不器用な嘘 ー刑部千弥

第1話

 今でもはっきりとそのときの感覚を覚えている。あれは中学3年の夏休みだった。朝起きて洗面所に立ち、冷たい水で顔を洗った。タオルで水を拭い、鏡に映る自分の顔を見た。鏡の中の自分と目が合ったとき、鏡から目が離せなくなった。鏡の中に違う自分がいる。

 千弥は鏡に映る自分の頬を震える指でなぞった。これまでずっと感じてきた自分が自分ではない、奇妙な感覚。その答えが分かった気がした。


-そうか。私は、女なんだ。


 鏡の中の自分が優しく微笑む。網戸の向こう、蝉時雨は鳴り止まない。千弥は鏡の前に時間を忘れて立ち尽くしていた。


 千弥の名字は刑部神社の名に由来する。刑部神社はこの地域を守る氏神だ。父は宮司で、長男の世襲により神社を守ってきた。母も神社に仕える仕事をして父を支えていた。

 千弥は刑部家の長男として生を受けた。2つ下に弟の千晴がいる。千弥は幼い頃から長男として、宮司を継がせるために厳しく育てられた。刑部神社の境内で千晴と一緒に遊んで神木に傷をつけたときも、千弥だけがひどく怒られた。


「お前は刑部の長男だ、こんなことでどうする」

 千晴は許され、千弥だけが神殿の冷たい床に1時間の正座をさせられた。幼い頃から何かにつけ長男だから、とプレッシャーをかけられていた。さらに、地方の田舎という特性から男は男らしく、女は女らしく、という暗黙の抑圧にもさらされた。千弥はそれが嫌でたまらなかった。生まれたくて長男に生まれたわけじゃない。いつも自分より甘やかされていた弟の千晴を羨んだ。


 長男らしく、男らしくと言われ、鬱屈とした思いを抱き続けていた反動で頭がおかしくなったのか、と千弥は自問した。しかし、自分が女性であると認識することは、社会や親からの価値観の押しつけから逃げるためではない。自分の心に向き合った答えだった。

 この気づきのために押し潰されそうなほどの不安に苛まれた。それから苦悩の毎日が始まった。


 自認する性と、外見のギャップに苦しんだ。思春期を迎えて、以前より濃くなってきた髭、意思の強そうな太い眉に、父と一緒に行く理髪店でいつも短く刈り込まれる髪も違和感があった。

 髭を毎日丁寧に剃り、眉毛を綺麗に整えた。髪はできるだけ伸ばし、散髪するときもあまり短くしないよう頼んだ。

「さては色気が出てきたな」

 理髪店の店主にそんなことを言われた。女性らしくいたいという本音は押し隠した。


 受験を控えた秋、中学校の図書館で勉強に集中していたら、いつの間にか日が暮れていた。夕闇の中、千弥は慌ててカバンを持って校舎を飛び出した。家までは田舎道を徒歩で40分。父に怒られる、そう思って帰途を急ぐ。

 農道の両側には稲の実る田んぼが広がり、遠くの森からヒグラシの声が聞こえる。空には一番星が輝き始めていた。千弥は真っ直ぐにのびる農道を早足で歩く。

 正面からやってきた自転車の男がじっと千弥を見つめているのに気が付いた。男はそのまま通り過ぎる。千弥は不審に思いながら先を急ぐ。


 不意に背後から抱きつかれた。振り向けば、さっきの男だ。

「やめてください」

 千弥は叫び、男の腕を振りほどこうとする。しかし、若い男の力は強い。男は耳元で荒い息を吹きかける。

「可愛いね、君。うちにおいで、いいことをしよう」

「い、嫌っ」

 千弥は必死で首を振る。

「俺だって乱暴なことはしたくない。大人しくしろ」

 男の低い声に千弥は恐怖を覚えた。全身に鳥肌が立つ。勇気を出して男の靴を思い切り踏んだ。男はぎゃっと悲鳴を上げる。怯んだ隙に千弥は男の腕をすり抜けた。


「離して」

 走って逃げようとする千弥の腕を、男は執念深く掴む。腕を掴む太い指に力が入る。千弥は痛みに顔を歪める。引き戻されそうになったそのとき、男の頭をカバンで殴るものがいた。驚いて振り向いたその顔にもう一発。厚みのある通学カバンの一撃を食らって、男は頭を押さえながら慌てて自転車に乗り、逃げて行った。

「大丈夫?」

 そこには白いカッターシャツの男子高校生が立っていた。髪を短く刈り込んで、日に焼けた小麦色の肌。

「は、はい。ありがとうございます」

 茫然とする千弥に、高校生は白い歯を見せて笑う。


「家はこの先?俺も同じ方向だから途中まで送るよ」

 千弥が震えているのが分かったのか、高校生は一緒に帰ってくれるという。千弥の顔に思わず涙が零れた。

「ああ、怖かったよな。しかし、男を狙う変態もいるんだな」

 男、と言われて胸がズキンと痛んだ。千弥の瞳からまた涙が溢れる。高校生は千弥の背中を撫でながら家まで送ってくれた。


 翌日、千弥は父に武道を習いたい、と訴えた。それまで自分から何かをしたいと言ったことのない千弥の言葉に驚いたようだが、父は喜んだ。礼節を学ぶためにと合気道に通わせてもらえることになった。

 合気道は心身の鍛練を目的とするもので、相手を攻撃する技はない。しかし、護身術として相手の攻撃を受け流す型はある。女性として生きるなら、自分で身を守りたい。千弥はその一心でよく学んだ


 春、千弥は地元の公立高校に合格し、高校生となった。黒い学ランを着た千弥の姿を立派だと両親は喜んでくれたが、千弥の気持ちは複雑だった。高校を卒業して大学に行けば自由になれる、それだけを支えに心を殺して過ごすことにした。

 桜が散り、新緑が芽吹く頃。下校途中の校門前で、千弥は不審者から自分を助けてくれた彼の姿を見つけた。背が高く、スポーツで鍛えたのだろうがっしりした身体つきに精悍な顔立ち。千弥の胸がドクンと高鳴る。

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