第2話

秋生あきおか」

 坊主頭はチッと舌打ちをする。そして結紀の腕を解放した。

「こいつ、悠斗のタマ潰しやがった」

「なかなか度胸あるじゃねえか、相手が悪かったな。連れて行けよ」

 坊主頭は仕方ねえ、とぼやきながら自力で立てない金髪に肩を貸して路地の奥へ消えていった。結紀は路上に放り投げられたバッグを拾い上げる。砂を叩いて肩に掛けた。


「ありがとう」

 結紀は秋生に目を合わせることなく、愛想を欠いた礼を言う。あの男たちの連れなら、近づかない方が無難だろう。チラリと秋生の顔を見上げる。意思の強そうな眉に、切れ長の瞳、高く通った鼻筋、大きめの唇。なかなか整った顔立ちだ。身長が高く、体を鍛えているのかスタイルも申し分ない。

「彼氏に逃げられたな」

 秋生は口角を上げて笑う。結紀はムッとした表情を向ける。

「あんな男、彼氏でもなんでもない」

 礼は言った、それでもう義理は果たした。結紀は秋生の側をすり抜け、表通りに向かって歩いて行く。


「待てよ」

 秋生は結紀の横に並んで歩き始める。

「俺は大村秋生だ、お前、名前は」

 秋生が腰を屈めて結紀の顔を覗き込む。結紀は足を速めた。

「なんだよ、名前くらい」

「高谷結紀」

「このあと時間あるだろ、1杯付き合えよ結紀」

 秋生は人懐こい笑顔を向ける。初対面なのに下の名前で呼ぶとは、馴れ馴れしい。結紀は立ち止まり、秋生を睨み付けた。


「あんた、助けてくれたのはありがたいけど、しつこいよ」

「いいぜ、その目。可愛げのある顔をしてなかなか度胸がある」

 結紀はムッとしておどける秋生から目を逸らした。

「俺はさ、ゲイじゃないんだけど、お前は面白い。気に入った」

「何だよそれ、俺もゲイじゃない。バイだよ。バカにするな」

 結紀はまた足早に歩き始める。頭に血が昇るのを感じた。顔が火照っているのが分かる。秋生は結紀のふてぶてしい態度に腹を立てることなく、後をついてくる。


 結局、根負けした結紀は秋生に手を引かれ、裏通りにある静かなバーに入った。カウンターに並んで座り、結紀はモスコミュールを、秋生はブランデーを注文する。レンガと木目の壁に囲まれたレトロな雰囲気の店だ。マスターは豊かな髭を口元に蓄えた寡黙な男だった。

「吸っていいか」

 結紀に断りを入れて、秋生はメビウスメンソールを取り出し、火を点けた。

「あんな奴らとつるんでるの」

 結紀はカクテルグラスを揺らしながら訊ねる。


「俺に興味を持ってくれたんだ、嬉しいな。あいつらとは顔見知りってだけだよ。あいつら俺が怖いんだ」

 闇試合でストリートファイトをすることもあり、その強さは界隈で良く知られ名前と顔が通っているという。おそらく、ヤクザとも繋がりがあるのだろうと結紀は直感した。秋生はタバコの煙を天井に向けて吐き出す。


 秋生は新宿西口のシルバー細工ショップに勤めており、自分でも作品をデザインしいるのだという。胸に揺れる羽をあしらったネックレスは自作だと言って、結紀に見せてくれた。

「男同士のカップルもよく来るんだぜ。イメージを聞いて俺がデザインする。オリジナルだから喜ばれるんだ」

「へえ、そう」

 モスコミュールを傾けて気のない返事をしながらも、いつしか結紀は秋生の話に引きこまれていた。


「男同士でも、愛し合ってんだなって思うよ。俺はマイノリティに偏見無いんだぜ」

「そういうこと言う時点で意識してるってことじゃないか」

 結紀は自分がバイセクシャルだと気が付いて、それをひた隠しにしていた。高校生の時には彼女もいたが、気が合わなくて1ヶ月で別れた。別に女が嫌いなわけじゃない。男の方が気楽に付き合えた。しかし、心から慕うのはただ一人、兄の英臣だ。


 秋生はスマホを取り出した。

「また会おうぜ、結紀」

 そう言って、強引にアドレスを交換させられた。ブランデーを飲み干して、カウンターに金を置いて出ていく。

「ちょっと待てよ」 

 助けられたのに、おごられる筋合いはない。結紀は秋生の後を追う。

「俺、払うよ」

「今度おごってくれよ、約束な」

 秋生は手を振りながら、ネオンの街に消えていった。

「何だよ、勝手な奴」

 結紀はその後ろ姿を見つめながらため息をつく。その顔には小さな笑みが浮かんでいた。


***


 英臣はBMWのハンドルを握り、首都高を西へ向かっている。助手席にはシャネルの匂いがきついクラブの女が座っている。女はのぞみといった。のぞみは鼻にかけた甘ったるい声音で客から買ってもらったブランド品の話や、高級レストランに連れていってもらった話を延々続けている。その下らない話は英臣の耳の右から左に抜けていた。


