真夜中のデカダンス ー高谷結紀

第1話

 ブルーのダウンライトの灯る落ち着いた店内には、アンニュイな響きのジャズが流れている。新宿西口のバーGOLD HEARTは客筋の良さから、心地良い時間を楽しむためにマイノリティも多く集まってくる店だ。


 大学3回生の高谷結紀たかやゆうきもこの店の常連だった。鳳凰会柳沢組の若頭を務める兄、榊英臣さかきひでおみが実質のオーナーだ。閉店寸前の店を買い上げ、リノベーションをしたことで客足が戻り、新規客も増えて今に至る。

 兄といっても腹違い、父親は神奈川県西部を拠点に一大勢力を誇る榊原組の組長で、結紀は7歳のときに母の元を引き離され、神奈川の榊原家へ跡取り候補として連れて来られ、18歳までを過ごした。


 見知らぬ広い家にやって来たその日、結紀は年の離れた兄、英臣と鮮烈な出会いを体験する。結紀にとって英臣はこの家の中で唯一自分と真正面から向き合ってくれる存在だった。

 当時、高校三年生だった英臣との時間は長くは続かなかった。英臣は父の築き上げた土台の上に立つことを拒み、大学進学と同時に榊原家からの離縁を申し出た。


 結紀はその後も時折英臣と会った。親の援助も無く、東京の大学に通う英臣は忙しかったが、結紀の顔を見に来てくれた。会えない間は身を焦がす時間に苛まれた。結紀はいつしか英臣に対する只ならぬ想いを抱くようになっていたことに気が付く。

 結紀も榊原家を継ぐことはなかった。父は彼の人生を狂わせた負い目もあり、苦渋の決断でそれを許した。結紀も大学進学とともに榊原家と離縁し、今は東京のアパートで一人暮らしをしている。


 結紀はこの店が気に入っていた。よく出入りすることで顔見知りも増えた。結紀自身もバイセクシャルで、それを特別視することのない店の雰囲気は居心地が良い。それに、この店に来れば、英臣に会える。


 しかし、今日の気分は最悪だった。カウンター席に座る結紀はウォッカギブソンを傾ける。アルコールの強いショートカクテルを立て続けに三杯、これはヤケ酒だな、とカクテルグラスの縁を指でなぞりながらため息をつく。


 この店に来る途中、夜の街で英臣の姿を見た。シャドウストライプのスーツに、ダークグレーのシャツ、紺色のタイを締めて背筋を伸ばして立つ姿は一際目立っていた。

 結紀が声をかけようと思ったそのとき、クラブから出てきたシャンパンゴールドのドレスに白いコートを羽織った女が英臣に親しげに寄り添った。

 これまでも英臣に女性の影が無いわけではなかった。しかし、目の前で現実を見せつけられたことに、結紀は心臓を鷲づかみにされたような衝撃を受けた。


 精悍で整った顔立ちにストイックで知的な佇まい、ヤクザの若頭となればステータス目当てだけでなく寄ってくる女たちは数多だ。

 クラブの女は20代後半、アップした髪に派手なピアス、ぱっちりした目にふくよかな唇。男好きのする顔だった。彼女をエスコートし、若衆が運転してきたBMWのドアを開けて彼女を乗せた。英臣は運転席に乗り込み、車は走り去っていく。


 このあと、自分のマンションに向かい、あの女と一夜を明かすのだろう。遠くネオンが輝く窓、夜の薄闇にシャツを脱ぎ捨てる英臣の姿が脳裏を過ぎり、結紀はドス黒い嫉妬に目眩を覚えた。自分がどれだけ英臣を慕っても、その想いは伝えることができない。出来るはずが無かった。


 結紀の瞳は深い憂いに満ちていた。隣に座る気配に気がつき、気怠い視線でその顔を見つめる。カウンター席は充分空いていた。それなのにわざわざ隣に座るということは、誘っているのだ。

 隣に座る男は端正な顔立ち、眼鏡をかけた真面目そうなサラリーマンだった。仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、腕につけた時計はオメガ、微かに香るカルバンクライン。カクテルを飲むその佇まいは上品で、結紀は男がゲイだと直感した。

