病院の想い出

 幼い頃から、病院にはけっこう縁がある。


 いちばん古い記憶は、廊下で食べたボウリングのピンの形をしたパン。私は三歳か四歳くらいで、父と一緒に母の治療が終わるのを待っていたのだと思う。散歩かどこかからの帰りだったのか、バイクが猛スピードで向かってきて、私の手を引いていた母は私を思いきり突き飛ばし、バイクを避け損なって脚を引っ掛けられたのだそうだ。

 大きくなってから詳しく聞いた話では、バイクに乗っていたのはまだ高校生の野球部の少年で、もちろん無免許だった。入院中、毎日泣いて詫びに来るその子を、母は許した。ただ、「もしも子供が取り返しのつかん怪我でもしてたら、殺されても文句は云えんかったで?」と、脅し文句だけはしっかりと伝えたそうだ。

 その当時の私は幼すぎて、まだ何事が起こっていたのかなにもわからなかったけれど、真っ白な病院のどこまでも続く長い廊下と、パンが美味しかったことだけ憶えている。



 それからもう少し成長して、五歳頃から小学四年くらいになるまでは、とにかく喉が弱かった。ちょっと風邪をひくとすぐに扁桃腺が腫れる。すると病院に連れて行かれるわけだが、私は「口を大きく開けてー」と云われて舌を押さえられるあの診察と、喉の奥に薬を塗布されるのが大っ嫌いだった。よく医者の顔に向かって吐かなかったものだと思う。

 喉は今でも強くはない。一時は一日三箱も煙草を吸っていた私だが、喘息を発症して、医者に「やめないと死ぬよ?」と脅されてしぶしぶ禁煙した。禁煙がスムーズに成功したのは、それまでに二度子供がお腹にいた期間があり、ちゃんと吸わずにいられると知っていたからだと思う。妊娠を知ってから授乳を終えるまで、一本も吸わなかったという自信があったのだ。ただし、二人めのときは母乳をやめてミルクに切り替えるのが早く、そう決めたその日に吸い始めたが。

 喘息の発作はつらかった。このまま窒息して死ぬんだと覚悟したことも一度や二度ではない。幸運にも友達の小さな吸入器メプチンエアーでごまかしごまかし病院までもたせることができて、なんとか死なずにすんだ、なんてこともある。

 病院では、気管支拡張剤を入れた大きな吸入器ネブライザーをつけられて呼吸をする。そのあいだは、退屈ではあるけれどとてもほっとできた。息ができる幸せって感じだった。

 自分用のメプチンエアーを持っていなかったのは、偶に発作を起こしたときにもらうだけで、次に発作を起こすまでになくなっているからだ。なんともないときは本当にまったく症状が出ず、風邪が酷くなったときだけひゅーひゅーぜぇぜぇ云い始めるのだ。もうあかん、死ぬと思うまで病院に行かない医者嫌いなのでこうなる。良い子は真似しないように。



 喉繋がりで話が前後してしまったが、一人めの子を帝王切開で産んで退院してから、四日めの夜だった。突然、腹部に強烈な痛みを感じ、私はキッチンで蹲ったまま動けなくなってしまった。人生なんだかんだと五十年近く生きているが、あれ以上に痛い思いをしたことはない。お腹を抱えて身体を折ったまま動けず、額には脂汗が滲み、声も出せない。呑気に「そんなとこでなにしてんのん」と訊いてきた旦那に「きゅ、きゅ、救急車呼んで……!」と云うのが精一杯だった。

 救急車に乗せられたが、痛みのため仰向けになることができなかった。変な姿勢で横になり、病院に着いて再び仰向けにさせられたが、私が悲鳴をあげたためびっくりした看護師さんがでいいと云ってくれた。

 痛む腹を抱えたままいろいろ検査にまわされたが、なかなか原因がわからなかった。だから薬もなにを使っていいかわからなかったのだろう、すぐには痛みから解放されはしなかった。

 そのまま入院ということになり、病床がそこしか空いていないというので私はがらんとした一人部屋で過ごすことになった。が、なにしろ出産してまだ二週間しか経っていない。お乳が痛いほど張るが、傍には赤ん坊の姿がない。消えない腹部の痛みも相俟って、発狂しそうだった。旦那は子供を連れて実家に行ったため、真っ暗な病室でひとりきり。自分の親は遠方。本も音楽もない。おまけにホルモンの所為でいろいろおかしくなっている。真剣に薬品庫でも荒らしてこようかと思った。

 三日めくらいにやっと診断がでた。胆管炎。大きくなりすぎていたお腹の所為で詰まっていたのではないかということだった。そんなことあるん? と思ったが、予定日を過ぎても下がってきもせず、レントゲンを撮って通常分娩は無理と帝王切開が決定した一人めの子は、四千グラム超えだった。胎盤もびっくりするほど立派で臍帯も太く、術前と術後で十四キロも減っていたから、あるのかもしれない。

 原因がわかれば点滴するだけ、ということで、しっかり治して二週間くらいで退院することができた。そのあいだ、毎日ひたすら搾乳し、看護師さんに頼んで冷凍、旦那が来ると持ち帰ってもらった。

