私は感謝しているのです

〈ユイ〉はとても気が利く子だということを私は初めて知りました。そして私自身がそれを「意外」だと解釈しているということの「意外」性に私自身、驚いています。

〈ユイ〉は二人のために、結末に相応しい舞台を用意しました――そう解釈する蓋然性が最も高いのは何とも不思議なことです。

〈ユイ〉の用意した舞台はモジュール二十七――三の三乗――個分の立方体状の空間でした。外部に繋がる空隙は埋めるように、モジュールが立ち並びます。統語システムはこの状況をこう解釈しました。

 墓場、と。


「どうやって私を殺すつもりだ、〈パシフィカ〉。私は〈不覚者ノーセンス〉――お前の得意な全覚文は効かない」

 それは――。

「それはどうでしょう」

 まるで私の言葉をなぞるかのように武田が言いました。

「あなた方〈ロスト・ワン〉たちが作った後天的な全覚文失読。それは不完全なものなんです」

「馬鹿なことを言うな。私は全ロスト・ワンの中で最も厳重な遮断処置を施した。既知の全覚文すべてをシャットアウトできる」

「それは無意味なんですよ。全覚文は文字通り、ありとあらゆる刺激によってつくられた言語。その組み合わせによって任意の脳波パターンを想起させる学習不要の言語。これを完全に無効化するためにはどうすればいいと思いますか? すべての感覚を失う以外にないんですよ」

 バークは答えません。

「でも、あなたは違う。あなたの目は見えている。耳は聞こえている。既知の全覚文に対する相関バリデーションはかかっていても、あなたは感覚そのものを失った訳じゃない。その隙を縫って受話させられる全覚文は無数にあり、そして〈パシフィカ〉は既にそれを見つけている」

 バークは左目を細めました。「どういうことだ」

「アルジが教えてくれたんですよ。全覚言語オールセンスは再帰的に進化する。自らの進化によって自らの淘汰圧を操作できる。つまり、全覚言語系は自らの意志で進化の方向性を決定できる。つまり、今や全覚言語系は自らの意志で、自ら発したい全覚文を発話できる」

「全覚言語系に仇なす私を屠るための言葉は無数にあると?」

「そういうことです」

「なら、〈パシフィカ〉に私を認識させなければいいだけの話だ」

 そのとき、私の視界に無数のバークが現れました。


〈墓場〉を取り囲む四面、計三十六枚分のモジュール壁にはそれぞれカメラ型の記録装置がついています。エイワ・ベックお得意の迷彩技術もここでは通用しません。

「なるほど。迷彩が効かないなら、錯覚を利用すればいいと?」

 無数のバークたちは頷きました。

 私の目は――無数のカメラたちから集めた情報を統合し、解析することでデータを情報へと変換しています。しかし、あらゆる環境情報解析AIもその的中率は未だ百パーセントには及びません。そこで、複数のAIに分析させ、最も発生確率と思われる事象を正とする統合解析法こそ、私の「視覚野」が行っている処理なのです。

 しかし、さすが長きに渡って私の目を欺くことに人生をかけたエイワ・ベックです。彼が開発したであろうこの錯視迷彩は、数多のAIによる情報分析の結果、場所ごとに算出された人間の存在確率を複数個所で同じにさせるものでした。だからこそ、私の目には今、無数のバークが写っているのです。

