幽霊

寅田大愛

第1話

いつからか姉がいなくなった。わたしは姉のことは今でも忘れていない。わたしの双子の姉。穏やかな昼の日が当たると、青白い血管が透けて見えるほどのうすい皮膚をした肌が白くて、マグカップを両手で持つ手の指や裸足のきちんと揃った十本の指が長くて、きれいな白桃色の整った爪をしていた姉。姉の髪は絹のように軽くて、小さかったわたしのそばを走って通ったとき、羽根かなにかのようにふわんとしていて、触れても、触っていないみたいで、わたしは驚いて、くすぐったいような奇妙な感触が残っているような気がして手のひらをそっとすり合わせてみた。

 姉はいつからいなくなったのか。確かいちばん最初にいなくなったのは幼稚園のころだった。わたしと姉が家で留守番をしていたときに、いつものように二人でかくれんぼをして遊んでいたときだった。わたしは鬼で、家のどこかに隠れている姉を探しにいった。まず子供部屋のクローゼットのなかを探した。クローゼットにはおもちゃ箱が重ねて積まれていて、子どもが一人くらいは隠れられそうな空間はあった。ペールカラーの木でできた優しい硬い積み木や埃っぽくなった古いくすんだぬいぐるみやもう着なくなった服を書き分けて探してみたり、ものの間に隠れていると思ったのに、姉はそこにはいなかった。わたしは次に革張りのオフホワイトのソファの後ろを探してみた。スカート姿でしゃがんで隠れていると思ったのに、そこには姉はいなかった。次はグランドピアノの下。陰になったところに、隠れていると思ったのに、そこに姉はいなかった。わたしは走って階段を上って二階に行った。二階にも隠れるところがいくつかある。わたしは姉を探した。クリーム色の埃っぽい、昼の間は縛ってあるカーテンが片方だけ膨らんでいるのを見つけた。よくみると黒髪の頭のつむじのてっぺんと、白い内向きの小さな足が二本、ちょっとだけカーテンの端からのぞいていた。わたしは笑って、近づいた。カーテンにくるまって、これで完璧に隠れることができた、と思っているんだろう。

「お姉ちゃん、みーつけた」

 わたしはクリーム色のうすいカーテンを引っ張って開けた。床の埃がふわっと舞った。煙たくて鼻がむずむずする。でもそこにはだれもいなかった。カーテンをひっくり返してみても、カーテンの裏に行って探してみても、ただ冷たい窓ガラスと、窓枠のサッシと、フローリングの光る木の色の床があるだけだった。さっきまで姉は確かにいて、カーテンも膨らんでいたのに、もうカーテンの布しか残っていなかった。姉はいなくなってしまった。鍵のかかった窓を開けてベランダにも出てみたけど、姉はどこにもいなかった。どこにいったの、出てきてよう。

 どうしよう、お姉ちゃん、ママ、パパぁ、とわたしが泣きそうになっていると、部屋のどこからか、姉のくすくすという小さな笑い声が聞こえてきた。まるで面白がっているみたいな笑い声だった。

 わたしは大学生になった。あれから十数年以上経ったけど、あの日のことはいまでも夢だったのではないかと思っている。悪い夢。あるいはわたしの見た幻覚かなにか。

 それから数日後経って、姉は突然帰ってきて、わたしたちは小学校に仲良く通うことになったのだった。わたしたちはおそろいの赤いランドセルを背負って、通学路を仲良く歩いた。消えていた間のことは、姉は語らなかった。いつまでもにこにこと笑っているか、ふっと黙ってしまうのだ。親は泣いていた。この子は呪われている。この子は普通には生きられない。わたしはまた姉はいつかいなくなるに違いないと思った。その予感は当たった。姉はそれからも時折姿を消したり現れたりした。姉が消えている間、親はまわりの人にどう説明すればいいのか、理由を考えるのに苦しんだ。わたしは友達に聞かれたり、姉のことでからかわれたりしたけど、わたしはなにも言わなかった。

 わたしはお気に入りのマグカップを両手で持って、ジンジャー入りの紅茶を飲む。湯気のたつ暖かい琥珀色のとろりとした甘い紅茶を飲みながら、姉がいたりいなくなったりしたことについて、ひとつひとつ、思い出している。白いマグカップはもうひとつのカップとペアになっている。白いカップのピンクのハートがわたしのもの。白色のカップの水色のハートのは、姉のもの。わたしたちの小学校のときの誕生日に母から買ってもらったものだった。わたしのカップはもう長い間使っているから黄ばんだり古くなったりしてうす汚れている。水色のハートのカップは、ほとんど使われていないままで、ガラスの食器棚の奥にしまってある。それを見ると、姉はやはりいたのだという気持ちになる。「おなかのなかにいる赤ちゃんが双子だってわかったとき。その子たちが生まれてきて、二人ともとてもかわいらしい双子の女の子だったんで、わたしはとても幸せだったわ」母は昔わたしたちにそう言っていた。「ふたりともいつまでも手をとり合って仲良くするのよ。双子なんだから」姉はわたしにそっくりだった。わたしは姉にそっくりだった。わたしたち双子は、母も父も近所に住むおばあちゃんも間違えるくらいよく似ていた。

