ひとつの最終話 『終わる季節のプレリュード』


 電車に揺られること一時間。目的の駅に到着すると、滑り込むようにタクシーに乗り込んだ。額に浮かび上がる汗を拭いながら腕時計で時刻を確認する。二時一五分。もちろん、午前でなく午後。


「すいません。到着するの、何時頃になるかわかりますか?」


 若い運転手に訊ねると、やはり返ってきた答えはあまり顔色によろしくないもの。


 四五分ですか、そうですか。


 冷や汗を感じる。

 手に抱える花束の上にぽつりとしたたったこの汗は、一体どちらの汗なんだろう。


 結論から言うと、遅刻。

 けれど、言い訳をさせて欲しい。これでも時間には充分、余裕をもっていたはずなのだ。


 ただ、出かける前に少し時間もあるから原稿の最終チェックでもしようかな、なんて軽い気持ちでノートパソコンの電源をつけたのが間違いだった。原稿を読んでは気に入らない場所を見つけて訂正するわで、時間は彗星のように流れ、気付いたときには遅刻をまぬがれないまでになっていた。


 やってしまった感が半端ない。こうやって思い返してみると、言い訳になっている気がしないのが、またどうしようもなく情けない。


 本来の予定から一五分後れで目的地に辿り着いたタクシーに運賃を払い、地面を踏みしめる。


 花束を手に抱え、息をひとつ。


 自分の失敗を取り敢えず置いて、胸から込み上げてくる喜びに身をゆだねる。



 ―― 今日は、僕らが望んでいた特別な日だ。




 薄紅色が風に吹かれ、音もなく彩っていく。


 タクシーから降りると、鮮やかなその色に心が静かに奪われた。


 ため息がこぼれるほどに誇らしく、優雅に、満開の花を咲かせる周囲の桜の木が、大学病院前を春色に染め上げている。


 正面入り口前に立つ彼女が、僕の姿に気が付く。


 退院祝いの花束を大事そうに抱えている彼女の元に、僕は駆け足で向かった。


「遅刻」

 ショートヘアの女の子は、すねた表情で僕に文句を告げた。


 ……ごもっとも。

 一言二言、謝罪を口にする。


 そして、僕はあこがれ続けていた言葉を彼女に送った。


「退院、おめでとう」


 沙希の瞳が、柔らかく壊れる。

 嬉しくてたまらないという顔で僕を見つめ、涙を浮かべながら微笑んでくれる。


「ありがとう」

 沙希は涙を含んだ声で、そう言った。


 花屋で奮発ふんぱつした、退院祝いの花束を沙希に渡し、僕らは自然と笑みをこぼしていく。幸せで、温かな時間だった。


「でも、遅いよ。わたしが出てくる時にいてくれないと」


 目尻にかすかに浮かぶ涙を拭いながら、沙希は不満そうに言う。


「ごめん」

 それに関しては、いくら謝っても足りないように思う。


 僕らがずっと焦がれるように願い続け、祈っていたこの日に、よりにもよって遅刻をするなんてきっと、許されないことだと思うから。


「……少しだけ待ったよ?」

 いたずらっぽい声だった。「これから取り返してよね」と沙希は言う。


 ふわりと、沙希は僕に右手を差し出した。


 それはあの日、失敗した沙希から僕への無言の合図。

 肩がけのバックから、僕はプリントアウトした原稿を取り出す。クリップで留められたそれは、今日ようやく書き上げた僕と沙希の、大切な軌跡きせき



 始まりは、僕らが出逢った雪の降り始めた日。

 そして物語のラストは、沙希が退院する、今日という日。



 沙希に届けたい言葉があった。

 いつの日か、告げようと心に決めていたかけがえのない想いがあった。


 書き終えた原稿を沙希に手渡し、緊張を携え、僕は想いを声に乗せる。

 告げた想いの結果がどうであれ、僕らはこれから未来へと進んでいく。


 沙希はゆっくりと口を開いた。――


 ◆

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