「ライターのつかない夜である」

なとり

白日の灯

 ライターのつかない夜である。

 今日初めて互いに顔を知った男女も年齢もバラバラの者達が六人。排気口と窓に一分の隙もなくびっちりと目張りをした社用車のような味気ない白いバンの中で、私達は練炭を入れた七輪を中心に何事とも言い難いような顔で互いを見つめ合っていた。

「……どうしましょう……」

 真ん中の後部座席、ドライバーの私が振り返って見て右側の人、歳は21と言っていた、かえでこさんという人が途方に暮れた顔で呟いた。

「すみません、僕がSAで煙草を吸っていれば確認できたのに。最期なんだからどうせおんなじだったのに」

「いや、春原さんのせいじゃないですよ」

 私は一番うしろの席の右側の人、春原さんになだめるように言う。何より焦る自分を落ち着かせたかったのかもしれない。この中で一番の年長者、57歳の春原さんは以前はヘビースモーカーであったらしいが、二年前の冬に肺にがんが見つかった。それから懸命に治療を受けたががんの進行を止めることができず、一ヶ月前ついに余命半年と宣告され、ホスピスでの終末医療を望まずここに参加することにした、とサイトで言っていた。強い薬で痛みを抑えているが、彼の身体は病に冒されている証にひどく痩せている。本当は喋るのもきついはずであろう。

 ヘッドライトがないと寸先さえ見えない暗闇の中、私達は各々のスマートフォンのライトで手元を照らし合う。

「どうします、もう一度戻りますか?」

 私の隣、助手席に座っていた42歳の男性、内村さんが言う。ブラック企業に勤めていた彼はある日電車の飛び込み未遂をし、鬱病と診断され強制的に休職に追い込まれたらしい。

「いや、それがほら」

「あ、そうだった……」

 そう、私達は最初に示し合わせて厳密に“最期”を迎える場所を決めた。そして間違っても戻る気を起こさないよう、きっちり計算して文字通り片道分のガソリンしかこの車に積まなかったのだ。ガソリンのメーターは道中の少し前からEmptyを示しており、つまり引き返したところでこの車は路上で停止する。無論関係のない他人を巻き込んで事故を起こす気は我々にはなかったし、そもそもここはまるで車通りのない青木ヶ原、正真正銘富士樹海の中である。他人を巻き込むどころかガソリンスタンドはすでに走れる距離に遠く及ばない場所にあった。

 かえでこさんの隣に座っていた男性、プルートさんが突然ひらめいたように叫んだ。

「あっそうだ!シガーライター!」

 私は冷静にパネルを再確認する。そして、

「この車ついてないんですよそれ……」

「嘘でしょ」

 プルートさんは目を見開いたまま絶句した。

「最近の車、シガーライターついてないのもありますからね」

「本当に最後の最後まで絶望を食らわせて来ますねこの世界は」

 プルートさんは婚約していた彼女と10年間付き合った挙げ句に別れた。そして何年もその恋人以上の人が現れないことに疲れ、絶望したと言っていた。

「嫌煙家も最近は多いですしねえ。忘れた私が言えることじゃないんですけど、全く肩身の狭い世の中になったもので」

 春原さんが言う。かえでこさんが小声で済まなそうにうつむき、

「わたし、煙草嫌いなんですが……」

「あ……申し訳ない。そういうつもりじゃなかったんだ」

 慌てて訂正する春原さんに、

「いえ。むしろ今はなんで自分が喫煙者じゃなかったのか全力で後悔してます」

 かえでこさんは弱々しく微笑んだ。

 午前中に全員を指定の場所でピックアップしてからここまで走る8時間の中、私達は必要最低限の確認事項を話しただけでさしたる会話もしなかった。エンジン音とときおり通り抜けるトンネルの反響音の他には夏の盛りであることを否応なく感じさせる蝉の鳴き声。そのぐらいしか聴覚の記憶が残っていないほどに車内は終始静まり返っていた。音楽を聞いている人、眠っている人、ただ窓の外を眺めている人。ぼうっと前を見つめている人。本を読んでいる人。そして運転している私。皆思い思いの最期を車内で過ごしていた、つもりだった。

 しかし今、鬱蒼と息の詰まるような深い暗色の林間に取り残された最後の文明のようなこの車内は、どうしようもなく初歩的な文明が欠如していることが判明した。このあまりにも愕然たる事実の前に、私達は初めてリアルで会話らしい会話をしている。私は今更になって奇妙な感覚を覚えてきた。が、この状況が打開できないことには変わりがない。我々現代人はいざというときに“死ねない”脆い文明の中にいるのだ。そういう思いが私の頭に去来していた。進むこともできなければ、引き返すこともできない。私達はしばし押し黙ってしまった。

「……一旦ここから出て、道を戻りましょうか。GPS効いてるんで、歩いて戻ればどこかの施設やコンビニにでも行けるかもしれません」

 幾許かあって、私は提案した。

「や、でも夜の山中は危ないですよ。ライトもスマホのものしかないし、全員で順番に灯してもこの装備でこのメンバーだとどこかにたどり着く前に遭難するでしょうね。まず春原さんは長く歩けないでしょう」

