第8話 鷲に拾われた少女

「セフレなる?」

 2019年8月9日、あれは滋賀県彦根市のホテルで過ごした大切な人との最後の夜。

 生まれて初めて一生一緒にいたいと願った。あの一夜は儚くも私の夢を打ち砕いた。

 彼女はダブルベッドの上で私の右脚に子供みたいな左脚を絡ませて、これが「最後の夜」だと呟いた。必死に涙を堪えたが、彼女には私の悲しみがどこまで伝わっていたのだろうか。床に就く前に風呂上がりの彼女に最後の抵抗をした。交際が始まる一ヶ月前のバレンタインにあの幼い少女が手紙をくれたみたいに、私も彼女に手紙を渡してみせた。彼女の好きなところを書き出して、もしも引き止められればと淡い期待を抱いていた私に対して返された言葉は、「ありがとう」と「けど...」の2つであった。

 彼女にとって私が初めての彼氏であって、それにしてもあんな「目」を持っている人がこの世に存在していた事実が私にとっては何にも代え難く嬉しかった。私も彼女も慎重で奥手で、何よりお互いを大切にしていたから、長い交際期間で躰の関係は一度ももたなかった。年齢非相応に子供じみた彼女はあまりに純粋で無邪気で、パッチリした一重の目に笑顔が可愛くて甘えた声で私を「なぁ」と呼んでくれていた。勉強を教えていた受験生時代にはよく不機嫌になって離れていた時期もあったけどもまた仲直りして、だからこの夜もまた仲直りができると、倦怠期なら終わりが来るって信じていたんだ。

 今思えばあの夜もオリオン座は輝いていたのだろうか。関東に移住した彼女は、嘘を吐くようになった。「なぁにはもっといい人がいる」と彼女は云ったが、それは私を拒絶する言葉であると認めるに容易かった。幼い少女の壊れる様は見るに堪えなかったよ。「セフレなる?」、既に彼女にあの「目」はなかったが、あの後に彼女の頬でもはたけば何かが変わっていたのであろうか、未だに後悔は止まないでいる。

「もしも変わったら助けてな」

 彼女との約束は守れていない。


“...Sleep with me?” (セックスしよっか?)

 この女に昔の彼女の姿が重なって見えたのは偶然ではない。

“No.”

 しかし女にとって私の答えは意外ではなかったようだ。より一層妖しく微笑めば、下唇を噛んで軽く舌を垂らしてみせた。

“Why?” (どうして?)

 濁りのない瞳は挑発的に弧を描いて私を見据える。

“Coz you still have 'eyes', I know.” (まだキミには「目」があるからね。)

“Eyes? All of us have eyes, u know?” (目?目なんて皆あるじゃない?)

“No, I know the only one who had 'eyes' until now.” (いや、その「目」はまだ一人にしか見たことはないよ。)

“I'm not sure, but u wanna say about pure? White is readily dyed black, so isn't it easier to get dirty early?” (よく解らないけど、純粋だとか、そういう話?白が黒く染まるのは簡単だわ。だからはやく汚れちゃった方が楽でしょう?)

 彼女は一呼吸置いて、“But, this town is all dirty.” (まぁこの街はみんな汚れてるけどね。)と囁くように言った。

“I don't know anymore. But I wanna hold these 'eyes', I don't wanna lose it. ” (よく解らないよ。けどその「目」は守りたいっていうか、失いたくないんだよ。)

 女は一瞬悩む素振りを見せた。

“you're so philosophical, but I'm okay. I mean, you are..., a hero for me? Even though you're a crow, aren't you black?” (哲学的ね、けどまぁいいわ。つまりあなたは...、私のヒーローなのかな?カラスのくせして黒くないのね?)

