第3話
伊織はイラストの無断使用の件の対応が終了したことを課長に報告した。課長はそんなことは興味がないといった態度で、かぶせるように今月の売上見込みの話題に切り替えた。伊織は後輩の上原にはこの件がどう問題だったのかを考えてもらった。
「研修で習いましたけど、本当にあるんですねこういうの」
斜め上の返事に伊織は白目を剥いた。まるで他人事だ。彼女だけでなく、この会社は著作権に関する意識が薄いと感じた。原田との約束はかならず果たそうと伊織は心に誓った。
「伊織、今週の土曜日にイベントの手伝いがあってさ」
帰り際、同期の山口が手を合わせながら頭を下げてきた。こいつが頭を下げるときはろくな用件ではない。
「頼む、代わってくれないか。俺久々のデートなんだよ」
週末会えなかったらフラれちゃうよ、と泣きつく。伊織は天井を仰いだ。日曜日か、上野で博物館巡りでもしようかとぼんやり考えていたが、どうしてもという予定ではない。
「どうしようかな、俺にも予定があるし」
すんなりOKするのも癪だ。しかし山口の押しは強い。
「お前はデートする相手もいないじゃん、お前が用事あるときは代わるからさ」
頼む、と拝み倒されて伊織はしぶしぶ了解した。山口はプライベートが充実しているらしく、そう言いながら交代してくれたことはない。
「伊織くんが手伝ってくれるの」
有田は3つ上の先輩で女傑と呼ばれるほどに仕事ができる。黒のパンツスーツに明るい茶色のベリーショートの髪、耳には大ぶりのピアスが揺れている。華やかな印象でいかにも広告代理店の営業といった雰囲気だ。
「はい、土曜日は俺が行きます」
有田と山口で大型ショッピングモールでの新製品家電お披露目イベントの総合プロデュースを手がけており、土曜日がその初日だ。視察と言えば聞こえがいいが、クライアントの依頼でスタッフとして参加することになっている。営業の一環で無償の休日出勤だった。
「山口のヤツ、伊織くんに押しつけたな」
有田は悪いね、といいながら当日のスケジュールを伊織に手渡した。
土曜日、伊織はスーツを着込んでJRで川崎駅へ向かった。会場は駅直結の最近リニューアルされたショッピングモールだ。広い吹き抜けの広場は見上げれば青空が輝いている。
テーマは“おうちでリラクゼーション“と銘打ってお手軽なマッサージマシンや美容器具が並び、体験コーナーも充実している。客層は家族連れが多く、キッズスペースも用意されていた。
「チラシ配布やお客さんをブースへ案内するくらいだよ」
有田はそういうが、いざ開場してみると会場にいる人間はスタッフとして扱われる。人当たりの良さそうな伊織は製品説明にひっぱりだこで、メーカースタッフの手が空くまでのつなぎでカタログを見ながらなんとか対応をこなした。
「これどうやって使うんですか」
若いカップルの彼女が伊織に話しかける。ハンドマッサージャーに興味を示したようだ。
「やってみますか?ここに手を入れて、スイッチを押すだけです」
「わ~すごい、本当に揉まれてる」
「指圧されてるみたいでしょう。温熱効果もあるんですよ」
伊織は自分も先ほど試して感動したのでついテンションが高まる。これは自分でもひとつ欲しい。伊織との会話が弾み、彼氏におねだりしてお買い上げとなった。場の楽しそうな雰囲気に釣られてお客さんがどんどん吸い寄せられてくる。
気が付けば午後2時が近い。お昼をフードコートで手早く済ませて会場に戻る。
ややお客さんは引いてきた。ずっと立ちっぱなし、座りっぱなしでヘロヘロだ。伊織はふと、気になっていたマッサージチェアに吸い寄せられた。本革張りの重厚な作りで、無重力を体験できるという触れ込みだ。
「体験してみます?」
スタッフに促され、伊織はマッサージチェアに身を任せた。スイッチが入る。リクライニングが倒され、自然な体勢になる。
「あ、これいい・・・あ~いい~すごい~・・・」
あまりの気持ちよさに思わず声が漏れる。
「これ本当に最高~・・・はあ~いいな~これ」
目を閉じたまま全身を揉まれる。伊織の顔はまさに至福。疲れたサラリーマンが幸せそうにマッサージチェアに揺られる様子を見て通行人が集まってきた。
お試しの3分間が終わり、リクライニングが元に戻る。名残惜しげに伊織が目を開けるとそこにはギャラリーが集まっており、驚いてマッサージチェアから転げ落ちそうになった。
「わ、すみません、気持ち良くてつい浸ってしまって」
伊織は慌てて立ち上がる。
「そんなに気持ち良いのか、ちょっと試させてくれないか」
人だかりに誘われてお客さんがさらに集まってきた。メーカーのスタッフは説明に大忙しだ。
真剣にマッサージチェアを眺めていた中年の男がスタッフに声をかける。
「うちはネットカフェのチェーン店を経営しているんだが、このマッサージチェアについて話を聞きたいね」
