私の声で目覚めるのです

「あなたがエイワ・ベックですね」

「積もる話はたくさんある。一緒にどうかい、ヨウヘイ・タケダ」

 ベックはもう一つグラスを取り出すと、バーボンを注ぎました。

「生憎ですが、思考力を鈍らせる粒素パーティクリムは控えているものでね」

「そうかい、それは残念だ」グラスを置くと、ベックは再びチェアの背もたれに体を預けました。

「折角の機会だし、是非あなたとは腹を割って話したいと思っていたのだがね」

「僕はおしゃべりに来たのではありません。あなたがから聞きたいことを訊きだすだけのこと」

「まあ、ちょうど話し相手もいなくなってしまって退屈していたところでね。伺おうか」

「〈ロスト・ワン〉が起こしていることの目的は何です? ID照合を失敗させる仮想柄を身に付けた集団が街を闊歩し、〈ユイ〉が制御している交通流を搔き乱している――あなたが命じたことだ。」

 武田が問うと、グラスを開けてからエイワ・ベックは答えます。

「〈パシフィカ〉の力を削ぐためですよ。今や、〈パシフィカ〉は僕たちのプライベートなエリアにも土足で踏み込むようになった。人工感覚器官の普及でね。このままでは僕たちは間違いなく、プライバシーというものを失い、社会やシステムと完全に不可分の存在になってしまう」

「本気でそれを成し遂げられると、あなたは思っているんですか?」

 ベックは表情を崩しませんでした。動揺すら見せず、ええ、と強く頷いて見せます。

「僕はね、パシフィカ創設と共に移住してきた身なんですよ。画像解析系AIの研究者になって、このパシフィカを犯罪から守るためにね」

「でも今や、あなたがパシフィカを脅かすテロリストだ」

「それは〈パシフィカ〉が人々のプライバシーを軽視したからです。区画をプライベートとパブリックと二分したはずなのに、その規約を破ってプライベートエリアにも監視の目を入れ始めたのは〈パシフィカ〉ですよ」

「それが、社会の、僕たちの要請だったんですよ」

 武田がそう代弁すると、ベックはグラスをそっとデスクの上に置きました。しかし、彼はそこから手を放しませんでした。

「原始犯罪の八割はプライベートエリアで起きるんです。画像解析の力を真に防犯、あるいは真相究明に役立てたければ、監視の目はプライベートエリアにもなければなりません。安全保障とプライバシー保護はトレードオフの関係にあるんです」

「そんなことは分かってる!」

 ベックはグラスを握り潰しました。そして立ち上がり、血のついたガラス片を周囲に撒き散らしました。

「だから僕も、テロリストになってまで、このパシフィカという街を変えようとは思っていなかったんだ。ただ、些細な反抗――いや、気休めのつもりで、迷彩技術を研究し、〈パシフィカ〉が補足しようと思ってもできない存在になろうとした――〈ロスト・ワン〉にね。もっとも、いつの間にか賛同者が集まり、〈ロスト・ワン〉の頭領扱いになったのは想定外だったけどね」

「そしてテロリストとなった」

「エン・バークから聞いたからですよ。〈パシフィカ〉が、この都市の意識の話は、かつてマクファデン本人の口から聞いていた。そして、あなたと共に〈アイデンシティ〉を再発見したバークと出会い、今や〈パシフィカ〉が全覚言語オールセンスを自在に操り、原始犯罪を制御することができるようになったと聞いた。マクファデンの懸念は当たっていた。もう間もなく、〈パシフィカ〉はパシフィカンたちを完全に支配するようになる。迷彩や後天的な全覚文失読――これらは〈パシフィカ〉による完全支配に対する最後の砦なんです」

「つまり、あなたたち〈ロスト・ワン〉こそ、社会最適化を阻む最後の敵だと?」

 違う――ベックはそう言おうとしました。

 しかし、それよりも早く、武田が彼に向かって手を翳していました。

 ベックは目を閉じ、両耳を塞ぎました。彼が自身を改造して作り上げた後天的な全覚文失読はそれらの有害全覚文を弾くはずのものでした。

 しかし、それらはいずれも、未知の表記法で記されていたのです。

 粒素パーティクリムは指の合間をすり抜けて、波動素ウェイビムは骨伝導で、そしてそれらの反復素イテレイショニムが着々とベックにその刺激を浸透させていきます。

 ベックが断末魔の叫びを上げるまで、そう時間はかかりませんでした。

〈命賭けで〉で破壊された報酬系は、〈あらゆる声に耳を傾けるな〉を遂行する――すなわち全覚文の効果に意図的に反することに耐えがたい報酬を感じるようになり、そして〈縄張りの外に出るな〉の薄膜はベックの背後の窓ガラスにぴったり重なるように作られていました。

 ベックは狂乱の声を上げながら何度も何度も窓ガラスを叩き始めました。それは強固な防弾仕様でしたが、全覚文たちはベックの叩き方をわずかにいじり、振動の共鳴が着実にガラスにダメージを与えるよう仕向けていたのです。

