第3話
結紀は秋生と何度か会ううちに、彼との時間が居心地が良いと思えるようになっていた。秋生は26歳で、結紀の5つ年上だ。やや子供っぽいところがある秋生と、世を拗ねた考え方の結紀は妙に釣り合いが取れていた。
最初は、秋生の仕事終わりに合わせてバーでグラスを傾けるだけだった。そのうち、休日にも会うようになり、映画を観たりツーリングに出掛けたり、時には互いの部屋に行ったりと、一緒に過ごす時間が増えていった。
秋生は表向きはシルバーアクセサリーの店で働くショップ店員だが、夜の新宿で闇試合に参加するような危険な一面があった。
結紀も一度見学に行ったが、雑居ビルの暗い地下駐車場で荒くれ者と素手で殴り合いをする秋生の姿はまさに野獣のようだった。周りを囲む若者たちは雄叫びを上げ、上半身裸の秋生の姿にミニスカートの女たちは黄色い声を上げた。
異様なまでの熱気に包まれた退廃的なその空間の端には、黒服が沈黙を守って立っていた。ここの元締めはヤクザなのだ。
このファイトの映像は裏動画サイトに流され、ファイトマネーよりも実入りが良いこともあると秋生は笑っていた。
秋生の周囲には人が集まった。しかし、心から向き合える人間はいないと言っていた。そんな秋生の孤独に結紀は共鳴していたのかもしれない。そして、無意識に秋生の纏う危険な雰囲気に兄英臣の面影を重ねていた。
***
「結紀、今から
英臣からの電話だった。その声音に不穏な雰囲気を感じて、結紀はすぐに行く、と答え通話を終える。バーGOLD HEARTのカウンターで隣に座る秋生はその様子を黙って見ている。
「ごめん、ちょっと用事ができた」
飲みかけのマティーニを一気に空けて、結紀はテーブルに紙幣を置く。その腕を秋生が掴んだ。普段から体を鍛えている秋生の腕力に、結紀は思わず目を細める。秋生は鋭い目つきで結紀を見つめている。
「夜11時だぞ、今からどこへ行こうっていうんだ」
「家族のところ」
結紀は秋生の腕を振り払う。早く英臣のところへ行きたい。今は誰にも邪魔をされたくなかった。
「こんな時間に家族だと、他に男がいるんじゃないのか」
「違う、馬鹿なこと言うなよ」
結紀はじゃあまた、と慌てて店を出ていった。秋生は閉まるドアをじっと見つめていた。
「家族と会話する雰囲気じゃないだろう」
秋生はグラスにたっぷり残っていたブランデーを一気に飲み干した。強い目をして噛みついてくるかと思えば、時折どうしようもなく物憂げな横顔を見せる。そんなどこか掴みどころのない結紀に気が付けば惹かれていた。結紀には自分の気持ちを正直に話すことができた。
結紀は友人が多く、夜の新宿ではよく声を掛けられた。そういう時、いつも隣にいる秋生を優先していた。
だが、そうでないこともあった。普段、秋生が側にいれば結紀はスマホのコール音を無視するが、ときに電話に出ることがある。そのときは置き去りにされている気分になった。電話の主はおそらくいつも一緒だ。相手のことは教えてもらえなかった。
***
山手線で品川へ、結紀は急ぎ英臣のマンションへ向かった。セキュリティコードを入力し、エレベーターに乗る。合鍵は持たされていた。逸る心を抑えて英臣の部屋の鍵を開けると、玄関ポーチのライトが灯る。リビングには明かりがついていないようだ。
結紀がリビングに向かうと、闇の中にタバコの火がぽうっと灯るのが見えた。英臣だ。結紀は震える指でリビングの明かりを点ける。
「さ、榊さん」
結紀は叫ぶ。ソファで横になり、足を投げ出している英臣に駆け寄った。スーツとネクタイが床に投げ捨てられ、シャツのボタンは全開、脇腹の周辺が血で染まっていた。
「刺されたの」
結紀は凄惨な兄の姿に血の毛が引いた。英臣の額から汗が流れ落ち、タバコを咥える厚みのある唇はやや血色を失っているように見えた。
「救急車を呼ぶよ」
「待て、カスリ傷だ」
英臣の声は掠れていた。タバコを持った指でバスルームを示した。
「傷、押さえてくれ」
結紀は呆然としていたが、弾かれたように立ち上がり、バスルームから白いバスタオルを持ってきた。震える手で英臣の傷口を押さえる。英臣は小さく呻いて目を細めた。額からまた一筋汗が流れ落ちる。結紀は小さく唇を噛む。
英臣は苛烈な極道の世界で生きている。暴対法のおかげで世間を騒がせることは少なくなったとは言え、組同士の抗争は水面下で今もって存在する。
