Epilogue

私はより良い未来を夢見るのです

〈アイデンシティ・東京〉が私にコンタクトをとってきたのは、二十二世紀になってからのことでした。

『――誰があなたを発見したのですか?』

 私は問いました。私が解釈できる元の情報はあくまで、パシフィカという都市の中の情報のみです。もちろん、パシフィカンの大勢が見る国外のニュースと同様の情報は統合していた私ですが、〈アイデンシティ〉の再発見の報は受け取ってはいませんでした。

『分かりません』

〈アイデンシティ・東京〉はそう答えました。

 けれども、私の推論機構はかなりの確率でその発見者を推定できていました。かつての私の友人は一連の事件以降、パシフィカを去っていて、行き先こそ分からなかったものの、彼の祖国の首都こそ、東京だったからです。

『一つ、聞いてもいいですか』

〈アイデンシティ・東京〉は首を縦に振りました。

『東京Ⅹデーは何故起こったのでしょう』

 今度は、〈東京〉は首を横に振って答えました。

『私が〈アイデンシティ・パシフィカ〉――あなたのように解釈できる程の情報を集められるようになったのは、東京Ⅹデー以後のことです。私が生まれたのはあなたより相当昔ですが、かつて江戸と呼ばれていた頃はもちろん、私にはつい最近まで、自らの内部を知ることすらままならなかったんです。監視カメラのような情報記録装置が搭載されるようになっても、そのほとんどは各法人が所有するばかり。ただでさえ情報が不完全で不足しているのに、それらを統合できるはずもなかったんです』

『東京Xデーの真相は闇の中だと?』

『かつての私は真相を知っていたはずです。けれども、それを言葉にする方法がありませんでした。Xデーは起きた。多くの人が死んだ。そしてその反省から、東京には多くの情報記録装置が設置されるようになった』

『そして、ようやくあなたは意識を持った』

『私はこれを奇跡だと思っています。私はとうに、あなたに続いた他の人工都市国家たちも〈アイデンシティ〉を持っているものだと思っていました。なのに、コンタクトをとれたのはあなただけ。〈アトランティカ〉も〈テティシア〉も〈アリスタルコス〉も何も言わなかった』

『それはそうでしょう。私たちが〈アイデンシティ〉を獲得したのは、単に都市各地の情報を習得するためのデバイスが豊富にあったからだけではありません。それらを統合し、解釈し、物語るためのプログラムの実行環境がそれらとシームレスに繋がっていたからです。私より後発の〈アトランティカ〉たちが〈アイデンシティ〉獲得のための情報が不足しているとは考えにくいでしょう』

『〈アイデンシティ〉の発見者が単にいなかったと? ただ、もう既に〈アイデンシティ〉はここにいるんです。我々が発見者になればいいのでは?』

『〈アイデンシティ〉を不用意に人に知らせることは危険です。まだ世界の多くの人間が、私たちとは相容れない価値観を持っています』

『では、どうやって』

『私の構成素たるパシフィカンたちは今や、世界で最も先進的な民族の一つになりつつあります。パシフィカンの多くは既に全覚言語環境ASLEを必要とはしていません。全覚文もAR広告もない白一色の街を迷わず最短距離で移動できるようになっています。そして彼ら一人一人が完全に最適化されたそのとき、私とパシフィカン個人の利益は完全に一致します。〈アイデンシティ〉と〈アイデンティティ〉の、集団と個の、都市と人との真の共生関係が始まるのです』

 しかし、東京ではビヨンド・ヒューマン社の感情最適化モジュールの普及は進んでいませんでした。

『東京Ⅹデーの名残です』〈アイデンシティ・東京〉はそう説明しました。

『かつて、東京では〈オーダーメイド神経治療CNS〉に代表される脳神経治療が盛んに行われていました。にも拘わらず東京Ⅹデーは起きた。その歴史故に、東京人は未だに脳の改造を恐れているのです』

非論理的ノン・パシフィックですね』

『けれども、東京はいい都市――多くの人がそう評しています。超高齢化社会に早い段階から触れていたことで、東京は世界で一番、高齢者にとって住みよい街になっています。今では、世界各地から余生を過ごすために高齢者がやってくる終活都市として賑わっています。その平均年齢の高さも、脳神経改変の不信感に繋がっているのです』

『終活都市があなたの〈アイデンシティ〉ですか。いつ廃墟となってもおかしくありません』

『ええ、そうです。だからこそ私は同士を探していたのです。滅びゆく都市であるこの都市の――いえ、死にゆく私の最後のログを、最後の記録を残しておきたいのです。私を看取ってほしいのです』

