第3話
東京は何もかもが新鮮だった。新しい住まいは大崎の手狭なアパートだったが、家のしがらみを振り切って掴んだ暮らしに不自由は感じなかった。新宿駅を長身のオカマが闊歩し、赤や紫の髪を逆立てた奇抜な格好のバンドマンが普通に電車に乗っている。それを指さすものはいない。良く言えば他人に寛容、悪く言えば無関心なのだ。
職場は池袋のオフィスビルに事務所を構えるデザイン会社だった。営業が取ってくるコンペに出す企画書を先輩と一緒に作った。千弥はデザイン系の学校に通っていたわけではないが、企業の求めるイメージを的確に捉えるセンスに秀でており、よく受注をもらえた。先輩社員もその能力には驚嘆していた。早いうちからデザインと企画の両方に関われるようになった。
残業も多いしプレッシャーは多々あったものの、仕事は楽しかった。職場の人間関係も良好で、仕事帰りによくグループで飲みに行った。
しかし、千弥はまだ自分が女性を自認していることをカミングアウトする勇気が無かった。
「今夜、空いてる?飲みに行こうよ」
3つ上の女性の先輩、島村朋美が千弥に声をかけてきた。何人かメンバーがいるのかと思えば、彼女と二人きりだという。彼女のデザインは評価が高く、千弥も尊敬していた。2人きりでも会話に困ることはないだろう。千弥は承諾した。
連れて来られたのは雰囲気のあるバーだった。ダウンライトの店内には赤い絨毯が敷き詰められ、上質な厚木のカウンターでカップルたちがカクテルを楽しんでいる。ムーディなジャズが流れ、誰かのつけている香水がふわりと香った。
「おしゃれなお店ですね」
千弥は恐縮する。朋美はバーテンダーにマルガリータを注文する。何にしたらいいか迷う千弥にはジントニックを勧めた。
「千弥くん、頑張ってるよねえ。君は逸材だわ」
仕事についての話から始まり、プライベートのことに話題が移っていく。カクテルを3杯空けたところで、朋美が熱っぽい目でじっと千弥を見つめていることに気がついた。
「千弥くんさ、彼女いるのかな」
突然の質問に、千弥はピクリと眉根を寄せる。
「いませんよ。今は仕事で精一杯です」
「へえ、モテそうなのにね」
「いえ、そんな」
嫌な風向きになってきた。千弥の手に朋美の手が重なる。
「ねえ、付き合わない?」
「島村さん、お酒飲みすぎですよ」
「私、酔ってないわよ」
朋美が顔を近づけてくる。赤い口紅が目に毒々しく、キツい香水の香りが鼻についた。生理的にダメだ、と思った瞬間千弥は顔を背けていた。
「何よ、私を拒むの」
朋美は途端に不機嫌になる。細い眉を吊り上げて千弥を睨みつけている。
「やっぱりね、社内でも噂されてるのよ。あなたはホモかオカマじゃないかって」
その言葉に侮蔑の意図を感じて、千弥は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。女性にモーションをかけられても全く動じないし、この間は社外の営業マンに色目を使っていた。繊細な感性や気遣いは女よりも女性らしい。朋美は千弥にまくし立てる。
「覚えていなさい」
捨て台詞を残し、朋美はカウンターに金を置いて帰ってしまった。溶けた氷がグラスの中を滑り、涼やかな音を立てる。千弥もいたたまれなくなり、支払いを済ませて店を出た。
週明けに出勤すると、社の人間の態度がよそよそしいことに気がついた。表面だって何か言ってくるわけではないが、どこか遠巻きにされている。同期の女性社員から千弥はオカマの振りをして油断させておきながら、女性社員を食い物にしているという噂が出回っている、と教わった。噂の出所は島村だ。
「彼女、プライドが高いでしょう。千弥さんのことも仕事ができるからやっかんでたみたいよ」
同期の言葉は千弥の耳に入ってこなかった。自分の手に余る存在を手なずけようとして失敗した女の卑劣なやり方に、嫌悪感を抱いた。
都会はまるで自由に見えた。しかし、小さな社会単位ではこうして差別が残っている。千弥は小さな絶望を味わった。仕事にはやり甲斐もあったし、そんな人間ばかりではなかったが、考え抜いた末に会社を辞めることにした。
-困ったことがあったら、いつでも帰ってきなさい
母のお守りを握りしめると、優しい言葉がリフレインする。実家に戻れば、家業を継ぐことになる。でも、もう少しこっちで頑張ってみたい。その気持ちは決まっているが、もやもやと心が晴れなかった。
なんだか飲みたい気分になって、バーの前で足を止めた。蔦がハートに絡むデザインの看板にGOLD HEARTと店名が書いてある。ガラスのドアを開けると、ブルーがかったダウンライトの店内は落ち着いた雰囲気だ。千弥は吸い込まれるように店内に入った。
カウンターに座り、周囲を見回してみると、同性カップルの多さに驚いた。彼らは自分たちの穏やかな時間を楽しみ、それを咎めるものは誰もいない。ひとつ席を空けて座っているのは綺麗に厚化粧をした男だった。赤いハイヒールを履いた足を組んでいる。
「何にしましょう」
頃合いを見てバーテンダーが千弥に話しかける。雰囲気に呑まれていた千弥は何も決められていなかった。
