第3話 白肌の鷲

 エマニュエルが私の肩を揺すった。どうやら3、40分ほど眠ってしまっていたようだ。

 広大な敷地内には無造作に車が止められており、既に日を跨ごうとしているにも関わらず、ライブの関係者たちは忙しなく荷物の運搬を繰り返している。どうやらエマニュエルは少々怒っているようであった。というのも、荷物は「物置」に、といった彼の忠告を無視する輩が大勢いたからだ。

 ここらの人間に何か注文したところで素直に従う訳がないのは、私以上にエマニュエル自身が一番分かっているはずではあるが、まぁそれにしてもという事だ。

 まだ眠い目を擦って軽く辺りを見回した。

 地域柄は住人に出る。本国ではかなり平和な土地に暮らしていると思うのだが、日本でも「荒れている地域」とはこんなものなのだろうか?

 カナダでは10月にもなればもう夜は薄ら寒い。にも関わらずだ、ここの連中はタンクトップ姿に意味の分からない「落書き」をあちらこちらに覗かせている。夜目にも近くを通り過ぎた男の左腕に十字架のタトゥーが見えた。去年であったか、神を信じない奴が堂々と身体に十字を刻むなと、そうエマニュエルが言っていたのを思い出した。

"Surrounded by idiots, right?" (ろくでなしに囲まれてるな。)

"Ya, I think so. Especially..., he." (確かに。特に...、アイツとか。)

 エマニュエルは私の指差した方を振り返り少し目を見開いたかに思えた。そして不敵に微笑むと、彼はどうしてかと態々尋ねてくるのだ。

 どうしてもこうしても、オンボロの車(何度もぶつけたのであろう、元の車種が解らぬほど傷にまみれている)にもたれ掛かったその青年の両頬には、はっきりとは確認できないが、どうやら人の顔が彫られているようである。透き通るほどに純白の肌。吸っているのは雰囲気からしてウィードであろう、異様に虚ろな眼がそれを物語っている。ただ、ドラッグなんてこの地域ではなんら珍しくもない。恐らく日本人が煙草を吸う程度の感覚で、彼らはエクスタシーを求めている。だから単にウィードを吸う光景なんざ、私にとっては到底見慣れたものなのだ。

“Susarmo he is.” (アイツがスーサルモだよ。)

 エマニュエルの囁きに、私はこの違和感の正体を悟った。同時に、その違和感は戦慄に転じた。

 戦慄、これが戦慄でなかったら何なのだ?

 さながら百足であった。五体満足であるに関わらず、彼は私にとって異様であった。異様な「何か」として、そこに佇んでいる。何かは分からないが、ただ人外の「何か」であることだけは理解できた。

 エマニュエルが私の肩を叩いた。“Come on”と言えばもう即座に彼は車を降りてスーサルモの元へ向かっていった。

 気さくにエマニュエルはスーサルモに声を掛けた。

“How are you, eagle?” (調子はどうだい、イーグル?)

 彼はスーサルモを“eagle”と呼んだ。白肌の鷲は音も立てずにウィードを落として振り返る。透明な瞳がこちらを見据えた。その瞳が見据えるのはエマニュエルではなく、私に違いなかった。

“Who?” (誰だ?)

 そう尋ねながら、ヤツは私に中指をたて、やがて舌を垂らした。

“Yellow, go home.” (イエローはお家に帰りな。)

 エマニュエルは慌てる。私がこれくらいの挑発で手を出すとでも思ったのか、ただ調子づいてヤツは続けるんだ。

“Die now, f××king yellow.” (今すぐ死ねよ、クソッたれなイエロー。)

 ヤツは目を逸らさなくて、さながら悟りを開いたかの如く、異国の旅人への屈辱な侮蔑を吐き連ねるのだ。

 私には不思議と、スーサルモが靄がかって映った。まさに白昼夢であった。ぼやけたレンズの奥底から、ふとスーサルモが駆け出したかのように知覚された。この知覚は幻想ではなかったらしい。私の頬は、摩擦で擦れて熱くなった。

 漫画みたいに吹き飛ばされるなんてことはなかったが、素人の拳にも関わらず、私の脳を揺らしたことには驚いた。突拍子もなく、理由もなく、初対面で見ず知らずの男が私を殴ったことへの驚きの方が勝ったのかもしれない。

 細かく揺らいだ意識が統合される。しかしほぼ無意識に、私の拳はスーサルモの左頬を打ち抜いた。

 膝から崩れ落ちていくスーサルモをエマニュエルは間一髪で抱きかかえた。そして容赦なく意識の混濁しているであろう彼の頬にビンタを加えて怒号を飛ばす。

“Don't make me angry, eagle!” (俺をキレさすな、イーグル!)