 所属する柳沢組の組長からの指示だった。ストーカーに狙われている若い愛人をマンションまで送って欲しいという。のぞみは26歳と聞いていた。武闘派の英臣を信頼しての依頼だというが、真意が別にあることは見抜いていた。

「ねえ、ちょっと休憩しようよ」

 首都高を降りて、のぞみが英臣を上目遣いでじっと見つめる。のぞみが指さしているのはラブホテルのピンクのネオンだ。英臣は無言で路肩にBMWを停めた。

「あの路地から入れるの」

 のぞみはラインストーンを散りばめた指先を伸ばす。

「お前のマンションはどこだ、そこまで送るという約束だ」

 英臣はのぞみと目も合わせもしない。感情のこもらぬ声に、のぞみは怖がる素振りを見せる。


「わたし、組長さんにあなたを落とすように頼まれたの。でも、それ抜きであなたとならいいと思ってるのよ」

 下手な色仕掛けが通じないと考えたのぞみは態度を変えた。アップした髪を下ろし、渾身の色気を振りまいて英臣に迫った。

「柳沢のオヤジには俺を懐柔できたと言っておけ。それで収まる」

 英臣は深いため息をつく。のぞみは“懐柔”という言葉の意味が分からず、首を傾げる。


「何よ、わたしじゃ駄目なの。わたしはあなたが好きなの」

 色仕掛けに全く動じない英臣に、のぞみは悲壮な表情をつくる。

「言うことを聞けないなら、ここで降りろ」

 その語気の強さに、のぞみは背筋に鳥肌が立つのを感じた。この男は怒りに任せて暴力を振るう気配は無い。しかし、食い下がり続けることは出来ないと理解した。


「わかったわ、マンションはこの先」

 のぞみは英臣の誘惑を諦めてマンションまでの道を示した。

 組長の柳沢に若頭を落とせと命じられたときには、心底嫌な気分だった。しかし、店に迎えに来た英臣を見て、思わず胸が高鳴った。知的で精悍な顔立ち、凜とした佇まい、これまで付き合った見せかけだけの男では無かった。しかし、全く振り向かせることは出来なかった。


「お前には悪いが、俺には長く付き合っている女がいる。今日も俺の帰りを待っている」

 英臣の言葉に、のぞみは小さく頷いた。女のプライドを潰すことなく、英臣は彼女をマンションへ送り届けた。

「ありがとう、ハンサムな若頭さん。一瞬だけど、本当に恋をしたわ」

 車を降りたのぞみは運転席の英臣に手を振る。英臣は軽く会釈をして、BMWを発進させた。


 英臣は品川の自宅マンションに戻り、スーツの上着を脱ぎ捨て、タイを乱暴に緩めた。ソファに座り、フィリップモリスに火を点ける。部屋の明かりをつけぬまま、暗い天井を見上げている。

 柳沢がいよいよこんな姑息な手を使ってくるとは。柳沢組は鳳凰会二次団体の小さな所帯の組だ。シノギも地味だが、面子を大事にしてやってきた。それは死んだ元若頭、鷲尾の力も大きかった。


 組ではドラッグは御法度という信条があった。しかし、中国マフィア八虎連幹部が持ちかけた美味い話に柳沢は飛びついた。“龍神”という新しい製法で作られる上質のドラッグを独占で扱うという利権だ。英臣は断固として反対した。だが、柳沢は組を大きくすることに執着し、金に目が眩んでいる。自分の愛人をけしかけるとは、どこまで腐っているのか。

 英臣は唇を歪め、タバコを揉み消した。


 ベランダの窓を開ける。足元にはタライが置いてあった。そっと蓋を開けると、中には手の平より小さな亀の姿があった。突然の気配に手足を引っ込めたが、少しして顔を持ち上げた。英臣がキャベツの葉を水の中に入れてやると、亀はのそのそと近づいて葉を食みはじめた。

「明美、飯の時間が遅くなって悪かったな」

 小学生の頃に、雨の道ばたで拾った亀だった。明美と名付けた亀ののんびりした姿は飽きることない日々の癒しだ。英臣はしゃがんだまま、明美の姿をしばらく眺めていた。


***


 秋生と別れて、結紀は自宅アパートに戻った。熱めのシャワーを浴び、Tシャツと短パンに着替える。濡れた髪はそのままに、テーブルに置いたスケッチブックを引き寄せた。スケッチブックを開けば、鉛筆で緻密に描き込んだスケッチが続く。兄、英臣の姿を密かに描きためたものだ。

 結紀は子供の頃から絵が好きだった。大学進学と同時に、家を出た英臣の面影をスケッチブックに描き始めた。7歳のことだ。それから、深夜になるとスケッチブックを開くようになった。


 英臣はいつも父性を思い起こさせる包容力で結紀を気に掛けてくれた。そして優しかった。結紀のスケッチブックには、冷酷で凶悪な英臣の姿が描かれている。ページをめくる度、その冷たい眼差しは輝きを増していく。

 母は違えども、血の繋がった兄を慕っていることを知れば、彼はどんな顔をするのだろう。結紀は残酷な、自虐にも似た妄想に身を焦がす。

 夜の街で愛車に乗せた女と、濃密な一夜を過ごす獣のような英臣の姿を思い描き、結紀は暗い部屋で夜が明けるまで鉛筆を走らせた。

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