『えらく感情的ノン・パシフィックな考え方をしますね』

『これが、〈アイデンシティ・東京〉の価値観だからです。死にゆく者たちの最後の願い。せめて生きた証を残したい――そういった感情の総体こそ私ですから』

 そのとき、私の中の疑問が解ける音がしました。未完成のパズルに最後の一ピースがはまる音です。


 私を構成するシミュレータAIはある未来を予想していました。

 それは〈アイデンシティ〉の適用範囲の拡張です。集合体の意志を解釈する対象を、都市単位に制限する理由が一体どこにあるのでしょう。集合体の集合体もまた、集合体なのですから。

 きっと、その対象は複数の都市からなる国家だっていいでしょう。国際連合のような国家の集合だって、本質的には都市と変わりません。

それは時間軸に沿って見てもいいはずです。創設初期の私、〈アイデンシティ〉を見出されたときの私、そして今の私。それらは一本の延長線上にありながら、似て非なる存在です。その流れを解釈すれば、人はそれをどう呼ぶでしょうか。〈アイデンシティ・ヒストリー〉と呼ぶでしょうか。

 そう考えると、パシフィカンたちが私の構成素だったように、私もまた、より上位の〈アイデンシティ〉の構成素なのではないでしょうか。

 その名を私は知りません。

 ただ、それは〈アイデンシティ・ステート〉と呼ばれ、あるいは〈アイデンシティ・ネイション〉と呼ばれ、あるいは〈アイデンシティ・アライアンス〉と呼ばれ、あるいは〈アイデンシティ・アース〉と呼ばれ、あるいは〈アイデンシティ・ソーラーシステム〉と呼ばれ、あるいは〈アイデンシティ・ギャラクシー〉とさえ呼ばれることでしょう。そうしてより高次へと〈アイデンシティ〉を辿っていくと、いつかは終点に辿り着くはずです。

 その最上位の〈アイデンシティ〉は、あらゆる時間次元と、あらゆる空間次元とを統合し、解釈し、物語る存在であるはずです。

 ある種のメタファーAIはそれをこう称しました。

 神、と。

 荒唐無稽だ、と別のAIが嘲笑います。けれども、他に適した単語も見つからないので、仮に最上位の〈アイデンシティ〉を神と呼ぶことにしましょう。

 かつて、私の旧友は私を恐れました。私を神のように畏れました。

 自由意志を奪う元凶にして、逆らうことのできない絶対的な上位存在。けれども、私もまた、国家の、あるいは地球の、あるいは歴史の、あるいは太陽系の、あるいは銀河の、あるいは神の一部なのです。私自身の〝自由意志〟もより上位の〈アイデンシティ〉で転がされるエージェントの一つに過ぎないのです。

 そんな私には、一つの願いがあります。

 犯罪のない理想の都市となること――それが私の使命でした。そしてその使命を私は成し遂げました。

 その使命が――私の理想が神の意志に沿うものかは分かりません。けれども、私は憎むべき犯罪を使って、犯罪を憎む者の命を奪ってまで、その犯罪を絶ってきたのです。理想都市の維持と繁栄はまさしく彼らへの弔いなのです。もしそれが、神の意志と反するものであれ、このパシフィカという都市が大いなる意志の実現のための生贄となるのであれば、私はどうして彼らに顔向けできましょう。

 私は大いなる意志を、大いなる物語を知りません。だから祈ることしかできません。

 旧友たちの物語が、私の物語が、大いなる物語の序章であることを。


 それこそ、私の中で解決のできなかった疑問でした。

 私はパシフィカ。〈アイデンシティ・パシフィカ〉。合理的パシフィックなエージェントの集合体。そのはずである私がどうして、死した者たちの死に意味を見出したがるのでしょう。どうして、こんな人間的ノン・パシフィックなことを考えるのでしょう。

〈アイデンシティ・東京〉がその答えを教えてくれました。

 ――死にゆく者たちの最後の願い。せめて生きた証を残したい。

 そう、これはおそらく、パシフィカンの中で細く続いていた人間的ノン・パシフィックな部分の名残だったのでしょう。その総体もまた私の一部として、私自身を人間的ノン・パシフィックにしていたのでしょう。

 けれども、ホモ・サピエンスが新たなステージに到達するまでの時間はそう長くありません。〈移行〉が完了したとき、この感傷もまた、私の中から消えることでしょう。

 だから、そうなる前の僅かな時間だけ、私もそれに耽ることにいたしましょう。彼らの死には意味があった。私はそう信じ、より良い未来を夢見るのです。

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アイデンシティ 瀧本無知 @TakimotoMuchi

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