ホモ・サピエンス万歳
〝エイワ・ベック率いる〈ロスト・ワン〉たちによる〈ユイ〉、
中間選挙で第二党の
しかし、自由意志党は本選では大敗を喫しました。これはその責任を取る形で党首を退くことになったファルシードの政治家引退会見でした。
「リークされた映像は本物だったんですよね!」
報道陣の質問に対し、長髪を後ろで束ねるファルシードはしおらしく俯いたまま、固い口調で答えます。
「その映像にはいかなる加工も加えられておらず、すべてありのままの真実でることを認めます」
彼が認めると、改憲会場がざわつきました。
「つまりあなたは――」別の記者が詰め寄りました。
「自らの不利益に対する不平、不満を発散するために自由意志党を設立し、多くの者をたぶらかしていたということですね?」
ファルシードは肯定こそしませんでしたが、否定もしませんでした。
匿名の投稿者がパブリックなネット環境にアップロードした映像は、その投稿者の視点映像で撮影されたもので、その会話の相手こそこのファルシードでした。メディアは既に撮影現場を全覚文失読者たちのコミュニティであることを突き止めており、そこでファルシードが放った会話の多くがパブリックに流出していました。
――自ら思考することを放棄し、
――俺自身の感情です。多くのパシフィカ在住者は
この一連の会話は多くの自由意志党支持者を失望させました。自由意志を重視する一見してアンチ・パシフィックながら、何層にも理論武装し、多くのパシフィカンを取り込んできたファルシード。その実態は、
ファルシードはその会見で持ち前の話術を披露しませんでした。丁寧で機械的な言葉遣いを徹底し、言い訳がましいことは言わず、事実関係を認め、心よりの深い反省の色を見せ、そして政治家を引退することを誓ったのです。
それが今、ファルシードにできる最善の言動でした。何も手を打たず、潔く非を認める。それこそ、最も
会見はあっさりと終わりました。報道陣は機材を片付け始め、ぞろぞろと帰路につき始めます。ファルシードは席を立たずに、その様子を見続けていました。
彼が長髪を束ねていたゴムを外し、投げ捨てたのは突然のことでした。くせのついた長髪がたちまち暴れだし、彼の顔を隠しました。誰一人、その様子には気が付きませんでした。
帰りゆく報道陣の無防備な背中に向かって、彼は叫びました。
「あんたらは本当にこれでいいのか!」
誰もが足を止め、振り返りました。
ファルシードは壇上に上がり、ネクタイを投げ捨て、首を振って長髪の隙間から険しい目つきを覗かせます。
「大人しくしておけばこれ以上評価は落ちないぞ!」
報道陣の一人が叫びました。しかし、ファルシードは睨み返しました。
「評価? そんなものはとうに海底に沈んだ。今の俺に失うものは何もない!」
その覇気が、叫んだ報道陣を黙らせました。報道陣が皆足を止め、ファルシードの方に釘付けになっているのを確認すると、ファルシードは大きく息を吸い、そして吐き出しました。
「これは俺が残す、あんたらパシフィカンへの最後の警告だ」
報道陣はファルシードの最後の悪あがきを収めるべく、再びカメラを構えました。
「
チェンの後任のアリサ・ブルームが推進している新しいモジュール――感情最適化モジュールと呼ばれるそれが代表格だ。〈スマート・アイ〉のような人工器官の一つに過ぎないと思うかもしれないが、ほかの人工器官と決定的に違う点がある。何か分かるか?」
誰も答えません。
「パシフィカンは人工器官の導入にはひどく寛容だった。目ん玉くりぬいたり、男根をそぎ落とすことに抵抗を持つ者が少ない――それは五十年前の人々には異様に映っただろう。けれども、そんな平均人工器官導入数が二個を超えるパシフィカンですら、触らせなかった部分がある。人間の意志決定機構そのものだ!」
ファルシードは声を張り上げました。
「それがどういうことを意味するか、あんたらは本当に分かっているのか。これだけの効果を生み、人間を大きく変えた
けれども、感情最適化モジュールは違う。意志決定の外部サポートではなく、不適切な感情そのものをチューニングする。公共の場で発情しない。人を殴りたくなるほど怒りを覚えない。不幸が続いたとしても、確証バイアスを持たない。嫌いだからといって、その人の主張まで嫌いにならない。確かに、パシフィカンが努力と忍耐と、そして
報道陣の多くは呆然とファルシードの声に飲まれていました。けれども、いくらかは撮影をやめ、会場を後にし始めていました。
「本当は誰しも、自分という主体を大事にしたかったからだろう? 目ん玉くりぬいて赤外線を見えるようにしたり、男根そぎ落として新たなる性の快感を取り入れたりしても、それはあくまで自分の能力を拡張しているに過ぎず、自らのアイデンティティに手を入れるものではなかった。でも、意志決定機構をいじればどうなる? それは昨日までのあんたらと同じ人間なのか? 同じだ、と自信をもって言える人間がどれだけいる!」
少しずつ正気を取り戻し、会場を去る者が増えてきました。それでもめげずにファルシードは訴え続けます。
「でも、それも今の代のパシフィカンまでだ。次の世代は自らの意志決定機構をいじることに何ら抵抗は覚えないだろう。ただ、考えてみてくれ。悪友と馬鹿やって騒いだり、懐かしい思い出話に浸ったり、アルコールが見せる幻に溺れてみたり――そんな俺たちの文化も、思い出も、余興も、すべて海の藻屑となるんだぞ! これは今までの技術発展とは一線を画する。人類の能力拡張じゃ済まされない。一旦脳に手を入れれば、あとは時間の問題だ。彼らは俺たちの言葉が通じない存在になる。ホモ・サピエンスの時代が終わるんだよ! それでもいいのか!」
報道陣の一人が言い返しました。
「ならホモ・サピエンス号と一緒に沈むがいいさ!」
それを皮切りに、多くの報道陣がファルシードに背中を向けました。
ファルシードも言葉が尽きたようでした。彼にはもう、叫ぶことしかできませんでした。
「ホモ・サピエンス万歳!」
その響きに賛同する者はいませんでした。一人、また一人と会場を去っていくなか、ファルシードだけが虚しく声を張り上げ続けます。
「ホモ・サピエンス万歳!」
彼は誰もその声を聞く者がいなくなるまで、叫び続けました。
「ホモ・サピエンス万歳! ホモ・サピエンス万歳! ホモ・サピエンス万歳!」
ホモ・サピエンス、万歳。
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