、人まで殺して。……今になって思ったけど、貴女そんな事望んで無かったよね。今更気づいてしまったわ。ごめんなさい。……私も今行くわ」
その時、世界が歓喜するように、または激怒するように、突風が吹き荒れた。足元に散らばっていた落ち葉は軒並み吹き飛ばされ、彼女の髪はたなびいた。そして、その髪はぴょんと一つに跳ねた。彼女が一歩を踏み出した事を把握した刹那、気づけば俺は手を伸ばしていた。もう片足が地を蹴る前に、俺はその握れば崩れてしまいそうな程か弱く、そして陶器のように白い腕に手を伸ばす。
「奇跡って願ってしまったら起きないものね」
彼女が吐いた言葉を思い出す。当然だ、と思う。願っただけでは奇跡は叶わない。だが、行動してどうにかなる問題であるならば話は別だ。故に今、奇跡は起こらない筈が無かった。俺は彼女の酷く細い腕を掴むともう片方の手も使って乱暴に持ち上げて、そして生と死の境界の役割を果たす柵のこちら側へどうにか引き戻した。
「な、何で?」
彼女はへたりこんで目を丸くして呆けていた。
「……君に月下美人は似合わない」
月の無い日に一夜代わりに白い花を咲かせて朝が来る前に萎んでしまう、月の下に咲く儚い美人なんて彼女には似合わない。だがそれは俺の勝手な主観である。
「……何よそれ」
故に彼女の落胆は正しい。
「……はは、それに言ったろ。一目惚れしたって」
「……貴方、頭おかしいんじゃないの? 」
彼女は吹き出して笑った。感情が処理できていないようだったがそれでも何処か吹っ切れたように笑っていた。
風がひゅうひゅう啼いていた。時折地面に散らばった落ち葉をくるくるかき混ぜてはバラけさせる。不機嫌そうに思えた。
この世はきっと、何かの舞台だ。今、それをはっきりと自覚する。俺達が生きるって事はきっと自身に与えられた役割を演じるって事なんだろう。
それに無意識の内に気づいてしまっていたのが、きっと俺の退屈の理由。だが、今俺たちはその台本を台無しにしてやった。愉快だった。心から俺は笑った。
「出会ってくれてありがとう」
そして心からその言葉を吐いた。彼女の深い海のような瞳には屈託の無い笑顔を浮かべる俺が写っていた。
「……こちらこそ」
無機質な声だった。もう彼女は元通りの美しさを取り戻している。乱れもくすみも無い、ただ純粋な死の匂い。
ああ、どうしようも無く綺麗だ。彼女が声を発す度、その闇よりなお黒い髪が揺れる度、俺の心はドクンと脈打つ。
嗚呼、俺は。
「俺はきっと君に出会うために生まれてきたんだ」
「この女たらしめ」
彼女は表情に出さぬまま鼻で笑った。
嗚呼、この結末は予め仕組まれた虚構劇だったとしても、誘導されてきたのだとしても。俺は退屈より幸福を選んでしまう。やはり台本通りにその言葉を吐いてしまう。
「それに俺はきっと、君に殺される為に生まれてきたんだ! 」
だから、結末としてその頼りないナイフで俺を殺して欲しかった。
だが、その願い叶わず、彼女の背は遠くなる。彼女はもう二度と振り返ることは無かった。彼女は二度世界を裏切る。俺は彼女が視界から消え去るまで、いつまでもいつまでもその背中を見送った。もう彼女の後ろを歩くことは出来なかった。
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