第7話 烏と鴉

 長い夜が明けた。

 巻き煙草やらスピリフの残骸に、零れ落ちた錠剤や黒染みに汚れた注射器、高度数のスピリッツの空き瓶、壁は薄らと煤け、地下室の床にはありとあらゆる「ゴミ」が散らばっており足の踏み場もないのであるが、輩は宛らゴミ屋敷の住人の如く雑魚寝して鼾まで立てているのだから感心ものである。

 時刻にしては既にA.M.07:00を回っている。足元に注意して出口を目指す。注意というのは暴漢に等しい彼等を踏み違えることではなく、誤って注射器を踏むことに対してだ。彼等の多くは注射を使い回しているため、下手に皮膚を切ったりすればHIVなどに感染しかねない。しかし1、2時間前の'el Jimador'が下ろす足場を狂わす。だからこそ慎重に、慎重に意識を集中させる必要があるが、これは私にとって最も苦手な分野であり、'orphan house'から脱出できた頃には疾うに神経が疲れ果てていた。

 奴等の車さえ止まってはいれども、その他は見渡す限りの大自然が広がっている。遠くに聳える山々は昇ったばかりの太陽に照らされて黄金に輝き、生命に息吹を与えるかの如き情景は疲弊し切った私の心身を癒すに容易かった。

 裸体を曝け出せば心地よい朝の微風が肌を刺激する。トレーニングウェアに着替えるとウォーミングアップもそこそこに私は西へ向かって駆け出した。風が好きだからこそのタンクトップである。向かい風はやはり冷たく、針のように剥き出しの両肩を突き刺して軽い痛みを与えた。視界の光景は目まぐるしくも移り変わっていく。両脇もこの先にも曠然たる森が広がるのみであるが、一本一本の樹木は驚くほどに個性深く土壌に腰を据え、或いは小鳥の囀りが色取り取りのハーモニーを奏でて聴覚を優しく撫でてくれる。

 思い出せば昨年はエマニュエルも一緒に走っていたっけな。今現在の肥満体型が嘘のように引き締まった筋肉質の体躯を備えていた彼は、この土地について無知な私を先導して様々な事を教えてくれた。詳しくは覚えていないが、この鳴き声の鳥はなんと言ってだのこの森には'moose'がいてだのとの薀蓄を、それに頻繁に訪ねるらしい'Banff'の壮観な自然美についてもつらつらと語ってくれたものだ。しかし彼の話は私にとって決して退屈なものではなく、寧ろ多分に満足させてくれた。

 というのも、私も自然が好きなのだ、少なくとも人間よりは。

 日本ではよく動物園や植物園に通っていた。常に年間パスポートを持ち歩いて「別荘」なんて呼んで、暇がある度に、いや忙しくたってほとんど毎日のように通っていたよ。彼等は何時でも私の話し相手になってくれた。あの頃は人間の顔の識別は難しかったが、彼等の顔ならば一目瞭然で誰が誰だか判断できており、また彼等だって私を覚えて歓迎してくれていたようにも感じる。取分け仲の良かった雄のエミューが亡くなった際には、顔馴染みの飼育員が私を思ってその羽根を譲ってくれたりした。

 物思いに耽っていると、不意に背後で巨大な何かが地上に降り立つ気配を感じた。振り返ればそこには一羽のワタリガラスがいて、私を粛として見据えている。その鋭利な眼光はしかし儼然たるもので、有無を言わさず私に制止を強いるのだ。80cmはあろう躰を覆う羽毛には、墨染色を基調に所々に白斑が入り混じっている。閑静な遊歩道に佇むカラスは陰翳に寂滅を唱えずに、厖大な存在感を放ち現前している。

“Enjoy ya life?” (生きてて楽しい?)