 救急車に乗ったのは、このときが二度めだった。初めて乗ったのは、母が運ばれたときだ。



 話はまた遡る。私が十七歳のときのことだ。母とふたり、アパートに住んでいた頃。夜中に突然どんどん、どんどんと壁を叩く音がした。私は目を覚まし、なんだろうと思いながら部屋を出た。隣の襖を開けると、母が痛い痛い、救急車を呼んでくれと私に訴えた。

 ところがその頃は、携帯電話はなかったわけではないようだがまだほとんど普及しておらず、ポケットベルが活躍していた。携帯電話はもちろん持っておらず家に固定電話はなく、救急車を呼ぶにはアパートから少し歩いて、公衆電話まで行かねばならなかった。

 119にかけ、私は部屋に戻ったが、なにもできずに母の様子を見ておろおろするばかり。母に云われてようやく母のバッグや保険証、羽織るものなどいろいろ用意して、私は外で救急車の到着を待った。

 母は結局、ぎっくり腰の酷いやつ、くらいな感じで重い病気などではなかったが、それでも動けるまではどうしようもなく二週間ほど入院した。

 思いだすのは、救急車で運びこまれたその夜。私は帰る手段もなく、母のベッドの傍で一晩過ごしたのだが、たぶん一生のうちいちばん長い夜だった。椅子しかないし、眠ろうという気にもなれない。いろいろ不安なことはあるけれど退屈で、夜の病院を探検したりもした。その頃はもう小説のようなものを書いていたので、ノートを持ってこなかったことを悔やんだりもした。

 今の時代ならたいていスマホを持っているだろうし、時間を潰すには困らないだろう。でもあの頃、本でも持っていなければどうしようもなかった。否、暗かったので本も読めなかったかもしれない。

 余談だが、母の入院中、毎日顔をだしていたところ、どうせなら看護補助のアルバイトをしないかと婦長に云われ、白衣を着た。婦長は私が中卒であることを知ると、看護学校に入って資格を取りなさいと熱心に云ってくれた。だが私は、せっかくですがと断った。しばらく看護師さんの助手的なことをしてわかったが、自分には向いていなかった。なんというか……弱っている人が苦手なのだ。

 私がしていた仕事といえば看護師さんといっしょに朝の検温にまわること、洗濯、滅菌済みの包帯を巻くこと、消毒液を作って綿ワッテを浸しておくこと。あとはガラス製の注射器を洗って煮沸消毒することくらいのものである。



 上の子が入院したこともあった。たいしたことはなく、三日間ほどだったのだが、まだ三歳だったので私はつきっきりでいなければならなかった。だが、そうは云っても私もトイレに行くしちょっと飲み物を買いにも行くし、子供から離れることはある。

 あるとき、よしよし眠ったと、ちょっと病室を離れた。ほんの僅かな時間だったが、戻ったときベッドの上に子供の姿はなかった。飛びあがらんばかりに驚き、ベッドに駆け寄ると子供はベッドの向こう側に落ちていた。点滴の針が抜け、あちこちに血が飛んでいた。慌ててナースコールのボタンを押し、泣きもせずきょとんとしている息子の代わりに泣きわめいた。

 「落ちたんです! 点滴が! 血が!」とパニック状態になった私を落ち着かせ、看護師さんは先生を呼んできた。診てもらったところ子供はどこも打ったりはしておらず、落ちたのではなくおかあさんを捜しに降りようとしたんでしょうねーと云うことだった。



 この他にも祖父やら母やら義母やら義父やら旦那やらの見舞いに行ったり、また自分が世話になったりと、忘れた頃に病院という場所には何度も足を踏み入れている。

 病室で過ごした夜の、あのなんともいえない寂寞感も忘れられないが、それ以上に残っているのは、寄り添ってくれる看護師さんたちの優しさと素晴らしい仕事ぶりだ。白衣の天使という言葉があるが、本当の天使よりもっと上等じゃないかと思える、慈愛に満ちた存在。具合が悪く、不安で心までもが弱っている患者に、看護師さんたちはいつも優しく、ときには厳しく接してくれた。術後、シャワーの許可がおりなかったときは、お湯で丁寧に身体を拭いてくれた。申し訳なく思いながらも、とても気持ちよかった。

 胆管炎で入院中、精神的に不安定で夜中に泣いていたときは、話を聞いて落ち着かせてくれた。別の夜の看護師さんはデパスをくれただけだったけれど――劇的な効き目に、これ、やばいなと思わず依存症になる人の気持ちがわかったりした。

 看護補助の仕事をしている最中に、患者さんから移ったのか発熱して具合が悪くなったときも。あらあら、あっちで休んでなさいと云われ、空いているベッドで休んでいると、看護師さんが注射を打ってくれた。それもとんでもなくよく効いて怖いくらいだったのだが――あれはいったい、なんの薬だったのか。

 『Junky nurseジャンキー ナース』なんて言葉を思い浮かべた、ローリングストーンズファンの私は、やはり看護師にならなくて正解だ。

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あの四つ辻を南へ下がって 烏丸千弦 @karasumachizuru

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