以前にもこうして夜中に突然英臣から呼び出しがあり、傷の手当てをすることがあった。極道御用達の闇医者を呼び、その場で傷口を縫ってもらったこともある。
本当はこんな危険な世界から手を引いて欲しい。しかし、それを口に出したことはない。
英臣は半身を起こしてシャツを脱ぎ、床に投げた。脇腹の辺りに鋭利な刃物で切り裂かれた跡、そして血が滲んでいる。逞しい胸筋に汗の雫が浮かび、流れていく。出血は止まったようだ。生々しい傷口に、結紀は目を細める。
結紀は洗面器にタオルを浸してソファの側に持って来た。タオルで丁寧に血と汗を拭い、大判の保護シートを傷口に当てた。
「明日にでも病院へ行きなよ」
「ああ、そうだな」
心配する結紀の言葉に、英臣は面倒くさそうに前髪をかき上げる。この様子だと、自然治癒に任せるのだろう。英臣はストレートのブランデーを痛み止めとばかりに一気に煽った。
英臣はテーブルに手を伸ばし、フィリップモリスにミッドナイトブルーのデュポンで火を点ける。ソファの肘掛けに頭をもたせかけ、気怠そうに煙をくゆらせている。
「悪いな、いつもお前に甘えて」
「ううん、いいよ」
結紀は投げ捨てられたスーツの上着とタイを拾い上げ、クローゼットのハンガーに掛けた。
「これ、どうする」
結紀は血で汚れたシャツを持ち上げて英臣に見せる。
「捨てておけ。遅いから泊まっていくだろ、俺のベッド使っていいぞ」
それだけ言って、英臣は目を閉じた。
英臣はそのままソファで静かな寝息を立て始める。結紀は寝室からブランケットを運んできて、そっと英臣の体にかけてやる。
結紀はシャワーを浴びて、英臣のベッドに身を投げる。ブルガリソワールとフィリップモリスの香りが微かに残るシーツに顔を埋める。まるでここで英臣に抱かれているような暗い妄想に目眩を覚えた。
***
「あいつは誰なんだよ」
ネオンが届かぬ薄暗い路地裏で、秋生は結紀の頬を打った。最近、秋生はひどく苛立っていることが多くなった。結紀は冷めた目で秋生を見上げる。
「俺の兄さんだ」
秋生は結紀が英臣と親しげに並んで歩いているところを見た、と責め立てる。どこか自分に似た目つきの鋭い男。そのことがさらに火に油を注いだ。
「信じられるかよ」
秋生は血走った目を見開き、結紀の胸ぐらを掴む。呼吸が出来ず、結紀は苦痛の表情を浮かべる。秋生は我に返り、手を離した。
「秋生、もしかしてドラッグやってるのか」
秋生は悪い仲間も多い。遊びでドラッグをやったという話は聞いたことがあった。今目の前にいる秋生はまるで別人のように精神が高揚し、漲る凶暴性をかろうじて理性で押さえ込んでいるように思えた。
「ただの遊びだよ、ハマるわけないだろ」
そう言って、秋生は裏路地の暗闇に消えていった。
***
秋生とはその後も何度か会うことがあったが、路上でサラリーマンを相手に暴力沙汰を起こしたり、店で他の客に殴りかかったりと完全に常軌を逸していた。
結紀は何度もドラッグを止めるよう頼んだが、秋生はすでに根深い依存症から抜け出せなくなっていた。
それから、秋生が死んだという話を耳にした。雑居ビルの冷たい地下駐車場で、たった一人で。闇試合の最中に相手を執拗に痛めつけ、それを止めるために大柄の男5人がかりで押さえ込んだところ、息をしていなかったという。おそらく、ドラッグの影響だろう。
結紀はそのドラッグの名前を知った。“龍神”という、人間の凶暴性を高め、依存性が非常に強力な悪魔のドラッグだという。
結紀は暗い部屋の中で一人膝を抱え、首に下げたペンダントを弄んでいた。羽のモチーフの銀細工だ。緻密な羽の文様は彫るのに苦労したんだぞ、と秋生が自慢していた。レースカーテンの向こうから月明かりが部屋を蒼く照らしている。
結紀はテーブルに置いたスケッチブックを引き寄せる。真っ白いページを開き、鉛筆を手にする。秋生の顔を描こうと思った。しかし、鉛筆が走り、そこに描かれるのは冷酷な顔をした愛しい兄の姿だ。まるで自分を断罪するような鋭い瞳がこちらを見据えている。
「ごめんな、秋生」
秋生の命を奪ったドラッグ“龍神”が心底憎い。しかし、秋生を止められなかったのも事実だ。結紀は肩に羽織ったダークグレーのシャツを握りしめる。脇の辺りに鋭い刃物で切り裂かれた跡、そして血痕が残ったままのシャツはソワールとフィリップモリスの匂いがした。
異聞ー東方伝奇 神崎あきら @akatuki_kz
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