第4話 妖煙に紛れて

 思った通りリリックのメモは後部座席に置き忘れていた。

 メモ、と言っても乱雑に曲順を列挙しただけの紙切れである。

“sun and crow, rise but you don't.”

 ウィスパーは夜風に紛れて消えていった。

 去年の記憶だって、もうほとんど埋もれてしまった。去年は“Never Be Black”のタイトルを引っ提げてライブに臨んだのだが、これが人生で初めてのライブであった。ひとつ前にライブをした30代の男は客から角瓶を投げつけられて流血していたが、彼は朦朧とする意識の中舞台から引きずり降ろされて、結局1ドルの報酬すらも貰えなかったらしい。確かに、舞台袖で備えていた私にも、彼のラップには人生も何も微塵も感じなかった。

 だから心に余裕があったんだ。私の詩には私の人生が昇華されている。この街に暮らす住人は「痛み」を抱えて生きているが、私の「痛み」は詩に表象され、違う「痛み」を知る彼らにすら理解されることは明白であった。

 それにも関わらず私は恐れを感じずにいられなかった。私を否定してきた過去が、人生そのものが牙を剥いているようで、ただひたすらに恐ろしかったのだ。この膝の震えは武者震いなどと誤魔化せる筈もなく、私は私の生み出す怪物に怯えていた。

 あの日私がどのようなライブをし、そして何故今年も呼ばれる事になったのか、記憶は霧がかって晴れることはなく、未だによく分かっていない。ただ、ウィードの蔓延した地下室では最後、“crow”の歓声が飛び交っていたのは覚えている。ステージを後にした私を介抱するエマニュエル達も、私を“crow”と呼んで称えていた。

 故郷は私を「人間」として非難し、否定する。カナダは私を一羽のカラスとして認めてくれる。深夜2時前、'orphan house'を囲む森林は粛然たる雰囲気を漂わせているが、私にはこの静寂こそが煩わしかった。だからこの闇に溶け込んだカラスにでも伝わればいいと、腹の底から思い切り哭いてみた。ずっと黙り込んでいたので、喉が軽く焼けたようにピリついて、薄ら血生臭い香りが鼻孔を突き抜ける。それでも私にとっては気持ち良かった。

 暫く孤独を楽しんだ後、私は地下室へ急いだ。出ていったきり戻って来ない私に対して、ファンは堪忍袋を切らしているに違いあるまい。どう謝ろうか思案しながら重い扉を開くと、真っ先に飛び込んできたのは当の本人、ファンの罵声だった。しかしそれは私へ向けられたものではない。

 目を凝らせば機材の一つが砕けている。まるで鈍器か何かで叩き付けたような傷跡は、少なくとも私が出掛ける以前には無かったものだ。カランコロンと金属音が密室に響く。スーサルモが落とした鉄パイプの音である。

 ファンの怒号の隣ではエマニュエルが慌てていた。相変わらず頼りにならない男で、喧嘩の仲裁もできないとなると呆れて溜息が漏れる。エマニュエルは私に気付くと一目散にこちらへ駆け寄ってきた。

“What happened?” (なにがあった?)

“Susarmo had been poking at Juan's MPC, so Juan blew up. But, I don't know why, he snapped back and broke it.” (スーサルモがファンのMPCをずっと小突いてて、それにファンがキレたんだよ。なのに何故かスーサルモの奴が逆ギレして、機材を壊しちまったんだ。)

“Amazed...” (呆れた...。)

 スーサルモは悪びれる様子もなく鼻歌を歌っている。これが更にファンの怒りを刺激した。我も忘れてファンはスーサルモに殴り掛かったが、逆にスーサルモのカウンターの餌食となって膝から崩れ落ちた。それでもファンは立ち上がって掴みかかる。周りの見物人達は勿論止める素振りなど見せず、火蓋が切られた喧嘩を過熱させるべく野次を飛ばすのだ。こうなってはもう収拾はつかない。

“Susarmo, he is used to fighting.” (スーサルモは喧嘩慣れしてるな。)

“A daily event.” (いつもやってるからね。)

 私には相応しい英語表現が見付からなかった。異常な程にスーサルモの攻撃には容赦がない、つまりは加減を知らない暴力に違いなかった。抵抗すらできないファンから大量の返り血を浴びようがお構いなしである。倒れ込む彼の頭部に高らかと拳を振り下ろして止まらない。ファンも気性の荒いこの街の住人だ、流血で赤黒く煌めく顔面も今だ鬼の形相を保っている。

“I don't still want him to die.” (まだファンには生きててほしいよ。)

 しかし私が歩を進めるより早く、危険を感じた連中が数人がかりでスーサルモを引き剥がして抑え込んでくれた。ホッと胸を撫で下ろす。ファンが大きな怪我を負ってしまえば、今日のライブに支障を来す。わざわざ国境を越えた意味を失うということは、流石にどうにも耐え難いからだ。私は自己中心的な安心感に満たされていた。

 穏やかな足取りで血塗れで寝そべるファンに歩み寄る。自慢のモヒカンは見る影もなく、ブランド物のペンダントやらネックレスも千切れて辺り一面に散乱していた。T-シャツは胸までベットリと粘液が滲んでおり、私はしゃがんで彼の腹に手を添えて揺すった。

“Are you okay?” (大丈夫かい?)