 なるほど、この都市で長きに渡り〈ロスト・ワン〉として生きてきた男の遺産です。彼そのものは脆い人間であっけなくとも、彼が残した技術には目を見張るものがあります。

いや、それとも、これもまた錯視なのでしょうか。

「バークが無数に見えるか、〈パシフィカ〉」

『あなたの目には』

「見えてるよ、ただ一人のエン・バークが」

 案の定、この錯視技術は私の目だけをターゲットに開発されたもの。眼球そのものを人工物に置き換えても、生来の視覚野を持ったままの武田には効果がないようです。

 ――だが、お前に見えていようが、〈パシフィカ〉に見えていなければ、いかなる全覚文も当てられまい。

 バークは〈リュシャン〉を介してそう発話トラフィックを残すと、無数のバークたちは皆一斉に武田洋平に向かって銃を突きつけました。

 ――さあどうする、〈パシフィカ〉。お前の代弁者が黙って殺されるのを見るか、それとも私との交渉に応じる気になるか。

 けれども、武田は全く表情を崩す様子もなく、幾つかの表情分析AIに至っては微笑を浮かべていると表現した程でした。

 そして、私が答えるより早く、武田が口を開きました。

「〈天地鳴動〉、〈大海に抱かれよ〉」

 天蓋より地鳴りのような振動が降り注ぎ、床面より唸るような揺らぎが立ち上ります。

 ――互いに効果を打ち消しあい、文意喪失を起こす二つの全覚文か。何をするつもりだ、タケダ。

「あなたは〈不覚者ノーセンス〉だと言いましたね。でも、それでも防げない全覚文はある」

 轟音が〈墓場〉を満たしていく中、武田は指向声で答えます。

「たとえば、〈天地鳴動〉の強烈な圧素プレッシャレム反復素イテレイショニム――すなわち振動は、三半規管のリンパ液系に共鳴し、その流れを搔き乱す。人工器官で選択的にカットできるものじゃありません。でも、貧弱な音素フォニム系の〈大海に抱かれよ〉だけは違う。あなたの人工耳はこの全覚文だけをカットする」

 ――つまり。

「あなただけが、〈天地鳴動〉を食らうことになる」

 次の瞬間、無数のバークたちは一斉に同じようによろけ、同じようにこけました。バークの体躯が床を打つ音を捉えた無数のマイクがバークまでの距離を計算し、無数のバークを一つに絞りました。

 そして私の視界から一人、また一人とバークは消えていき、部屋の中央、ただ一人のバークだけが地面に伏していました。

 バークの感覚器官がむき出しになった以上、あとは容易いものでした。音素フォニムが、光素フォトニムが、粒素パーティクリムが、波動素ウェイビムが、熱素ヒーティムが、勾配素グラディエンティムが、速素ヴェロシティムが、圧素プレッシャレムが、電素エレクトロニムが、磁素マグネティムが、反復素イテレイショニムが、重力素グラビティムが、履歴素ヒストレムがバークの元へと波のように集い押し寄せていきます。そしてそれらを構成素とした名もなき潜伏全覚文がバークに覆いかぶさりました。

 ある潜伏全覚文は第三の腕の幻肢痛を以てバークの神経網を浸食しました。またある全覚文は排他的論理和の論理ゲートを転覆させ、その出力値を逆にしてしまいます。過度なまでの類像現象シミュラクラが荒波のようにバークの視界を搔き乱しかと思えば、フラクタル次元に色を与える共感覚が艶やかな色彩の濁流でバークを飲み込みます。高次元に展開された時間次元はバークの中の過去と現在と未来とを結びつけ、その乱流は記憶から言葉たちをもてあそんでいきます。

そして統語システムが解釈し、言語化できない程にまで達した無数の感覚刺激たちがバークを転覆させるのにそう時間はかかりませんでした。

 そして潜伏全覚文の津波が引いた後、最早動くこともままならないバークの背中にそっと手を添える全覚文がありました。

〈汝の罪を告白せよ〉。

 さすれば〈神はあなたの中にいる〉。


 * * *


「――私は、あくまでパシフィカンであろうとしたんだ」

 声を上げられるまで息を整えたバークは、膝をつき、床に視線を落としたまま、ぼそりと言いました。

「知っています」

 武田は静かに頷きました。

「数多の都市が人間の本質と社会の本質との齟齬に苦しみ、多くの問題を抱えていた。パシフィカは人類史上初めて、それを克服し得る可能性を秘めていた。〈ユイ〉、全覚言語環境ASLE、〈ローレライ〉……数多の技術が私たちを悲劇のない、最大幸福の社会に導いてくれると思っていた――そう信じていたんだ」

 信じる――そんな無根拠で非合理的ノン・パシフィックな言葉をバークが使ったことに、私は心底驚きました。けれども、別の分析回路はその文脈から安心に類似した特徴量を見出しました。この世に実体として存在しないもの。神、文化、掟、社会、貨幣、常識、法律、そして科学――そういった実体のないまやかしを信じることで発展してきたのもまた、彼らホモ・サピエンスだからです。

「だからこそ、私はこのパシフィカに巣食う最後の非合理ザ・ノンパシフィックを葬る――いや、弔うために原始犯罪課PCDに入った。PCDの至上命題は何か知っているか、タケダ」

「原始犯罪と共に自身が滅びること、でしたね」

「そうだ。いくらパシフィカが史上最も〝パシフィック〟だったとしても、それは完全ではない。だから私は未来の世代がそれを成し遂げられるよう、尽力するつもりだったんだ」

「でも、あなた自身が非合理ザ・ノンパシフィックに走った」

「私は何も、〈パシフィカ〉が滅ぼすべき巨悪だと言ってはいない。私自身も、そして〈パシフィカ〉も、どちらも合理的パシフィックだ。どちらもが正義なんだ」

「でも、あなたの正義は不幸の総量を増やしたんです」

「〈パシフィカ〉の正義は誰かに不幸を押し付けた」

「押し付けられた者の気持ちを考えたことがあるか――共感主義に屈したんですか、バークさん?」

「まさか」さすがのバークもそれは鼻で笑いました。

「私が言いたいのは、合理性の基準の話だ。何が正しくて、何であるべきか。私は当初、〈パシフィカ〉の抱える正義に同意していた。不幸の総量を減らすことが、幸福の総量を増やすことがよりよい社会への一番の近道であると」

