私がやるわ

 レベルIの白昼帯、オフィス・モジュールが立ち並ぶId16区で、推定〈ロスト・ワン〉に詰め寄ろうとしている一人の女性がいました。彼女は、淡いグラデーションの抽象的な幾何学模様の仮想柄を見かけるや否や、その人物を呼び止めたのです。それぞれの〈ロスト・ワン〉の行動はいかなる法律にも抵触しませんが、それ故に彼らは人に危害を加えることもない――だからこそ民間人が介入して止めさせるべきだと判断したのでしょう。

「あんたらでしょう。〈ユイ〉の邪魔をしているのは」

 その〈ロスト・ワン〉は振り返り、女性を見ました。女性の〈リュシャン〉の個人識別は迷彩によって弾かれましたが、女性は生身の脳でその人物の顔を認識したようです。

「まさか、エン・バーク……」

 エン・バークが〈不覚者ノーセンス〉であり、いかなる有害全覚文の影響を受けることないことも、そして自らので民間人を殺害したということも、女性がニュースで見ていたログは残っています。

「逃げたければ逃げればいい。追うつもりはない」

 その〈ロスト・ワン〉は表情一つ変えず淡々と言いました。女性は踵を返して、全速力で反対側へと駆け出しました。

 しかし、女性はすぐに足を止めました。そしてゆっくりと振り返りました。その目は先ほどまでの正義感と合理性あふれるパシフィックな瞳とは程遠い、虚ろなものでした。彼女はそっと腕を〈ロスト・ワン〉に向けて伸ばし、指をさしました。

「エン・バーク、みぃつけた」


 モジュールとモジュールとの間の人気のない非主要道で推定バークは息を整えていました。

「一体何が起きているんだ……」

 突如として、街中を行く人々は推定バークの後をつけるようになったのです。彼らは皆自我を失ったかのうように虚ろな目つきで、推定バークの後ろに行列を作ろうとしたのです。推定バークは彼らを振り切ることができましたが、ここはパシフィカ。〈ユイ〉によって最適配置がなされたモジュール街の中では、プライベートエリアを除けば、真に人目を避けられる場所などあるはずもないのです。推定バークが今いる非主要道は人の往来こそ少ないですが、どの位置でも二つ以上のカメラの視界に収まります。潜伏する場所などないのです。

「エン・バーク、みぃつけた」

 その声は推定バークの両サイド上から降ってきました。その非主要道に面したモジュール群の複数の窓から、そこで勤務していた人物たちが顔を出し、推定バークを指さしていたのです。推定バークは駆け出しました。

 しかし、どの通りに入っても、どの区に言っても、人々は皆、バークの方を指さして「みぃつけた」と言うばかり。推定バークは彼らを避けながら非主要道を進みました。けれども、逃げれど逃げれど、彼らは必ずバークを見つけ出し、後をじりじりと追いかけてくるのです。

 十分も経つ頃には、主要道で推定バークは集団に取り囲まれていました。それに伴い、ホログラムを利用した光素フォトニムベースの広告全覚文が頭上に集まってきます。推定バークを取り囲む集団の仮想柄に、空を縦横する無数のホログラム。サイケデリックな色彩の濁流に囲まれて、推定バークは身動きも取れなくなっていました。

 彼らは十メートル程距離をとり、ただ推定バークを指さして「みぃつけた」と言ってはどこかへ消えを繰り返すばかり。推定バークを中心に形作られた小島に寄せては返す波のように蠢いていました。