 中学生くらいのとき、姉はいたような気がする。母は二着のセーラー服を買ってくれて、わたしの部屋に二つ並べて、ハンガーで壁にかけてくれたから。セーラー服を着た姉とわたしはときおり廊下ですれ違ったりした。長い髪は、みつ編みになっていて、家で家族みんなで使っているシャンプーのにおいがした。姉はくすくすと面白そうに笑っていなくなった。わたしがお風呂やトイレに入っていると、どこからか姉の笑い声が聞こえるときがあった。そういう意味で、姉はときどきいなかったりした。姉はときどきいたりした。ときどきいなくなる家族なんて、わたしたちのだれもそんなこと聞いたことがない。おばあちゃんがいうような、神隠しとかいうようなものではないのだ。姉は自分からどうも自発的に姿を消しているような気がする、とわたしは誰にも言わないでひとりでそう思っていた。父も母も姉のことを嘆きながら語ることはあるが、言葉は少なかった。またそのうち帰ってくるよ。どうしてあの子だけが。いっそひと思いにいなくなってくれればいいのに。またいなくなったらどうする。やっぱりあの子はまたいなくなった。もう帰ってこないんだろう。姉は長い間消えたままになっていた。そのうち姉のことを語るのは、家のタブーになった。姉のものにはもうだれも触れないか、あるいは長いことどこかの奥にしまいこまれたままだ。わたしははじめて会った人に姉のことを説明するのが億劫になった。姉のことはもう忘れてしまおうかとすら思うこともあった。

 そう思っていたら、姉はときどきベランダに出て、外用の椅子に座って、ぼんやりしているのをわたしは見た。白っぽいワンピースを着ていた。姉が一人でぽつんとしているところにわたしはよく遭遇した。お姉ちゃん、どうして帰ってこないの。わたしたち、家族なのに。

 幼稚園のとき、わたしと姉があまりにも似すぎているので、鏡を見ているようで気持ちが悪い、という意味の悪口を言われたことがあった。わたしたちはそのころ変わった遊びをしていた。ふたりで向かい合って手のひらと手のひらをくっつけて、指を動かしたり、足を動かしたり、同じことを話してみたりして、鏡が自分を真似るように、なるべく同じ動きをして、まわりで見ているだれかを驚かせようとする遊びだった。少しでも互いから外れたら外れたほうの負け、といって、ふたりで笑った。わたしたちはその奇妙な遊びに熱中して、本当に互いに鏡を見ているようだと信じてしまいそうになるほどだった。水たまりのなかに顔を映したときや、ママの鏡台の鏡を見たときに、わたしはよくひとりで、鏡に向かってお姉ちゃん? と首を傾げて問いかけたり無邪気に話しかけていたりしたそうだ。わたしはその話のことは覚えていないが、母や祖母が機嫌のいいときに話してくれた。わたしたち双子はわたしたちだけで遊んでいるだけで幸せだった。鏡ごっこの遊びは、姉が考えた。わたしの姉はいたずら好きで、人を驚かせるのが好きだった。幼稚園のわたしが鏡台に座って鏡に向かって、お姉ちゃん? と尋ねているところを見るのは、姉はさぞかしいい気分になったに違いない。利発そうに黒い眼を光らせている姉の姿が眼に浮かぶようだ。双子でも、わたしの性格にはそういうところはない。わたしはおっとりぼんやりな女だ。わたしは幼稚園のころ大事にしていた羊のぬいぐるみを、いまでも勉強机に飾って、たまに触ったり撫でたり手にとって抱きしめてみたりしている。昔はこの羊のぬいぐるみと一緒でなければ寝られなかったくらいだった。姉のお気に入りだったぬいぐるみはなんだったろう。もう思い出せない。姉がいなくなって、長いこと経つ。何度思い出しても、結局わたしはなぜ姉がいなくなったかがわからない。母も父も、たぶんわからないだろう。わたしはジンジャー入りの紅茶を飲み干して、トイレに行こうとした。家族が寝静まった夜中のリヴィングの電気を消す。ドアを閉めて廊下を見ると、そこに姉がいた。

 水色のくまの柄の寝巻きを着た、髪の長い大学生くらいの姉が、ぼうっと廊下に立っている。手足が相変わらず白い。暗い眼が、なにかを言いたげにわたしを見た。唇が動いて、なにかを言っていた。

「お姉ちゃん、帰ってきて」

 わたしが話しかけたら、姉はすぐに消えかけた。姉はわたしをからかって、困らせて遊んでいるのではないか。子どものいたずらみたいに。そう思ったこともあった。あるいはわたしたちが悲しんでいるところを、ひとりで遠くから眺めて、ひとりで面白がっているのではないかと。でも違うような気がした。悲しそうだけれども、姉の眼からは強い意志を感じられた。姉のあの暗いはっきりした眼。姉は一人ぼっちになったとき、うつむいてよくそういう眼をしていた。それを見て、姉は再び帰ってくることはないだろうとわたしは思った。二度と帰ってこないだろうとはっきりとわかった。

 さようなら。

 姉の唇がそう動いてそう言っていたように読みとれた。姉はわたしにさようならと言った。お別れだよ。姉を見たのは本当にそれで最後になった。姉はきっと消えていたいのだ。はじめからおわりまで、あたかもそこにいなかったかのように、いなくなりたいのだ。いまでもときどき、わたしは姉のことを思い出す。わたしには昔、双子の姉がいたの、とだれかにそう話すとき、あるときだれかはわたしにこう答えた。あなたのお姉さんて、まるで幽霊みたい。わたしは首を静かに横に振ってこう言うのだ。いいえ。姉は、死んでいないの。いまもまだどこかで、生きているのよ。

 

      

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