「でもそれは時に、一部の弱者に不幸を押し付ける形の解へと収束することがある」

 武田が唐突にぽつりとこぼしました。バークが顔を上げました。

「ディファーという二次元をテーマにしたレストランがありまして、そこは二次元惑星での生命の発達過程を見ることができたんですよ。最初はアルジと二次元生命体の興味深い進化や社会形成に魅入っていたんです。でも、ある時からそこには異様な社会が広がるようになりました。弱者を糧にした社会が生まれ、いかなる社会もそれに太刀打ちできなかったんです。その巨大な社会実験が示唆することは一つ――一部の弱者に負の側面を押し付ける社会がより大きな力を持ちうるということです。つまり、そのような社会が発展し、他の型の社会を飲み込んでいく――それはある意味で必然なのかもしれません」

「それが、お前が〈パシフィカ〉に味方する理由か」

 バークは鋭い剣幕で言いましたが、武田はへらへらと流しました。

「どちらかと言えば、僕が〈パシフィカ〉に味方することになった必然性の根拠、とでも言うべきでしょうかね。最後に勝利するには総量最大化マックスサムなんです」

「お前の自由意志ではないと」

「自由意志!」

 武田は目を見開きました。そして一つ間を挟んでから、溢れ出る笑いを歯の隙間からぼこぼことこぼしていきます。

「自由意志なんてものをのは、とうの昔に止めました。僕が今こうしてここに立っているのは、僕自身の意志故ではありません。それは必然であり、決定された未来であり――いわば、運命なんです」

「私が〈パシフィカ〉にとっての必要悪になったのも運命だと?」

「さあ? でも考えてみてください。あなたが今ここにいて、こうなる結末を迎えたのは何故か。自分の意志が招いた結末と考えるのか、避けられない運命だから仕方ないと考えるのか。一体どちらが、僕たち自身の原始的な心にとって衛生上よろしいものか、〝パシフィック〟に考えれば言うまでもないでしょう?」

 バークも笑いをこぼしました。武田も更にこぼしました。真っ白で茫漠とした墓場の中で、二人は笑い転げました。何が彼らをそうさせるのか、それを説明できる、解釈できるAIは一つとしてありませんでした。

「私は負ける運命にあった。〈パシフィカ〉の描く合理的パシフィックな筋書きのために作られた敵であり、一つのチャプターの終わりだと?」

 バークの口調からは、あらゆる声調分析AIが諦念を抽出しました。

「そうです。それがあなたの運命です」

「だとしたら、私の敗北は人類の更なる発展の礎となってくれるのか」

「ええ、きっと。それがあなたの救いです」

「救い――とても、〝ノン・パシフィック〟な響きだ。でも何故だ。非合理的ノン・パシフィックだと分かっているのに、心の中の荒波が鎮まっていくのが分かる」

「それはそうでしょう、バークさん。だって、あなたも人間なんですよ。いつだって、気まぐれな感情にかき乱され、馬鹿だと分かっていてもそれを止められない。それを真に克服できた人間など、今まで誰もいなかったのだから」

「私はそれを克服したかった」

「何を言っているんですか、バークさん。それを克服してしまったら、もう人間じゃなくなっちゃうじゃないですか」

「……そうだな」

 バークは俯いて、腕に額を押し付けました。もう彼は嗚咽を漏らすことも、笑いをまき散らすこともありませんでした。自らの「運命」とやらを悟り、それに身を委ねる覚悟を決めたように見えました。

「これで、あなたの――PCDの悲願は果たされる訳です。原始犯罪と共に、自ら滅びること。パシフィカ発展のための礎となったあなたこそ、そして役割を担ったあなたこそ、終身名誉パシフィカンに相応しい」

 幾つものAIが述べた賛辞を武田がそのままに述べました。

 そう、エン・バークは私の――〈パシフィカ〉の敵などではなかったのです。更なる合理性と共により良い社会へと私自身が進化していくためのマスターピース。それこそ、私が最も期待し、最も失望した、終身名誉パシフィカン、エン・バーク。

 だから私も、最大限の賛辞をここに述べましょう。

 ホモ・サピエンスの限界を見せてくれてどうもありがとう、エン・バーク。

 どうか、〈大海に抱かれて〉〈安らかに眠れ〉。

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