第2話

 彼は賑やかな友人たちと談笑している。千弥は俯いた顔を真っ赤にしてその脇を足早に走り抜けた。胸がドキドキと早鐘のように脈打つ。彼に再会できた嬉しさと気恥ずかしさがない混ぜになり、千弥の心をかき乱す。帰宅して、机に向かったが勉強も手につかない。こんな気持ちは初めてだった。


 高校では男子とも適当につるんでいたが、女子の友達も多かった。面白かった本や好きなアーティストの話、お菓子作りと趣味の話題で盛り上がった。時々恋の相談もされた。

「こういうときってさ、男子ってどう思うの」

 物腰が柔らかいので話がしやすく、見た目が男性の千弥はよくこのような質問を受けた。私は男じゃない、そんなの分からない。そう思ったが、男子の中にいて見聞きしたことを参考に、想像してアドバイスを伝えた。


 自分の気持ちもどうやら“恋”らしい。彼の姿を見れば胸が高まる。下駄箱や渡り廊下ですれ違わないか心の中で期待している。そんな気持ちでいる毎日が楽しかった。その反面、女性の心を持つとはいえ、生物学的には男性の自分を彼が受け入れてくれるはずはないということも頭の中では理解していた。


 彼の名前は真木航平といった。サッカー部に所属し、放課後は毎日グラウンドで試合や練習をしている。3年生なのでこの夏で引退することになる。彼の活躍を見ておきたくて千弥はときどきグラウンドに顔を出した。

 クラスの女子がサッカー部の先輩を好きだというので、彼女を後押しするという口実が使えた。彼女の好きな先輩は別の生徒だったので、千弥は内心ホッとした。

 遠くから航平を眺めているだけで満足だった。


 千弥は学校の図書室によく通った。好きな海外小説や日本史の本にカモフラージュしてトランスジェンダーに関わる本を借りた。これから賢く生きる知恵を得るためだった。

あるとき、たまたま観ていたテレビのドキュメンタリー番組で、女装をした男性が登場した。

「男があんな格好をしてみっともない」

 男は男らしくという古風な考えの父親はそれを見て不快な口調を隠しもせず、そう吐き捨てた。弟の千晴もただのオカマだろ、と揶揄している。

千弥は番組に釘付けになった。テレビの中の彼は自分を女性と認識し、女装をすることは自然だと考えていると答えた。社会に認められない苦難があると言っていたが、彼の表情は幸せそうだった。


 その日も図書室でたくさん本を借りた。渡り廊下を歩いていると、背後から呼び止められた。

「あのさ、俺のこと覚えてるかな」

 振り向いたそこには航平が立っていた。千弥の心臓がドクンと脈打ち、頭に一気に血が昇るのを感じた。思わず手にした本を落としてしまった。航平は慌てて本を拾い、千弥に手渡した。

「驚かせてゴメン」

 千弥は首を振る。何を言って良いのか、言葉が出なかった。


「去年の秋、冬だったかな。農道のところで」

 彼が自分のことを覚えていてくれた。それだけで千弥は舞い上がった。

「はい、覚えています。あのときはありがとうございます」

「時々グラウンドに来てるだろ、どこかで見たことあるなと思ってさ」

「あ、あれはクラスの子が好きな先輩を見たいからって、それにつきあっているだけで」

 本当は航平の姿を見たい。そんなことを言えるはずは無かった。緊張して口数が多くなってしまったことに気が付き、千弥は押し黙る。


 航平に一緒に帰ろう、と誘われた。

「へえ、本が好きなんだ」

「はい」

「どんなのが面白いの、教えてよ」

 帰り道、他愛の無い話をした。長い農道を一緒に歩き、突き当たりの三叉路で別れた。その日は航平の表情や声を思い出して眠れない夜になった。


 それからも千弥は時々航平と帰るようになった。サッカーの話、面白い先生の話、受験勉強の話、航平の話は何でも面白かった。千弥が好きな本の話をするときは、興味深く耳を傾けてくれた。

 楽しい時間は長くは続かなかった。航平に彼女ができたのだ。彼女の話を楽しそうにする航平に、千弥は愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。胸が苦しくて切ない。航平の彼女が羨ましい。自分が本当に女性なら、負けてなかった。

 やがて、航平は東京の大学に進学することになった。彼女ができたことで疎遠になっていたため、千弥が彼の出発を見送ることは無かった。


 東京か、いろんな人が集まる都会なら息苦しい価値観を押しつけられるようなこともないかもしれない。千弥は東京への進学を両親に相談した。

「東京の大学だと、バカを言うな。高校を卒業したら、すぐに家業を継げ」

 厳格な父はそう怒ったが、母が大学へ行くことで知見が広がると説得してくれた。父から精一杯の譲歩を引き出して、千弥は県内の国立大学へ通わせてもらえることになった。


 大学でも千弥は自分のアイデンティティに苦悩した。実家から通っている以上、本当の女性として生きることはできない。見た目を女性に変えようものなら、大学を辞めさせられて家から出してもらえないだろう。

 恋もした。女性と、男性と、それぞれ付き合ってみた。しかし、トランスジェンダーの千弥を本当に理解してくれる恋人はいなかった。小さな歪みが大きな溝になり、やがて別れることになった。

彼らは千弥という人間を好いてくれたが、田舎特有の固定観念から逃れることはできないようだった。


 大学生活の間、学費は奨学金と塾講師のアルバイトで賄った。密かに家を出るための資金も必死で稼いだ。東京の企業に就職し、新しい人生を始めるためだ。

 大学4回生の春、就職活動で何度か東京へ出向いた。そして、都内の中堅デザイン会社に内定を貰うことができた。夏休みには住居の下見にも向かった。


 翌年、桜のつぼみがほころび始める頃。刑部神社に最後のお参りをしていた千弥に、母が声をかけた。

「千弥、これを」

 母が千弥に手渡したのは、刑部神社のお守りだった。丁寧な赤色の刺繍のお守りは母の手作りだった。

「母さん・・・これ」

 お守りを手に、呆然とする千弥に母親は優しく微笑んだ。

「困ったことがあったら、いつでも帰ってきなさい」

 千弥は赤いお守りを握りしめた。涙が溢れて止まらなかった。


 部屋に戻ると、最小限の荷物を詰めたスーツケースの上に包み紙が置かれていた。中には紙幣が入っていた。母の気遣いに千弥はまた涙した。

 卒業証書を手にしたその夜、千弥はスーツケースを手に夜行バスに飛び乗った。このことを知っているのは母だけだ。怒りに震える父の姿が脳裏に浮かんだが、すぐにそれをかき消した。

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