スタッフは上司を連れてきて商談を始めた。
「伊織くんお疲れ様」
夜8時にブースの片付けを始め、解放されたのは9時だった。その後もずっと立ちっぱなしだった伊織はマッサージチェアの癒しも帳消しになるほど疲れ切っていた。
「有田さんもお疲れ様です」
有田は伊織のように表に立たず、裏方にいながらメーカーの上役と名刺交換をしてこの場を有効に活用していたようだ。次の商談に繋がるだろう。
「あ、君!」
不意に呼び止められた。あのマッサージチェアを展示していたメーカーの上役のようだ。
「君のおかげであれからお客さんがひっきりなしだよ、いいプレゼンをしてくれてありがとう」
突然お礼を言われ、伊織は恐縮する。
「いえ、ちょっとお試しで使わせてもらっただけで・・・本当に今までにないような心地よさでした」
「君の様子を見て人が集まったんだ。関東を中心に展開している郊外型ネットカフェのチェーン店に導入してもらえる話も決まったよ」
「そ、それはどうも」
伊織はただ、だらしなくマッサージチェアで蕩けていただけだ。気恥ずかしくなって頭をかく。名刺を出されたので、伊織も慌てて名刺を取り出した。
「宮野さんは広告代理店勤務ですか、今うちで来期の新製品のPRを考えていましてね」
そばにいた有田がすかさず挨拶をした。
マッサージチェアの会社はここ数年、新発想のリラクゼーション商品でヒットを飛ばしている優良企業だった。しかし広報は社内で地道にやっており、ホームページデザインは今ひとつ、PRも地味で広告代理店としては良い取引ができそうだ。
週明けに伊織が掴んだ商談だと有田が課長に話してくれた。しかし、課長は山口に任せるという。随分食い下がってくれたが、有田の意見は通らなかった。
「伊織くん、せっかくいい話だったのにね」
デスクで資料作りに格闘する伊織に有田がコーヒーを買ってきてくれた。
「いえ、たまたまラッキーだっただけです。それに、確かに山口の方はうまくやれます」
「君は人を惹きつける魅力があるよ」
有田の言葉に伊織は照れ笑いを向けた。
それから半年後、会社は人員整理の通達を出す。
営業成績が優秀な社員はそのまま、その他の社員は早期退社かパートタイマーかを選ばせるという無慈悲なものだ。伊織は“その他”に入った。パートの給料でも同じようにこき使われるのは目に見えていた。仕事内容は嫌いではなかった。一生懸命やってきた。でも限界だと思った。
送別会の日、TKコミュニケーションズでは8人の社員が見送られることになった。伊織もその中の一人だ。
「伊織、やめちゃうのか。寂しくなるなあ」
酒に酔った山口が伊織に絡む。
「残念だけど、向いてなかったのかな」
大学を卒業して入社から8年、ひたむきに頑張ってきたつもりだった。しかし、営業成績は良いとは言えなかった。数字を重視する課長に常々目をつけられていた。伊織は肩を落とす。
「お前はいいやつだからさ、応援するよ」
「都合の良いヤツ、だろ」
伊織はぶーたれた顔で唇を突き出す。
「そんな顔するなって、ほら笑えよ」
「やめろ、ばか。あ、こら写真なんて撮るなよ」
山口は笑いながら伊織の顔をスマートフォンのカメラで連写している。伊織もなんだかおかしくなって釣られて笑う。
「記念写真だよ。ほら、いい写真撮れた」
スマートフォンの画面には笑顔の伊織が映っていた。
花束を受け取り、会社を去って一週間。
職業安定所の帰り道、伊織は公園のベンチで大きなため息をついていた。午後の気だるい日差しが新緑の木立の隙間から降り注いでいる。
仕事は探せばある、売り手市場とはいうがそれは職種が限られた話だ。しがない広告代理店の営業マンに何のつぶしが効くのだろうか。池袋の安アパートの家賃の支払い、どうするかなあ。貯金はゼロではないが、この先の税金や健康保険の支払いを考えるとギリギリだ。
「田舎に帰ろうかなあ・・・」
そうつぶやいた矢先にポケットのスマートフォンが鳴った。誰かと思って画面を見れば、元同僚の山口だった。
「よお、伊織元気か?」
「山口か、元気じゃないよ」
電話の先のもはや懐かしい声に伊織は情けない声で返事をした。
「まだ仕事見つかってないだろ?」
図星だ。
「余計なお世話だよ」
「その感じだと困ってるな」
「まあね・・・いろんな業界の裏側を見てきたぶん、どこに転職するか本気で悩むよ」
「あのさ、ちょっとしたバイトがあるんだけど」
転職先を探すか、田舎に帰るか。今はバイトどころではない、伊織は言いよどんだ。しかし、山口の押しは強かった。
このバイトがとんでもない出会いへと繋がることを伊織は知るよしもなかった。
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