 男は優しい瞳で結紀の目を覗き込む。


「どうしたの、悲しい顔をしているね」

 すべてを理解しているとでもいいたげな、優しい声音だ。

「そうかな、そう見える?」

 結紀はカウンターに頬杖をつき、男の目を見つめ返す。大きな瞳を思わせぶりに細め、厚みのある形の良い唇で薄い笑みを浮かべる。男はその表情に一瞬心を奪われた。しかし、動揺しては駆け引きに負けてしまう。男は余裕のある笑みを返した。


「僕で良ければ話を聞くよ」

「優しいね」

 正直、こんな優男は好みではなかった。物腰は柔らかく、男の扱いに慣れているといった雰囲気だ。しかし、この男をどこまで本気にさせられるか、遊んでやろうという悪戯心が湧き上がった。

 とりとめの無い会話を交わし、店を出た。結紀は男と並んでネオン街を歩く。酔った振りをして腕をぶつけてみれば、大丈夫かと優しく肩を抱かれた。この腕があの人の腕なら、結紀は乾いた笑いを漏らす。


 男はホテル街へ結紀を導く。思考が停止している振りをして、逆らわずについてきたが、そろそろ振り切ってやろう。そのときだった。

「これからお楽しみか」

 振り向けば、2人組の男がニヤニヤ笑みを浮かべて立っている。金髪、白いパーカーにカーゴパンツ、もう一人は稲妻の形の剃り込みを入れた坊主頭で派手な柄シャツ、スウェットといういで立ちだ。この周辺にたむろしている半グレのようだった。


「率直に言うわ、財布出しな」

「お楽しみのための金は取っておいてやるよ」

 この辺りは土地柄同性カップルも多い。多少乱暴を働いても通報されにくいと踏んでのターゲティングなのだろう。金髪が指輪をジャラジャラつけた手を差し出す。それまで上品な姿勢を崩さなかったスーツの男は明らかに怯えている。

 結紀はそれを見て内心呆れた。いくら見た目の格好をつけていても、こういうときに度胸が無い男には心底失望する。


「ひえっ」

 情けない声を上げてスーツの男は走り出す。その逃げ足の速さには、目を見張るものがあった。男たちは呆気に取られたが、坊主頭がすぐに駆け出し、男に追いついた。スーツの襟を掴み、引き倒す。

「金を出せば大人しく逃がしてやろうと思ったが、可愛い恋人を置いて卑怯な奴だぜ」

 坊主頭はニヤニヤ笑っている。

「恋人なんかじゃない」

 結紀は金髪を睨み付ける。その鋭い眼光に金髪は一瞬圧倒される。


「生意気な奴だ」

 金髪が唇を歪め、結紀の肩口を掴んだ。間合いが詰まったところで結紀はにこっと笑顔を向け、頭一つ分大柄な金髪の股間を思い切り膝で蹴り上げた。

「ほぁっ」

 奇妙な声を上げて涙目になった金髪は股間に走る激痛に耐えきれず、アスファルトに転がった。そのまま股間を押さえて痙攣している。

「てめえ、何してやがる」

 坊主頭がそれまで掴んでいたスーツ男の襟首から手を離した。スーツ男はへっぴり腰で明るい通りへ逃げていく。


 仲間をやられた坊主頭が結紀に近づいてくる。結紀は肩掛けバッグに潜ませたペン型の改造スタンガンを握りしめる。勝負は一瞬だ。相手に掴まれる前に痺れさせてやる。

 坊主頭が結紀に手を伸ばす。その動きは思ったよりも素早い。バッグを掴まれ、慌ててそれを手放した。

「くっ」

 スタンガンはバッグの中だ。坊主頭はバッグを道ばたに放り投げる。バッグを取り戻さねば。結紀は坊主頭をかわしてバッグに腕を伸ばす。


「ナメたまねしやがって」

 坊主頭に腕を掴まれた。バッグにはもう少しのところで手が届かない。坊主頭は結紀の細腕を捻り上げる。

「離せ」

 結紀はもがく。坊主頭はそれを見てニヤニヤと笑みを浮かべ、さらに腕に力を込めた。結紀は痛みに顔を歪める。表通りには人の流れがあるが、ここで叫んでも誰も助けに来ないだろう。誰だって面倒には巻き込まれたくないのだ。


 コン、と音がして空き缶が坊主頭に当たり、アスファルトに転がった。

「何だ」

 坊主頭が振り向く。

「やめてやれよ」

 そこには黒のジャケットにグレーのパーカーを重ね着し、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ若い男が立っていた。長い前髪を後ろに流し、鋭い眼差しでこちらを見つめている。

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