 ベックの血がガラス面にこべりつくと共に、少しずつそこに走るひびも大きくなっていきます。そしてそれが網目のように一面張り巡らされると、ベックは更に声を張り上げて、縄張りの外に出るべく、タックルをかましました。

 そして彼はそれを成し遂げました。


 強風が吹きすさぶ中、ロスト・シティ・タワー五十二階、長官室の縁に立った武田洋平はそこから眼下を見下ろしました。無数の円柱形のビルの麓には緑地が広がり、非常に小さく見える人々――統語システムは米粒のよう、という直喩を選びました――やそれを乗せたオートモービルが行き交っています。

 清々しい風を体で感じていた武田は、息を吐いて私に訊きました。

「〈パシフィカ〉」

『エン・バークの居所ですか?』

 武田は答えることも頷くこともしませんでした。しかし、それが肯定の意であることをいくらかの表情分析AIたちが声を張り上げて主張しています。

『バークの行方は分かりません。今も尚、プライベートエリアに潜伏しているか、あるいは――』

「――ID照合不可の〈ロスト・ワン〉の中にいるか」

 武田と私は〈ロスト・ワン〉による〈ユイ〉の交通流制御破壊を〈次はお前だ〉によって妨害しましたが、それはレベルGからIに及ぶ三層のモジュール都市の各地で起きており、制圧が済んでいないエリアがほとんどだったのです。

「彼らのまとう迷彩は、〈パシフィカ〉――君の目にだけ作用する、だったね?」

『ええ、人間の脳の画像認識モジュールには、奇異にこそ写れど、それが人だと認識することは容易です』

「なら、パシフィカンの目を使えばいい」 

 数多の文脈解析AIたちがうなりを上げてその真意を探り始めました。一秒と経たずに、彼らは一つの可能性を浮上させました。

『この都市の人々を、アントコロニー・アルゴリズムのエージェント――すなわち米粒アリとして扱う訳ですね』

 武田は微かに口角をあげたまま、何も答えませんでした。それが何を意味するか、表情分析AIたちは言い争いをするまでもありません。

 アントコロニー・アルゴリズム。

 それは歴史の古いながら強力な、目的地までの最短経路を求めるアルゴリズムです。

 武田洋平がそれを知ったのは、最初の創発性全覚文〈あらゆる声に耳を傾けるな〉を発見する以前のこと、かつて創発エマージェンスという現象についてアルジ・クワッカが武田に説明したときのことでした。一匹のアリは単純な行動原理しか持たないながら、その集合は巣と餌場を最短距離で結ぶことができる――その能力をアリの集団に与えるものこそこのアルゴリズムであり、創発現象の代表格でもあります。

『人々全員に単純な行動原理に沿って行動させる全覚文を発し、それによる創発現象を引き起こす――そして彼らが、あなたをバークの元へと導くと?』

「できますか?」

『名もなき潜伏全覚文の一つに、似たような効果のものがあります。これを同時に発話すれば十分可能かと。ただ――』

交通流の分析を得意とする〈ユイ〉のシミュレート結果によれば、今アクティブなエージェントパシフィカン数では、そのアルゴリズムは十分な性能を発揮できないとのことでした。最短経路までの収束が遅く、移動するバークを補足するのは難しいとのことでした。

それを説明すると、武田は小さく息を吐きました。

「この都市、パシフィカは三組制です。非アクティブなエージェントをアクティブにすれば、密度は三倍になる」

〈ユイ〉はその効果を十分なものだと見積もりました。

「なら、やることは一つですね」

 そう言って武田は縁に立ち、両手を大きく広げました。

「〈おはよう世界〉」

 彼のその開放声はあらゆるレベルへと広がっていきました。

 あらゆるレベルの、あらゆる街路を朗らかでさわやかな鳥たちの歌声が満たしていきます。朝日のように希望を抱かせる温かな光もあらゆる空間に押し広がり、その音素フォニム光素フォトニムとはあらゆる全覚ブラインドの隙間を縫って幾多のプライベートエリアへと浸透していきました。

 パシフィカンたちは皆、爽やかな目覚めを迎えました。短い睡眠時間で起こされた者は数多くあれど、彼らは平均的に疲労感や倦怠感をさほど覚えていません。溢れんばかりの活力がそれらを水底へと沈めると、彼らは皆通りへと躍り出ます。

 ある者は言っています。今日もがんばろう。

 別の者は言っています。心地の良い朝がやってきた。

 また別の者が言っています。おはよう、すばらしきこの世界。

 そして人々はみなぎる活力に操られるようにして街路に飛び出しました。こうして、パシフィカの街路は建国史上最も高い人口密度に覆われたのです。

 その報告を受けた武田は満足そうに頷くと、口角を上げました。

「全覚文性創発現象〈アントコロニー・アルゴリズム〉」

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