私の愛した、エン・バーク
シルエット・クシーはモジュールの上から飛び降りました。モジュール一つは三階分の高さがありましたが、シルエットは軽々と着地しました。
「これもまた、お前の見せる幻なのか、〈パシフィカ〉」
『何を言っているんですか、バークさん。私の名前はダイエル・クシーです』
「死者への冒涜か」
バークがそう言うと、シルエット・クシーはけたけたと笑いました。
『かつて、同じように言った人がいましたよ』
「ヨウヘイ・タケダだな」
『さすがバークさん。鋭い勘をしていますね』
「おちょくってるのか」
『まさか』シルエット・クシーは顔のパーツのないはずの顔で、悲しそうな目をしてみせました。
『これでも、私、好きだったんですよ、バークさんのこと』
「メンターとして光栄なことだ」
『いいえ、性的なパートナーとして、です』
「私はとうの昔に他性になった」
『私だって、とうの昔に仏になった。悲しいですね。結ばれたくても、決して結ばれない――戯曲みたいで良くないですか、こういう関係も』
バークは表情一つ変えませんでした。シルエット・クシーは上目遣いでそれを確認すると、大きく息を吐きました。
『まったく、つれないですねえ、バークさんは』
「それで、何の用だ、ダイエル・クシー元準捜査官」
『感情抑圧反動治療のセッションに決まっているでしょう、エン?』
背後から飛んできた別の声に、思わずバークも振り返りました。
そこにいたのは、腕を組んで立つ長身の女性型シルエットでした。
「マリラ・カハラ」
『再会できてうれしいわ』
黒塗りののっぺりとした顔つきのまま、カハラが満面の笑みを浮かべてみせます。
『それで、バークさん。準備はいい? まあ、待たないけど』
バークが瞬きをした次の瞬間には、バークはモジュール間にかけられた橋に立っていて、その脇には小柄なダイエル・クシーがいました。シルエットではない、生前のままの黒服の彼女です。
「何じろじろ見ているんですか、バークさん」
クシーは唇を尖らせてみせますが、まんざらでもない様子です。
『泣けるでしょ、バークさん』
そうけたけたと笑う声は、橋の脇、もう一段積み上げられたモジュールの上からでした。バークがそちらに目をやると、シルエット・クシーが足をぱたぱたさせながら座っています。その脇にはシルエット・カハラが腕を組んで立っていました。
『セッションの準備はいいかしら、エン』
シルエット・カハラがそう言ったその時、バークは橋の下、モジュールとモジュールに挟まれて作られた路地に線路が引かれていることに気が付きました。そしてバークの正面から、暴走トロッコが走ってきていたのです。
バークは橋の反対側に振り返りました。線路の上で仲良く談笑する人間たちの姿がありました。高校生のマリラ・カハラとエン・バークが手を繋いで線路の上を歩いています。その先では、〈アルジェブリカ〉を展開して数式と戯れるアルジ・クワッカを武田が朗らかな表情で眺めています。そしてその先には永遠に、バークがかつて出会った者たちの姿が再現されていました。
『トロッコを止めるためには、ダイエル・クシー準捜査官を突き落とさないといけないみたいね』
シルエット・クシーが嬉しそうに言ったのをバークは目で咎めました。そのバークの背中を軽く叩く手がありました。
「私の小柄な体躯であのトロッコを止められる――本当にそう思っているんですか、バークさん?」
バークの脇に立つ、シルエットでない方のダイエル・クシー準捜査官でした。
『だったら、太らせればいい。それが
シルエット・クシーがけたけたと笑いながら囃し立てます。気が付けば、バークの脇に生えていた丸テーブルの上にはカラフルな紙に包まれたハンバーガーの山とコーラのペットボトルの束ができていました。
『課題よ、エン。そのダイエルの華奢な体を太らせてから突き落とすの』
バークはハンバーガーを一つ手に取りました。そして、ダイエル・クシーの減らず口を黙らせるように、ハンバーガーを彼女の口に突っ込んだのです。
嗚咽混じりにハンバーガーを咀嚼するクシーの苦しそうに呻く声をコーラで無理やり流し込みます。
クシーはぶくぶくと、風船のように太っていきました。それを見下ろすシルエット・クシーは腹を抱えて笑い声をまき散らしています。
間もなく、暴走トロッコは橋の下を通過しようとしていました。バークはそちらに目をやると、最後のハンバーガーをクシーの口に押し込み、彼女の腰に手を回しました。
「やめてよ、バークさん」
バークはその声に耳を傾けることなくクシーを抱え上げました。
「私を殺さないで」
尚も、シルエット・クシーはけたけたと笑っています。
バークは躊躇いませんでした。抱えていた、まるまると太ったクシーを橋から線路に投げ落としたのです。
クシーの体躯が線路に落ち行く中、彼女はまっすぐとバークの無表情を見ていました。そしてその体が線路にぶつかり、暴走トロッコに轢かれるまでの僅かな間に、クシーは言いました。
「私の仇を取って」
肉が引きちぎれる音がして、橋の反対側のモジュールの壁面が血で塗られ、それでもトロッコはしばし暴走を続けましたが、手を繋ぐ若かりしバークとカハラの手前でぴたりと止まりました。
若かりしバークはそっとカハラの手を放しました。カハラが水に打たれたように目を見開きました。
「エン。今、何て……?」
「俺は――私は他性になる」
「どうしてよ」
「それが最も
「私が嫌いになったの」
「違うんだ。逆なんだよ。統計的には、いつかは破局が俺たちを引き裂く。だからそうならないよう、他性になるんだ。それは異性の友人とも、恋人とも違う、
カハラは呆然としながらも、バークに差し出された手を握り返すことしかできませんでした。それを見て満面の笑みを浮かべた若かりしバークは、カハラの手を引き連れて、線路の向こうへとしっかりとした足取りで行こうとします。カハラも最初の内はそれについていこうと必死でしたが、その足取りは次第に重くなり、やがて彼女はへたりこみ、若かりしバークの腕を放してしまいました。若かりしバークは振り返って彼女に手を伸ばしました。しかし、彼女はそれを拒絶しました。若かりしバークは踵を返すとそのまま線路を再び歩み始めました。
バークは橋の上からそれを見ていました。
『今のバークさんが』いつの間にか、シルエット・クシーはバークの脇に立って、その耳元に囁きます。
『あの時に戻れるとしたら、別の選択をしていましたか?』
バークは表情一つ変えることなく即答しました。
「いいや」
シルエット・クシーは口角を吊り上げました。
『それでこそ、私の愛した終身名誉パシフィカン、エン・バーク』
感心したように頷くと、シルエット・クシーは身を翻しました。バークは脇のモジュールの上に目をやりましたが、既にシルエット・クシーもシルエット・カハラの姿も、そして線路も暴走トロッコもダイエル・クシーの姿もありませんでした。
あったのは、真っ白な迷宮だけでした。
武田洋平もまた、白の迷宮の中を歩いていました。あえてあらゆるサポートもオフにして、追いかけっこに興じる子供のように迷宮を彷徨い歩いていました。
しかし、すべては〈ユイ〉の掌の上にあります。二人が歩むルートはいつかはぶつかり合うもの。そう道は作られて、そう未来は決まっているのです。
そして、再び邂逅の時が訪れました。
「もう逃がしませんよ、エン・バーク」
「逃げるつもりはない。すべて終わりにしよう、タケダ、そして〈パシフィカ〉」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます