第2話 孤児の家

*物語の舞台はカナダである。英語による会話は“(英語表記)”に加え、適宜括弧書きで日本語訳も添えている。


 カナダに向けて渡航したのは2019年10月18日の金曜日、ちょうど台風が関西に到達した日であった。運良くも登場予定だった飛行機は運航停止にならず、関西国際空港を夕方には離陸してくれた。但し飛行機は幾度か暴風に激しく揺られて、決して心安らぐフライトではなかったのだが、20時半、まぁ数時間の遅れで無事目的地のエアポートに到着できたのだ、機長さん達には感謝である。

 入国手続きを済ませ、即座にスマホの電源を入れると、数十件と不在着信やらメールやらが届いていた。空港前には馴染みの友人らが私を車で迎えに来てくれている。台風の影響で2時間強の大遅刻だ。Wi-Fiに接続しながら出口を探しつつ、そのうちの一人、エマニュエルに電話をかけた。2コールもしないうちに懐かしい、彼の低く図太い熊のような声が鼓膜を揺らした。

“Fxxk you, NOMAD!!”

 スピーカーにしていたものだから近くの何人かがこちらを怪訝そうに窺う。1年越しに聞く第一声がそれかね...、などと苦笑いしつつも、別にエマニュエルたちが怒り心頭であるわけでもないことに安堵していた。

 くだらない談笑も交えつつ、指定された待ち合わせ場所へ急ぐと、黒いフォードのオープンカーからこちらに手を振る二人の姿が確認できた。

 助手席から顔を覗かせる、TOM FORDのサングラスをかけた青いヘアカラーのモヒカンくんが、毎年ライブでDJを務めるファン・アルメイダだ。ファンはゴロツキというよりは単なるやんちゃ坊主で喧嘩っ早い、というより血の気が多い。

 左ハンドルに腰かけるアロハシャツの肥満体は、こう見えても初めて出会った頃は筋肉質のいいオトコであったのだが、自称音楽プロモーターのエマニュエルだ。その図太い首には三重にも四重にも純金のネックレスがぶら下げられており、まぁ富豪というよりは危ない宗教家のようにも映る彼は何とも滑稽である。エマニュエルの揺らす左手首に巻かれた腕時計にはダイヤがみっちり埋め込まれており、空港の照明を反射して眩く輝いている。

"Nice to see you again, Emanuel, Juan." (久し振り、エマニュエル、ファン。)

 なんであれ約半年ぶりの再開だ。身を乗り出す2人とハグする。

 大量の機材が乱雑に散らばった後部座席に私も重いスーツケースを放り投げ、その上に腰掛けた。鈍くミシミシ音がするが気にしない。

 私を乗せた車は発進した。瞬く間に速度は日本では有り得ない領域に達する。前に車はないと、ただそれだけの理由でだ。140, 150, そして160km/sと、向かい風はフライトで疲弊した身体を癒してはくれない。普通に話したところで声なんていとも容易く掻き消される。スーツケースに重量超過で追加料金がかかった故がエマニュエルに伝わると、彼は振り返らず親指だけ立てた。今回のカナダ滞在では私に一銭も払わせない、約束は守ってもらおう。

 大音量のBGMも視界一面に広がる田園地帯では誰の迷惑にもならない。ちょうど一年前に銃殺されたラッパーのスクリームは虚しくも刻一刻と失われていく。

 私たちはまず「物置」に向かう。地域一帯に散在するManadou邸の一つだ。初めて訪れたのは昨年になる。3階建ての一軒家は静謐とする森林にそぐわない橙色の巨塔、ここに住人はいない。私のような来客と、エマニュエルの「世話」になっている彼らの荷物置き場となっている。ここにスーツケースを置き、必要な機材と最低必需品だけもってライブハウスに向かわねばならない。邸に仕組まれた厳重な防犯設備もなくては、この街では一瞬で空き巣の餌食になる。

"NOMAD, look. " (ノマド、見てみろ。)

 片手ハンドルでエマニュエルは左前方を指差す。

"It's you." (お前がいるよ。)

 一羽のカラス、夜闇に遠目だがアメリカガラスに違いない、一羽のカラスが野道を歩いている。こんな時間に餌でも探しているのだろうか、珍しい。時々何かを啄む動作をして、また忙しなく移動を繰り返す。

"I'm a crow, just leave me alone."

 こちらを振り返るファンはガキのように悪い笑みを溢す。

"Still, Juan." (ファン、まだだよ。)

 まだ、歌う時は今じゃない。昔から他人に歌わされるのは嫌だった。私は自分の求める時だけに口づさむ。だから心の奥で、寂しく音色を奏でてやった。

 「物置」に到着した私たちは車内の荷物を運び入れていった。扉のロックが遠隔操作で解除される。緩やかに開いていく隙間から仄かに埃臭さが染み出てくる。掃除はされていないので汚いのは当然であるのだが、あまり自分の荷物を置くとなると気は進まない。

 私の荷物置き場は2階である。生活感のない無機質な豪邸、ここにはエマニュエルの財産は何一つ残されていない。金持ちの道楽なのだろうか、彼にとっては財布を買うのも家を買うのも何ら大差ないことなのかもしれない。

