式日の灯

 ジッ。

「……ダメだ」

 深夜3時を過ぎたとあるアパートの一室で、痩せた若い男は呻くように呟いた。

 今日はライターのつかない夜である。

 その男、能崎遼介。歳は27、一介のそこそこ有名なバンドマンである。「the cranberry rabbits」というそれなりにロックに詳しい人間なら誰もが知るバンドのフロントマンを務める男はしかし、誰も、バンドメンバーでさえも知らないジンクスを持っていた。すなわち、彼の持っているbicの切れかけのライター。それが点かない日は歌詞が上手く書けないという実に些細な、けれど彼にとってはとても重要なジンクスだった。

 こういう夜は長くなる。もともと夜型の遼介だが、部屋中をウロウロと動き回り、どんなことをしてみても眠れもしないし歌詞が出てこない。とはいえ、そんなジンクスに頼っているのも馬鹿らしいと自分自身も思っていた。何しろ曲の締め切りは迫っており、誰にも理解できない理由で曲が完成しないとなったら、バンドメンバーはもとよりマネージャー、スタッフ、ひいては事務所から何を言われるか分かったものではない。どう考えても社会一般生活には向いていない遼介だが、所詮は事務所という会社の会社員でしかないという事実には遼介自身が一番辟易としていることだった。それをおいても歌詞が出てこないというのは自分にとって好ましい精神状況とは言い難い。

 酒でも飲もうと彼は思った。どうやっても出てこないのはよくわかっていたが、こんな時は飲まないとやってられないし、酩酊した頭で何かが出てくるということも時にはないではない。

 冷蔵庫を開けてアサヒスーパードライを取り出す。カシュ、と無駄に爽やかな音で缶は開いたが、爽やかでもなんでもないのはこっちだ。一口飲んで、冷たさと鋭い感覚が喉を刺す。酒は美味い。どんなに歌詞が書けていなかろうが、バンドメンバーと最近険悪な雰囲気であろうが、今日一つも生産的な行為ができていなかろうがどんな時に飲んでも酒は美味いと思った。一般的な会社員なら仕事の後に飲むビールは格別だと言うのかもしれないが、一般的ではない遼介はいつ何時でも酒は美味いと確信している。正直飲む酒はなんでもいい。ただ酔っ払って今の不快極まりない焦燥感を鈍らせることができるならば。

 何も考えず一気に缶の半分ほど煽り、彼はギターを手に取る。体の一部のように手に馴染むそれで、呼吸するように弦を爪弾く。Em、Bm7、手癖で出てくるコードの響きは鬱屈としている。鬱屈とした人間でなければバンドなんか組まないしロックなんか歌わない。しかし今回の曲は珍しく明るめのコード進行だ。曲はもうできている。

「アー、アー」

 酒で焼け付き始めた喉を無理やり開いて、声を出す。母音とハミングでメロディをなぞる。適当な言葉を紡ごうと思ったが、音の数に合う言葉もないまま、ただサビまできてしまった。

 尚更鈍重な気分になって、彼はギターを置いた。雑多に物が散らかる机の角に転がっていたスマホを拾い上げ、LINEを開き、指を滑らせた。そして通話ボタンを押す。

 流石に寝てるかも、と思ったその時、着信音はふっと止んだ。

「……どうしたの」

 気怠げな相手の声。けれど深夜に叩き起こされて怒気を孕んでいるといった様子でもない。

「ごめん寝てた?」

 一ミリも謝る気のない声で言う。

「いや別に。久しぶりじゃん、何歌詞書けないの」

「当たりでーす」

「はぁ……」

 ため息をついた相手は、しかしそれにしてはどこか嬉しそうですらあると感じるのは、自分の驕りだろうか。

「さっぱりダメ。そっちは何してたの」

「特に何も。眠れないから本でも読もうかなと思ってたとこ」

「へえ」

 さして話したいことがあるわけでもなかった。ただこのひとの声を聞くと不思議とクサクサしていた気持ちが落ち着いていくような気がする自分が笑えた。

「……そうだ。弥生さぁ、結婚すんだって」

 なんとなく含みを残した言い方で、相手は呟くように共通の知人の名を出した。

「ああ。まじで」

「うん」

「ウケるね」

「ウケねえわ」

「あはは」

 暫しの沈黙。

「……俺たちもさぁ、結婚とかすればよかったんかな。なんてね」

「ばーか。するか」

「深夜3時に電話かけてくるクズバンドマンですし?」

「それな」

「もう遅いですし?」

「ばーか」

 笑い声が聞こえなくとも、相手が笑っているのが分かった。また沈黙。なぜこんなに無言が心地良いのか、気づいていないフリをする自分がいる。

「そろそろ寝る。明日早いから」

「すまんね。付き合ってもらって」

「ええよ」

 ほんの少し、間を空けて相手は静かに言った。「おまえの曲、かっこいいから」

「じゃあね」

 相手は通話を切った。遼介の言葉を待つことなく。

「……」

 前に進んでいるんだ。このひとは。そう思った。

 ポケットに入れたライターを手に取る。

 ジッ。火打ち石が回って、しゅぼ、と火が点いた。

 ライターがついた夜になった。

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「ライターのつかない夜である」 なとり @natoringo

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