“Quite black.” (真っ黒だよ。)

“Haha, okay. I know you are a 'black hero'.” (わかったわ。あなたは'black hero'なのね。)

 'black hero'には釣られて笑ってしまった。しかしいい響きだ、嫌いじゃない。

“But don't get me wrong, 'black hero' for 'eyes', right?” (捉え違えるなよ、俺は「目」にとっての'black hero'であって、お前用ではないからな。)

 彼女が覗かせる歯は驚くほどに白かった。咳払いすると、真面目な顔に戻って耳元に近寄って囁くのだ。

“You're really like Susarmo.” (あなたってホントにスーサルモにそっくり。)

“What am I similar to him?” (どこが似てるっていうんだ?)

“Pessimistic, and rational philosophers.” (厭世的で、理性的な哲学者よ。)

 返す言葉が見当たらなかった。アイツが'rational'であるだなんて、エマニュエルが'ingenious'と評価するより受け入れ難かった。数時間前のファンを滅多打ちにするヤツの脳味噌なんて'instinctive'に相違なかろうに、 そう、理性の欠片もないイカれた獣でしか在り得ない。

 唖然とする私を悟ってか、女は眉を顰めて話を続けた。徐にかきあげられたブロンドの髪筋が颯々に煽られて靡いている。

“Just as he only looks 'NOMAD', so you only look 'Susarmo'. Both of you don't see each essence, 'crow' and 'eagle' yet.” (彼はあなたの表面しか見ていないけど、それはあなたも同じなのよ。まだお互いの本質が見えていないの、'crow'と'eagle'の部分がね。)

“Do you know why he is an eagle?” (どうしてヤツは鷲なんだ?)

 女は悪戯にほくそ笑んで「そのうちわかる」と返すだけ。

“And Susarmo is a cherry-boy.” (ちなみにスーサルモはチェリーなんだよ。)

 可笑しそうに彼女は再び真っ白な歯をみせてはにかむと、突然向きを変えてひとり森の方へと駆け出していった。

 変な女だ。私は呆れ顔で遠退く彼女を見送るしかなかった。


 A.M.11:00、朝っぱらからエマニュエルは'Gold Tassel'のボトルをあけてロックグラスに注いでいる。私にもグラスを差し出してくれたので有難く頂戴した。カナディアン特有のカラメル味の強さが見事にアルコール感を包み隠しており、仄かにバニラの後味が咥内に馨る。タッセルは躰を芯から温めてくれる。

 今朝の出来事をエマニュエルに話せば、あの女はベアトリクスといい、見た目に反してまだ14歳であったらしい。「惜しかったな」とニヤける変態に背筋の凍った私は中指を立てて返した。

 それにしても飛んだませガキである。あの歳で私を誘惑してくるとは。いや、スラムとはこんなものなのか?外見の大人びているのもあって、肝を冷やすとはまさにこの事だ。

“Who is she?” (あの娘は誰なんだ?)

“She is a girl took by 'eagle'.” ('eagle'に拾われた少女だよ。)

 まさかとは思ったが、訊かずにはいられなかった。

“'Eagle'..., is it Susarmo?” ('eagle'って、スーサルモのことか?)

 彼はグラスの残り分を一息に飲み干すと、神妙にも深く頷いて語り始めた。

“To be frank, I don't get him. I know he is violent, cruel, and heartless, but, sometimes, I can't understand his behavior. It is just.” (正直なところ、俺もアイツのことがいまいち分からない。ヤツが傍若無人な暴力性は周知だろうが、それじゃあ時々アイツの行動が説明つかなくなるんだ。ベアの件はまさにだよ。)

 'essence'、ベアトリクスがそう言っていた。スーサルモの'eagle'の部分は、アイツをこう呼ぶ周囲の人間にも掴めていないようであった。

“He doesn't tell himself to me as foster dad.” (アイツは育ての親である俺にすら何にも教えてくれないんだよ。)

 聞き間違いかとも思ったが、しかし淡々と息子を語るようなエマニュエルの態度に、私は尋ねずにはいられなかったのだ。

“Excuse me, Ema. Please tell me his family name!” (すまんエマ、スーサルモのファミリーネームを教えてくれ!)

 話の腰を折られて不服そうではあったが、またグラスを傾けると彼は深く息を吐いて応えるのだった。

“Manadou, he is Susarmo Manadou.”

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