 指定された部屋は空部屋だった。机すら設置されていない。私は左隅にスーツケースを置いて腰掛けた。照明はつけない。開けっ放しのドアから薄らライトが入り込んでいる。

 初めてのライブハウスも真っ暗だった。細い一筋の照明だけが頼りだった。先天的な極度の緊張症は不思議と起こらなかった。ただ私は人の目が怖かった。'weed house'は荒れている。ライブ中にも関わらず男女はセックスに溺れ、大麻を吸い、殴り合い血反吐を垂れ流す。ウィードの煙たさが地下部屋全体に充満し、只でさえ狂暴な彼らにエクスタシーを誘う。誰一人私を見ていないかもしれない。それでも闇に映える人影は揃って私を睨み付けている。恐らく奴等は黄肌のラップを恨み蔑み、懐に隠した銃で私を殺しに掛かるのだ。誇大な妄想が私を蝕み、嫌な汗がマイクを伝って滴り落ちる。地響きではなく、ステージを揺らすのは奴等の罵声である。私の全人格を否定し、滑稽な曲芸師を嘲笑するのだ。奥の舞台袖からエマニュエルがこちらにサインを出した。彼は微笑んでいるが、彼の笑みでさえ私には歪んで映る。視界は不安定にグラグラしている。クラッチが響く。私には朧気な意識に従い前に進むしかなできない...。

"Hey, crow."

 不意に現実に引き戻された私は、ドアの向こうに佇むスキンヘッドの大男に気付いて声を上げた。

"Chimaira! How are you, my bro?" (キマイラ、元気にしてたか?)

 キマイラ、彼の本名はヘイデン・ギャヴィストン。ちょうど一年前のライブで大トリを務めた男だ。エマニュエルの主催するライブでManadou家以外の誰かがトリを任されることは珍しい。それほどキマイラの才能が認められている証拠ということだ。頭から足先まで全身タトゥーに塗れた彼は、身長195cmもある巨漢である。

 返事する代わりに彼は私に即興ラップを持ち掛けた。日本人の私にとって未だに英語でのフリースタイルは慣れないものだ。それに単純に即興が好きでない、ということもある。現在日本でラップといえばフリースタイルラップを指すような風潮があるのも、私が日本でラップ活動を行わない理由の一つである。

 まぁキマイラは気が強くプライドが高い。ラッパーなんてそんなものかもしれないが、特にだ。恐らく去年のライブがきっかけで、彼は私に対して一方行的なライバル意識を持ってるようである。

 私の眼前で即興に一人のめり込むキマイラ、彼は必死になると両腕の動きが激しくなる。その姿に少し懐かしいものを感じ、思わずニヤリと口角が上がったようだ。キマイラは苛立った口調で、早く返してこいと言わんばかりに挑発を繰り返す。

"I rap, only when I wanna do, you know?" (俺は俺がやりたい時にしかラップはしないって、知ってるだろ?)

 キマイラをどかして部屋を出た。彼のラップに混じって下の階からエマニュエルの声がずっと聞こえていたのだ。そろそろ出発の時間だ。

"Let's fight again at these lives." (これからのライブで争おうよ。)

 中指を立てられているが、大人しく後ろから付いてくるのを見ると納得はしてくれたようだ。寡黙に歩く彼は先程のキマイラとは全くの別人である。他人と目も合わせられないほどにシャイな、ヘイデンに戻っている。

 この街にはこんな人間が沢山いる。今から向かう場所はエマニュエルの本邸で、私たちは'orphan house'と呼んでいる。その別称の通り、エマニュエルの家族と共に十数人の孤児たちが暮らしている。詳しくは述べられないが、まあ養子のような人々と捉えてもらえればよい。なぜ彼らが孤児になったか、理由は様々である。ただ中には、幼少期から犯罪を繰り返さざるを得なかった者や、SIN(社会保険番号)をもたない者なども普通にいる。エマニュエルは彼らを莫大な資産の下で個人的に養育し、社会復帰への手立てとしてラップのライブを定期的に開催しているのだ。これが私がエマニュエルを「自称」プロモーターと呼ぶ理由である。彼の本職は音楽プロモーターでもなんでもない。ライブの主催は、所謂彼の道楽の一つに過ぎないのであろう。

 すっかり片付いた後部座席に再び腰を下ろす。こちらがファンを待っている間に、ヘイデンは先にマイカーで'orphan house'に向かったようだ。

 時刻は既に23時、街灯も少ない田舎道には果てしない闇が続いている。ハイビームが照らすより先には光がない。

"NOMAD, do you know Susarmo?" (ノマド、スーサルモって知ってるか?)

 エマニュエルの尋ねる"Susarmo"という聴き慣れない発音を、その時の私は"Suicide"と聞き違えてしまった。"I know 'Suicide'."と返した私にエマニュエルは笑いながら、

"Yeah, surely many guys hope for his death, coz he is insane, crazy, aggressive, brutal, but ingenious." (確かに大勢の輩がスーサルモの死を願ってるさ。だってアイツはイカれてて、クレイジーで、攻撃的で残虐で。けど“ingenious”なんだよ。)

"Maybe than you." (多分ノマドよりもな。)

 ファンが意地悪そうにこちらを見詰めるが、私は無視した。この街の住人は無駄にプライドが高いが、それは余所者の私だって変わらない。変に敵意を抱いてしまったんだよ、"Susarmo"という名前の男に。

 風を切る感覚すら失ったかのようである。姿も知らない"Susarmo"、彼が一時間足らずの旅路で、いや起きていた間ではあれど、片時も頭から離れなかったのは、これも運命の予兆というものであったのだろうか?

 'orphan house'へ向かう車内は不思議と無言であった。またフライトの疲れも溜まっていたのだろう、私は知らぬ間に眠ってしまっていた。だから次にエマニュエルが私の肩を揺すった時には戦慄したのだ。

 ボロボロの車にもたれた"Susarmo"を見て、だ。

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