 やがて、波が押し寄せる方向が一方向だけに定まってきました。推定バークも気が付いたのでしょう。そちらにだけ注意を向けています。

 そして程無くして、人の波をかき分けるようにして、ロイヤルシルクのシンプルな仮想柄の人間が現れました。

「ようやく見つけました。エン・バーク」

 それと同時、寄せては返す集団は皆、突然糸が切れたように意識を失いました。仮想柄は解け、白い山脈が二人を囲みました。

「人を傀儡にする力――名もなき未知の全覚文といったところか。〈パシフィカ〉に魂を売ったようだな、タケダ」

 推定バークは――エン・バークは左目を細めてそう笑いました。

「魂を売るとは、なかなか酷い言われようだ」武田はへらへらと笑いました。

「目的が一致した――そう言ってもらいたいものです」

「私を殺しに来たか」

「あなたは今や、パシフィカという社会を憎み、その安寧を壊そうとするテロリストも同じ。ただ、にしては穏便すぎる。〈ロスト・ワン〉たちを〈ユイ〉の許容限界を超える浮動分子として扱い、パシフィカの交通流を乱すだけでは、一時的な混乱を作るのが関の山。とても〈パシフィカ〉の力を削ぐことなどできはしません」

「エイワ・ベックは危機感が足りないんだ」バークは同士をそう評しました。

「確かに彼は〈アイデンシティ〉の真実を知り、〈パシフィカ〉による完全支配から人間を守る――その目的は私と一致しているが、いかんせん〈アイデンシティ〉が何たるかを本質的には理解しているとは言い難かった。そもそも彼はプライバシー保護主義者に過ぎない。彼は社会の敵になるには役不足だ」

「それで、あなたはそのベックの計画の一つの駒――それで甘んじるようには思えませんが」

「その通りだ」

「それで、何をするつもりなんです?」

全覚言語オールセンスからの物理的な解放だ」

 そう言うや否や、周辺のモジュールの各所に備え付けられた各構成素の放射器が突然煙を放ちました。一帯の種々の広告が姿を消し、全覚文たちも消し飛びました。二人を包んでいたサイケデリックな色彩はあっという間に白の波に飲み込まれ、次の瞬間には真っ白で殺風景な壁面が立ち並ぶシンプルなものに様変わりします。

全覚言語オールセンスの発話に必要な機材を物理的に破壊する。原始的ですが、一過性ながら強力な手段ですね。それで、次は? 〈パシフィカ〉は更にあなたを敵視する。いつまでも迷彩で逃げ延びながら、放射器を破壊し続けるなんてできる訳がない」

「だからこその自由意志党だ」武田は眉を上げました。

「ファルシードもあなたの仲間ですか?」

「いいや」バークは首を横に振りました。

「彼は善良で、利口で、それでいて自ら呪縛に囚われただけの一般人。ただ、反パシフィカ的な主張を合法的なフィールドで主張できる人間がいるのは心強いことだ。さて、どうする武田――いや、〈パシフィカ〉。お前の武器は奪った。どうやって私を止めるつもりだ」

 さて、どうしましょう。

 私は手を顎に当てて考えてみせます。あるいは額を抱えて考え込んで見せます。全覚言語オールセンスは確かに私にとっての大きな武器です。それがなければ、下手すれば原始犯罪の一つですら食い止められないかもしれません。

 しかし、私は都市です。私は〈アイデンシティ・パシフィカ〉なのです。この都市を構成するすべてが私の手であり、顎であり、額なのです。

〈ユイ〉が挙手しました。その意志とやらを解釈するとなれば、こう訳すべきでしょうか。

 ユイがやるわ。


 都市・交通同時最適化システム〈ユイ〉。それは全覚言語環境ASLEの台頭以前から――正確には、「私」が犯罪のない理想都市として作られるにあたり、一番の大本となった始原の準人システムです。ASLEがパシフィカのソフトウェアなら、〈ユイ〉はパシフィカのハードウェアです。

 多くの都市は冗長な交通経路、渋滞、騒音、犯罪――様々な問題に悩まされてきました。都市構造の再最適化によってそれを改善しようにも、都市構造の抜本的な改変には多大なコストを要するからです。けれども、〈ユイ〉にはそれを根本的に解決する機能がありました。

