ひとつの最終話 桜

 

 そう描かれた小説を、僕は無言で閉じた。

 

 そこに書かれている物語はどうしようもなく切なくて、胸が苦しいほどに幸せにあふれていた。



 僕は周囲を見渡す。なだらかな平面が続く寂しげなこの場所にも、架空の世界と同じように薄紅色が舞っていた。


 柔らかな陽光。青い空。そのどれもが春という季節を訴えかけていて、涙が出るほどに悲しかった。



 あの日、沙希の手術は成功しなかった。


 僕はそれを伝えられた瞬間、なにを聞かされたのか理解できなかった。


 わけがわらなくて、なにを言っているのかがわからなくて。今まで書き進めてきた完成間際の僕と沙希の物語を考えもなしに読み返して、読み返して、読み返しながら沙希と過ごしたかけがえのない時間が脳裏をよぎって、沙希の顔を想い出して、ふとした瞬間にその言葉の意味を理解してしまって、途端に自分が何者なのかも忘れてしまった、あの暗い絶望を想い出す。


 無意識に手に持ったハードカバーの本に目が向く。僕と沙希の物語を完成させた気持ちの正体は、正直、今でもよくわからない。沙希の叶えられなかった夢を、せめて小説の中では叶えてあげたかったからなのかもしれないし、それ以外のなにかが強くあったのかもしれない。


 ハードカバーに綴られた本のタイトルは、終わる季節のプレリュード。


 十二月の冬、終わる季節に少年は少女と出逢い、恋をする。夢を懐く少年と夢を諦めていた少女は、やがて同じ未来を見つめ、そして幸せを掴む。二人は真っ白な未来を進んでいく。なにかが少し違えばあったかもしれない、僕らの物語。去年の冬を舞台に描かれた、始まりになるはずだった物語。


 そして、今日から本屋に並び始める、僕のデビュー作。

 少なくとも、僕たちの望んでいた未来は読者の心の中で生き続けていくのだろう。


「小説家になる夢、叶えたよ。沙希」


 大好きな人が眠る墓前に小説を手向け、僕は涙を流した。

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終わる季節のプレリュード 春花夏月 @haruka7tuki

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