 内村さんの反論は尤も過ぎた。そうだった。遭難することでの自死があり得たとして、春原さんは私達と一緒に長く歩けない。

「僕のことはいいよ。置いてってください。痛み止めもあるんでここにいればそのうち楽に死ねると思う」

「ダメですよ。死ぬときぐらい誰かと死にたいって約束したじゃないですか」

 私は思わず必死になってしまった。ここに至るまでの間、皆で何度も確認したことだった。

「クロさんに言われちゃうとはなあ。みんなの中で一番ドライだったじゃないですか」

「……すみません、なんでかよくわからないですけど、熱くなってしまって。冷静じゃなかったです」

「いやこんな状況で冷静でいられる人、neueさんだけでしょ。まさか女の子とは思わなかったけど」

 それまでずっと沈黙を貫いてきた一番うしろの後部座席の左側の女性を皆が見た。neueさんと呼ばれたその人である。彼女はサイト上でもそもそも口数が少なく、中性的な口調で性別も明かさなかったため、今日初めて顔を合わせた皆が驚いた。無論私も何となく男性だと思っていたが、インターネットを介した出会いではよくあることだろう。彼女はこの死出のドライブの最中ずっと耳にイヤフォンをしており、最初の挨拶と名前の確認以外全く喋らなかった。

「女とか男とかは、どうでもいいでしょう」

 neueさんは静かに、しかし確かな口調で言った。声量は全く大きくないのに、芯のある透き通った声だと思う。

「……私、今時こんな方法で人が集まるなんて思いもしませんでした。集まってくださって、ありがとうございます」

 彼女は発言を続ける。

「こんな言い方は変かもしれないですけど、私、ここにいるみなさんが好きです。かえでこさん、内村さん、プルートさん、春原さん、ありがとう。クロさんは運転もしてくださって、本当に感謝してます」

「いえそんな」

 私は恐縮する。

 何を隠そう、neueさんはこの自殺企図一行の発起人である。チャットという現在ではほとんど廃れてしまった文化の中で私達は出会った。時代に取り残されたその電子の部屋はneueさんが立てた部屋だ。管理人が来なくなったチャットサイトで部屋削除の憂き目に遭わずに済んだ私達はこれまた時代遅れの自殺サイトのBBSスレッドのような雰囲気で互いのことや死への想い、計画を話し合っていたのである。

 かえでこさんがポツリと言った。

「わたし、本当の名前は真由っていうんです。でも両親のつけた名前を気に入ったことなくて。もうどうでもいいことなんですけど、何となく」

「そうだったんですね」

「だからあの部屋に入ってneueさんに初めてかえでこって呼んでもらえて、本当に嬉しかったんです。実を言うと、わたし、neueさんにちょっと恋してました。気持ち悪いですよね、すみません」

「いえ、全然。うれしいです」

「いや俺もこの二人くっつくのかなって思ってましたね」

 プルートさんが言う。内村さんも春原さんも私も、男性陣が皆頷いた。

「みんなそう思ってたよ?それに気づいてなかったのかえでこちゃんだけ」

「え!?本当ですか!?恥ずかしい……」

 最年少のかえでこさんは春原さんに指摘されて少女のように照れている。実際女性になったばかりの少女のような年齢なのだろうが、微笑ましいな、と私も思う。

「それで、どうしましょう、これから」

 内村さんが言う。

 neueさんが口を開いた。

「……せっかくなんです」

 静かに、決然と。

「…今日はここで夜を過ごしませんか。明日になったら、その時また考えましょう」

 一同は彼女の言葉に耳を傾ける。

「明日、警察に連絡するのもありだと思います。でももう日常に戻る気はない人もいると思います。そうじゃなかったら皆ここにはいないのはよく知ってる。結論が変わらなければ明日になったらこのバンを出てもっと森の奥へ行ってください。警察への連絡はそのしばらく後で、考え直した人はその人たちのことを絶対に言わない、というのはどうでしょう。チャットログはスレッドごと消したし、警察に保護してもらう方がチャットのことを言わなければ、時間はそれなりに稼げると思います」

「そうですね。それで問題ないと思います。死ぬのは、もう一度考えてみます」

 内村さんが答えた。春原さんも、

「僕もそれでいいです。明日僕は奥へ行きます。幸い家族はいないので気楽なものだから」

 かえでこさんも同意する。

「わたしも戻る場所なんてないです。でもneueさんともっと話したい」

 プルートさんが笑った。

「そうしますか。どうせ明日になっても結論は変わらないとは思うんですけど、neueさんに言われたら断れないですよ」

 私も首肯して同意を示した。これまでも部屋の立ち上げ人であるneueさんの言葉は私達の光なき道への道標だった。その彼女が言うなら。

 彼女は小さくはにかんだ。

「ありがとう。私、みなさんとほんとうの夜を過ごしてみたくなりました」

 ライターのつかなかった一日限りの夜を、私達は越えてゆく。

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