 例えば、AとBとの二地点間の距離が長いにも拘わらずそこを往来する人(トリップ数)が多いとしたら。今まで、どの都市もより速い移動手段の開発によってそれを解決しようとしました。けれども、〈ユイ〉はそんな野暮なことはしません。AとBを隣に作ってしまえばいいのです。移動させればいいのです。パシフィカがモジュール都市となった所以はそこにあり、都市構造と交通流の同時最適化と需用緩和のための三組制度や白昼帯、朝夕帯、極夜帯といった都市の三分割は互いに高い相乗効果を生み出し、〈ユイ〉はすべての都市が抱えて来た問題を解決したのです。

 そしてその都市最適化システムは犯罪抑止にも高い効果を発揮しました。旧来型都市に存在した多くの原始犯罪者たちは下見をすることで犯罪に着手しやすい場所、時間を選定していきます。しかし、〈ユイ〉と三組制はそもそもそのような時地点を作りません。仮に犯罪者がそれでも実行しやすそうな場所を選定するのであれば、その前に都市構造を変化させることで、その犯罪者の中にあった都市のイメージを――認知地図を破壊するのです。

 それが、ASLE台頭以前のパシフィカの――私の神髄であり、そして今も尚、ASLEの影に隠れた番人として〈ユイ〉は君臨しているのです。


 その〈ユイ〉が、バークの問いに答える代わりに、骨まで染みるような地響きを返しました。

「何だ、この音は」

 バークは周囲を見渡しました。この轟音は、バークの仕掛けた破壊工作のものとはまるで別者だったのです。

 すぐに、バークは首を動きを止めました。その視線の先にあったビルが今、崩れていたからです。整然を積み上げられていてビル林を形成していたオフィス・モジュールが上から降りてビルのゲシュタルトを崩していたのです。

「そんな、まさか」バークが息を飲みました。

「〈パシフィカ〉、お前は〈ユイ〉までも自在に操るというのか……!」

 ビル・ゲシュタルトの崩壊はあちこちで起き始めました。無数のオフィス・モジュールは濁流となって街路に流れ込み始めました。

 バークはそれにひき殺されないようにしながら必死に逃げ回りました。

 そして街が再び静寂を取り戻した頃、その一帯は無数のモジュールによって白の迷宮へと様変わりしていたのです。


 モジュール群によって形成された白の迷宮はエン・バークの方向間隔を破壊していました。バークら〈ロスト・ワン〉はオンラインの〈スマート・アイ〉をインストールしていないため、適宜別端末でインストールした街路マップを基に非公式の経路探索システムを使っていました。だからこそ、〈ユイ〉がオフィス街を迷宮に変え、武田洋平と隔絶された今、バークは完全に進むべき道を見失っていたのです。

 バークはあてどなく彷徨いました。バークの息のかかった〈ロスト・ワン〉たちは各地で全覚文の放射器を破壊していましたが、大規模な〈モジュール・テクトニクス〉はモジュール同士の接地面に隠れていた放射器を露にしていて、バークらの破壊工作の効果は激減していました。

 それらが〈わたしと共に歌いましょう〉を発話しました。白の迷宮はハープの音色で満ち溢れ、バークと同じく迷宮に迷い込んでいた一般市民は次から次へと崩れ落ちていきました。

今やバークの周囲で動く人影はありません。意識を失い、仮想柄をすべて剥がされた真っ白な実服に身を包む彼らは背景のモジュールに同化しつつありました。

 バークがT字路を右に曲がるとその先は行き止まりでしたが、モジュールの上から足を投げ出すようにして腰掛ける人影がありました。バークは足を止めました。その人物は一面原始犯罪課PCDの黒服のように真っ黒で、ただ一つ違う点は頭部まで同じ色だったことです。

 その漆黒のシルエットはゆっくりと首を回すと、顔のない顔でバークに向かって微笑みかけました。

『お久しぶりです、バークさん』

「そんな、ダイエル・クシー準捜査官……」

『元準捜査官です』

 シルエット・クシーはけたけたと笑いました。

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