「よろしければ、オススメのカクテルを作りましょう」
「お願いします」
口髭の似合う初老のバーテンダーは穏やかな笑みを浮かべた。
差し出されたのは透き通った赤いカクテル、ジャックローズだ。咲き誇る赤いバラのようなその色が美しく、千弥は思わず見とれていた。口をつけると甘いりんごの香りが鼻に抜けた。
「まあ、あなたにぴったりな綺麗な色」
隣の男が微笑みかける。千弥は顔を赤らめた。
「何か悩みがあるんでしょう。そんな顔してる」
「え・・・」
千弥は俯く。これまでのことが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「自分に正直に生きなさい。自分を一番大事にするの」
男の言葉に、千弥は目を見開いた。これまで自分に正直に生きてきたのだろうか。女性としての自分を押し隠して、自分を騙しながら生きてきたのではないか。千弥の目から涙が零れた。
「あらやだ、泣かしちゃった」
男は慌てて席を移して千弥に寄り添う。千弥の肩を抱いて、大きな手で頭を撫でてくれた。
「辛い目に遭ってきたのね、いいのよ思い切り泣きなさい」
ドスの効いたオネエ言葉だが、東京に出てきて初めての優しさを感じた。
男はいわゆるクロスドレッサーで、男性としての性は抵抗なく受け入れているが、女性の格好をすることが自己表現なのだと話した。
「最初はね、異様な目で見られたのよ。でも自分の人生なんだから、やりたいようにしたいじゃない」
思い切って自分を出したところ、会社でも彼はそういう人間だと認識され今は差別されるようなことはないという。仕事中はスーツを着こなし営業回りをして、仕事が終われば女性の格好をして飲みに出歩くのだ。
ドアが開いて、ピンストライプのスーツの男が入ってきた。背が高く、長い髪を後ろに流した目つきの鋭い男だ。
「あ、榊ちゃん久しぶり。会いたかったわ」
男はスーツの男に駆け寄り、一方的に話しかけている。男は強面だが、嫌がる様子はなく穏やかな笑みを浮かべて対応していた。
「彼はこの店のオーナーなんですよ」
バーテンがそっと教えてくれた。
自分に正直に、か。帰宅して、パソコンで次の就職先を探しながら男の言葉がずっと脳裏に浮かんでいた。ぱっと目に留まったのは、ニューヨークに本社を置くグローバルフォース社。ネットニュースでときどき話題に上がる新進気鋭の外資系企業だ。この春に日本法人を新設するため社員を募集する、と書いてある。
仕事内容は企画コンサル、興味のある分野だった。千弥は履歴書を書き始めた。性別らんで手が止まった。“男”と“女”、丸をするだけだ。
自分に正直に生きるわ。千弥は“女”に丸をした。
履歴書には戸籍上の性別は男性であること、しかしトランスジェンダーで女性であることを書いた。他にも数社申し込みをしていたが、一次の書類審査で残ったのはグローバルフォース社のみだった。次は面接に来るよう書類が届いた。
千弥は女性もののパンツスーツに、パンプスを買った。それまでひとつ括りにしていた髪は肩まで伸びていた。髪を下ろして薄く化粧をした。鏡の前に立つ自分の姿に“これが自分だ”と確信した。
青山のオフィスビルの一室でグローバルフォース社の面接が行われた。初めて女性の姿で人前に立つ。緊張感よりも、誇らしい気分だった。
「これまでの仕事のポートフォリオを見せてもらったよ、素晴らしい発想力だ。あなたはデザインもできるんですね」
面接官の質問は始終スキルのことについてだった。5人の面接官のうち、千弥を奇異な目で見るものは誰もいない。千弥は自然と自己アピールをすることができた。これからの仕事にかける気持ちもしっかりと伝えた。
「結果は自宅に送ります」
あなたはほぼ採用だよ、と帰り際に声をかけられた。千弥の胸は弾んだ。この会社でなら自分の力を出し切れる、そう思えた。
オフィスビルの1階でエレベーターを降りる。自動ドアが開いた瞬間、吹き抜けた風に千弥の手から書類が舞った。慌てて拾おうとしたとき、男物の靴が視界に入った。綺麗な長い指が書類を拾い上げる。
「君の書類だね」
艶やかなブロンド、品の良いグレーのスーツに身を包んだ外国人男性だ。自然な日本語で話しかけられ、千弥は驚いた。
「ありがとうございます」
千弥は思わず背の高い彼を見上げた。どこかで見た顔だ。
「うちの社の面接を受けに来てくれたんだね。ありがとう」
穏やかな笑みを浮かべ、男は側近を連れて去って行った。あとからネットで調べてみると、グローバルフォース社のCEOライアン・ハンターと分かった。
翌日、速達でグローバルフォース社から採用通知が届いた。新橋の新設オフィスに来月初日から出勤して欲しい旨が記載してあった。
千弥は鏡に映る自分の顔と向き合った。新しいライトグレーのカーディガンに桜色のスカート、メイクも少し上手くなった。そこには明るい笑顔が映っていた。
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