 嫋やかな軟風に紛れた詞が鼓膜を撫でた。

 無意識の問掛が私によって尋ねられたものであるのだと、悟れば只管に自分を虚しくさせるだけであった。

「死んで楽しい?」

 どうやら私の心持ちを察してなのか、面前のワタリガラスが問答の相手をしてくれるようであった。彼の寛大さに甘えて暫く話すことにしよう。

「驚いた、日本語が話せるんだな。英語ができるところを見るとカラス語も入れて'trilingual'なのかい?」

 だが冗談交じりに言ったのが悪かったのだろう。

「言葉なしとて対話はできる。お前が一番分かっているであろうに?」

 なかなかに博識なカラスである。説教を食らってしまった。

「まるで俺の事を知ってるような言い草だね」

「眼には持ち主の歴史が宿ると、これもお前がよく知っていることだ」

 カラスはコホンと咳払いするかのような仕草を見せて、話を戻そうと提案してくる。人間みたいなカラスだ、だが嫌いではない、可笑しな奴である。

「生と死は鏡合わせである。ならば死が意識の消滅を含意するのであれば生に意義を求めること自体が誤りなのではないか?」

「だとすると生に価値はないと?」

「無論。命の価値など人間の誇大な妄想が育んだ精神病理に過ぎないのである。生きとし生けるものは皆、我々ですら生に縋るものなのだ。人間は極めて哲学的であるが所以に、生への執着が結果的に他者をも包括し得るようになった。'人は人に対して狼'であるからこそ、自己の救済と保護の為に生を正当化する他ないのである。死を齎す影は人間にとってのみ悪魔であるのだ。」

 やはり博識なカラスである。感心すると同時に少し意地の悪い、まぁこの賢者に対する悪戯心が働いたのだ。

「カラスの癖に随分と人間らしいな」

 痛い所を突かれたらしく、彼はあからさまに取り乱して壮麗な羽を広げ叫ぶのだ。

「折角親切心で答えてやったのに、無礼な奴め!」

 言い終えるとすぐさま方向転換してカラスは森の奥深くへと飛び立ってしまったが、しかし去り際に彼が顔を赤らめていたところを見ると、私にはまた逢えそうな気がしてならなかった。


 15kmほど周回して'orphan house'の敷地に辿り着いた時には既に一時間が経過しており、腕時計の針は8:10を指していた。だが人の気配がほとんどないところを見るに、どうやら奴等はまだ地下で惰眠を貪っているようだ。重度の不眠症で眠れない私にとっては大抵の人間が寝坊助である。文句を言っても仕方あるまい。

 触れれば汗の滴るタンクトップを脱ぎ捨てて、異国の寒気に肌で触れた。瞬時に全身は冷え込み鳥肌を立てるが、一向に噴き出す汗の収まる気配はない。躰の深部は人数倍も鈍感で、吞気に熱を発して止めない為である。代謝異常による全身性多汗症こそが私の人生を狂わせた根本要因であって、私は先天的なこの障害を心底恨み憎んでいる。衣類を身に付けるだけで季節を問わずに汗が滲み、幼少の頃より時季外れな服装をして嗤笑を受けた。人は異端を排除したがるから、私が孤立するのは至極当然であって、小学生の時分には既にそんな運命を享受していた。しかしだからこそコイツとの向き合い方はよく理解しているつもりだ。それに奇異な眼も見慣れたものなのだから、私は構わず上半身裸の姿で邸宅の壁に寄り掛かった。気温はまだ7℃ほどである。

“Are you crazy!?” (あなた馬鹿なの!?)

 右に目を遣ると二十歳前後の女性が目をまんまるにして私を凝視していた。巻いたゴールドのロングヘアが潤しく輝き、ハリウッドの大女優みたく容姿艶麗に整った顔立ちであるにも関わらず、瞳が少女のごとく純真無垢であったのが印象的な、そんな女性であった。彼女は羽織っていた紅いブランケットを私に投げつけると頬を膨らませて言うのである。

“I don't want you to catch a cold, coz I'm interested in you.” (アナタに風邪を引かれたら困るのよ。だって私のお気に入りなんだもの。)

 クスッと綻んだ彼女は妖麗な雰囲気を醸し出していた。

“You seem similar to Susarmo.” (アナタってスーサルモにそっくりだから。)

“Nothing.” (とんだ勘違いだ。)

 何を言い出すんだと呆れてその場を離れようとした私の腕は咄嗟に掴まれ、否応なしに元いたところへと引き戻されてしまった。

“Nothing I talk to you.” (キミと話すことは何もないよ。)

“Okay, you don't need to do anymore.” (じゃあこれ以上話さなくてもいいから。)

 すると彼女は一層婀娜めいて、魔女みたいに微笑んでみせるであった。

“Sleep with me?” (セックスしよっか?)

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