 また、エマニュエルは“eagle”と呼んだ。上体を起こしながらも、寂しい瞳でこちらを睨み付けて中指を立てた。

“No one is qualified to rap, yellow.” (黄色人種にラップする資格なんてないんだよ。)

 気付けばガヤガヤと野次馬が集まっていた。その中に私の見知った者はいなかった。野次馬の中心に、私とスーサルモ、そしてエマニュエルがいる。

 白肌の青年は立ち上がり、寄り添うエマニュエルを押し退けて私たちに背を向けた。群衆をかき分けてヤツは足早に去っていく。それに従って周囲の人間もまた作業に戻り始めていった。そして二人取り残された。

“Sorry, NOMAD.” (悪いなノマド。)

 アイツはこういうヤツなんだ、エマニュエルはそう付け足した。

“You say, he is more talented than me.” (なぁエマニュエル、お前言ったよな。アイツは俺以上に才能があるって。)

“No, it’s Juan. I think Susarmo have a different talent from you, so I said ‘ingenious’.” (いや、それはファンだよ。スーサルモはお前と違った才能を持っているように感じるから、だから俺は“ingenious”といったんだよ。)


 'orphan house'の地下室は防音壁に覆われている。トラックメーカーなど音響機器で埋め尽くされた部屋(地下階全体で一部屋をなしているので、想像以上に広いのではあるが)の中心に、明日の、いや既に24時を回っているのだ、今日のライブに参加するメンバーとそのDJ達、加えて主催者のエマニュエルが円を描いて座っている。私の隣ではDJでありトラックメーカーも務めてくれているファンが、気難しい表情で正面を睨んでいた。明らかに不機嫌なファンの対角線上には、なるほど、スーサルモが興味なさげに胡坐をかいている。

“Do you hate him?” (スーサルモの事が嫌いなのかい?)

“Sure.” (言うまでもない。)

“I think you respect him.” (ついリスペクトしてるのかと思ってた。)

“You didn’t, absolutely.” (馬鹿な。)

 敢えてこれ以上は踏み込まなかったが、エマニュエルいわくファンはスーサルモ用にもビートを作成しているらしい。彼のプライドは才能のない人間を認めない。それに車での発言もある。ヤツの才能を認めているのは確かなのだろう。

 こちらの思考を悟ったのか、ファンはバツの悪そうな顔で私を見て言った。

“I wanna kill him. It’s no joke.” (俺はアイツを殺したいんだよ。冗談じゃない。)

 しかし「殺したい」と言うファンの眼は震えていた。殺意は本物なのだろうが、しかし彼にスーサルモを殺せないことは容易に理解できた。人を殺せるのは才能であるからだ。彼にその才能がないことは、私にとって明白であった。

“I hope to come true.” (叶うよう願ってるよ。)

 ミーティングが始まった。エマニュエルが円の中心に立ち、どうせ思ってもいないであろう感謝の言葉をつらつらと重ねている。誰一人そんなセリフに耳を貸さないなんて明白であるにも関わらずだ、また私は夢見心地に陥っていた。

 ...あれはいつだったであろう、まだ二十歳にはなっていなかった。同年代くらいの輩に絡まれたのだ。当時から冷めていた私とは反対に、彼等は血気盛んだった。男3人女3人、女にいい所でも見せたかったのだろうか、適当な理由をこじつけて私を囲み、人気の無い鉄橋下の空地へと歩かされたんだ。彼等は道中も忙しなく私を小突いていた。空地に着くなり、やんちゃそうな金髪の青年は私を殴った。続けざまに残りの2人も暴行に加わる。端の壁に背をもたれかけた私に、彼等は殴るなり蹴るなり好き放題だった。

 痛みはなかった。ただいつ終わるんだという面倒くささと、理不尽な暴力に対するやるせなさ、胸には薄ら痒さが蔓延って止まない。こいつがどうにも私を無性に苛立たせるのだ。だから無意識にその金髪を掴んでいた。こちらに引き寄せて、鼻っ柱に肘を合わせた。軟骨が砕けた感触が伝わり、私のT-シャツに赤黒い血と透明な涙が飛び散る。彼の痛みに興味はなかった。胸の疼きが全然消えてくれなくて、しゃがみ込んだ彼の血塗れの鼻に膝を食い込ませてみた。何も聞こえない沈黙であった。馬乗りになって上から更に拳を落とす。繰り返し何度も、何度でも叩き付けた。最初は抵抗しようとしていた男が徐々に脱力していくのが分かった。このまま殴り続ければ彼が死ぬことだって容易に理解できた。彼が死のうが死ぬまいがどちらでもよかったんだ。だから女の1人が私に泣きついた時、素直に彼を解放したのである。

 この日私は、自分が「人を殺せる人種」であることに気付いた...。

 ファンに肩を揺すられ、私は現実に引き戻された。エマニュエルの長話は終わっており、今から仮ステージでリハーサルを始めるそうだ。

 私の順番は最後なので、ファンは空き時間でビートの調整をしたいらしい。国境を越えているのだ、まだ一度も直接合わせられていない。ほとんどぶっつけ本番である。リリックのメモを取り出そうとポケットを探ったが見つからない。恐らく車に置き忘れてしまったのであろう。

 その故を伝えると、ファンは一層不機嫌な顔になり中指を立てた。“Get away.”は取りに行けの一声だと私は受け取って部屋を駆けだした。

 思わず笑みが洩れる。こうやって素直に感情を露わにできる彼を、私は少し羨ましく感じた。

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