 偽善だ。

 嘘を吐いた。汚い心配の言葉だった。だが掛けないよりはマシにも感じたから、だから虚無な言葉の殻を放ったのだ。

 ファンはまだ存分に意識を保っているらしく、ただ足が動かせないだけで、なので私に1階まで肩を貸せと言うのだ。何の用かと問うても彼は無言で首を横に振る。妖しいのは、その眼差しは異様な程に鋭く、青く、尖っている。まぁ先ほどの借りを返せばいいのさと、一抹の不安を拭えないながらもファンを担いで地下室を後にした。

 ファンを背負って階段を登りきると、彼はここに自分を下ろして、私には去ってくれるように頼んだ。しかし、私の介抱なしに歩けるまで回復していないのは明白であり、少しは戸惑ったが、彼の意思は尊重したくも思えた。それにこの様子だと、まだ2時間は打ち合わせなんてできやしないのだ。ファンの気紛れに従うとしよう。

 彼を背に道を引き返せば、扉の前ではエマニュエルがまた待ち構えていた。何とも言えない表情をして、今日のライブの開催に雲行きの悪さ感じているのだろう。

“Why did you invite him?” (どうしてスーサルモを呼んだんだ?)

“I said, coz he is a prodigy.” (言ったろ?アイツが天才だからさ。)

 反論する気にもなれなかった。変に怠惰の感情が胸中を蝕む。馬鹿に効く薬がないのなら、この街はやはり救えない。否、だからこそ需要が高まるコイツがあるのかもしれない。

 鼻をつく優美な薫り、さながらフルーツ・オレのように甘ったるく、だが肥溜めみたいな薄ら臭さが混じる独特な薫りが、既に室内に充満し始めていた。大麻臭である。目を横に遣ればキマイラとその仲間の連中も輪を作って胡坐をかき、タバコの葉に擂り潰した大麻を詰めたブラントに火を灯している。咥えて慎重に吸い込む度に、輩達は白煙に包まれて姿を隠すのだ。

 その光景はインドのアグニ崇拝を彷彿させた。焚かれた祭火からは絶え間なく黒煙が昇り、見物客諸共を包み込んだ。視界は完全に遮られ、薪の焦げた臭いに御香の芳香が入り混じって私の鼻腔を燻ぶらせるのだ。視覚と嗅覚が機能しない中、ヒンドゥー僧達の唱えるマントラは深淵に私の聴覚を揺さ振った。あの日の情景が不思議と重ね合わせに浮かび上がる。唯一異なるのは、マントラに代わって協調性のないビートに彩られた賢者達のラップに相違なかった。

 気付けば何処を見渡しても、ある者はパイプで吸引し、またある者はスプリフを調合して現実と夢幻の狭間を彷徨している。妖艶な白煙は私の頑固たる理性をも刺激し、朦朧な快楽へと導いてくれる。ただひたすらに自我の内部世界へと溶け込んでいくのを感じていた。私のADHDは幻想の如く掻き消されると、離散した落ち着きのない意識は統合されていく。妄想には違いないが、神秘的な旋律が透明な私を覆い隠してしまう。こうなればファンは一旦必要ない。架空のビートに私はリリックを浸透させていった。相性の良い性交渉のように、旋律は詩を絡めて離さない。

 “revelation”、今日の為に用意した新曲を口ずさんでみた。どうせ誰も聴いちゃいないさ。2択で迷っていたトラックも無事に絞ることができた。曲に限っては理論より本能に従うべきだと私は知っている。

“i feel revelation gabriel tipped goddamn me. hence i need and devise impregnable strategy.”

 不意に、視線を感じて振り返った。

“Shut up, yellow.” (黙れよイエロー。)

 目線の先には、機材に一人腰掛けるスーサルモがいた。彼の右手にはウィードではなくて、ピンクの液体が注がれたショットが握られていた。それ以上に照明に映えて浮き彫りになった両頬のタトゥーが私の意識を根こそぎ奪った。

 彼の右頬から垂直に右胸にかけて、成人男性の全裸の全身画が、対称的に左頬から左胸に及んで女性の全身画が描かれている。心臓の直上に、二人は愛を誓うかの如く固く互いの手を結び合わせていた。二人は微笑みは穏やかであったが、私にとっては心なしか不気味に映って仕方がなかった。

“Damn it, yellow should die, especially if you rap anymore.” (イエローは死ねよ。これ以上ラップするならなおさらだ。)

 アイツはこう言い放って中指を立てた。

“Did something wrong?” (気に障るようなことでもしたか?)

“All you did.” (全部がムカつくんだよ。)

 機材から身軽に体を投げ出すと、スーサルモは一目散に私目がけて殴り掛かってきたのだ。ヤツの意図が理解できないままに、私も臨戦態勢に入らざるを得なかった。無慈悲にも殺意剥き出しの拳が躱した頭上を通り過ぎる。渾身の一撃にバランスを崩した隙を見逃さず、アイツの懐にタックルして飛び込んだ。瞬時にスーサルモの体躯は宙に浮かび、私も容赦なく彼の全身をコンクリートの床に叩き付ける。ぐっ、と息の詰まる音が漏れ、同時に拳を掲げたその瞬間であった。

 右肩に衝撃を感じた時には既に、私は横に弾き飛ばされていた。代わりに私が元居た場所には、倒れたスーサルモに跨る形でファンがのし掛かっている。その右手には何処から持って来たのか、銃が握られており、彼はスーサルモの額に銃口を押し当てて叫んだのだ。

“Fxxk you now!”

 ファンの眼は確かに震えていた。

 

 

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