第2話
後輩のやらかしたイラストの無断使用の尻拭いで午前中の予定が狂ってしまった。伊織は既存客への来月の広告掲載の提案に新規先への訪問と駆け回り、昼食にありつけたのはまもなく午後3時という頃合いだった。
牛丼屋に入ればほとんど客がいない。シンプルな380円の牛丼を注文して味噌汁でかき込んだ。これから午後の予定をこなしていなかければ。無断使用の件でイラストレーターからメールの返信が届いているかもしれない。
伊織はふと、イラストレーターからのメールに書かれていた住所を思い出した。たしかオフィスはこの近くだったように思う。自分のスマートフォンでメールチェックをする。返信はまだない。イラストの無断使用、若手だけでなくリテラシーの低い中堅社員もときに確認不足でやらかすことがある。そういうときにイラストレーターに対して事務的なメールを送ってこちらの設定する料金を支払って丸め込むのが会社の方針だ。それで何度かトラブルになっているのを見たこともある。
メールには住所と電話番号が書いてあった。伊織は思い立って牛丼屋を出た。裏路地に入り、イラストレーターの電話番号をプッシュした。
「はい、原田デザインオフィス、原田です」
中年の女性の声。
「こんにちは、私はTKコミュニケーションズの宮野と申します」
この度は・・・と伊織は続け、近くを訪問したのでお詫びに伺いたいと申し出た。原田と名乗った女性はしばしの間の後に4時でアポイントを入れてくれた。通話を終了し、伊織はふう、と息を吐いた。新規の飛び込み営業で頭ごなしに怒鳴られたり冷たくあしらわれることには慣れているが、また違う緊張感がある。
電車で一駅、伊織はこれで良かったのか悩み始めた。このアポは会社の指示ではない。課長はメールで済ましてしまえばいいと指示した。だが、伊織にはそれで良いと思えなかった。もしかしたらこの直接謝罪で火に油を注ぐかも知れない。
胃が痛い。原田のオフィスは改札を出て雑多な繁華街を抜け徒歩で15分ほどの9階建てのマンションの1室だった。4時になるのを待ち、伊織はインターフォンを押した。
しばらくしてドアが開く。長い髪をまとめ上げ、チュニックにジーンズ姿の女性が顔を出した。ナチュラルメイクだが、キリッとした形の眉は気の強い印象を与える。
「お電話したTKコミュニケーションズの宮野です」
伊織は頭を下げる。
「原田です、どうぞ」
伊織の顔を見て原田は部屋へ入るよう促した。これから長々説教されるのだろうか、伊織は緊張しながらスリッパを履いて案内されたソファに腰掛けた。
「ちょっと待ってね、コーヒー淹れてるから」
部屋には原田の気配しかない。個人事業主だろうか。ざっくばらんな物言いがそう思わせる。コーヒーがテーブルに置かれた。原田は伊織の正面に座る。手には伊織の送ったメールの文面を持って。
「この度は大変申し訳ありませんでした」
「このメールの宮野さんね」
「そうです、私がそのメールを送りました。原田さんのオフィスが近いと知って、きちんと謝罪したいと思いまして・・・」
原田はコーヒーを口に含む。伊織は原田の背後に見える本棚を見て圧倒された。すごい資料の量だ。動物、建物、風景の写真集や読み物が大きな本棚にぎっしりと詰まっている。
「完成したイラストを見れば、大したことないと思うかもしれない、でも私達はこれまでに積み上げたスキルや磨き上げたセンス、経験と知識を生かして描いているんだよね」
原田はテーブルのメールを見つめている。
「それを勝手に使われて御社の言い値で無かったことにされる・・・泣き寝入りする子も多いけど、私はどうしようかな」
原田は試すように伊織を見る。伊織の顔を見て原田は驚いた。顔を真っ赤にして膝に置いた拳を振るわせている。今にも泣き出しそうな表情だ。
「あの、宮野さん大丈夫?」
「本当にすみませんでした、あのメールがどれほど失礼だったか・・・自分が恥ずかしいです」
社の方針とはいえ、メールをしたためて送信したのは自分だ。人を軽んじるような真似をした自分が情けなく、伊織は深く頭を下げた。
「あのメールは君の一存ではなくて、上司にでも言われて送ったんでしょう」
原田は見抜いていた。
「はい、でも言われるままにそうしたのは自分です」
「会社の代わりにうちの損失を補填してくれるの?」
「私にできることなら・・・」
「君が私にこっそり謝りにくる、そして丸く収めるためにお金を払う、それは仕事じゃないよね」
原田の言葉に伊織はハッとして顔を上げた。会社に黙って言い値を支払い丸く収めよう、そんな甘い考えを見抜かれていた。
「訴訟を起こしておたくの会社にこの件について反省してもらおうと思ってたけど、君に任せる」
「どういうことですか」
伊織は怪訝な顔をする。
「今後、無断使用が起きないように、君が社内で啓発活動をする。それで許してあげる。あ、もちろん御社が提示した金額は支払ってよね」
「原田さん・・・」
伊織の顔を見て、原田は薄く微笑む。
「君の誠意に免じて、だからね。普通はわざわざこんなところに出向かないでしょう。バカ正直だよね、まあもし私のオフィスが北海道なら来てなかったよね」
「そうですね」
伊織は頭をかいた。
「原田さんのイラスト、温かくて優しくてとても好きです」
「そう思うならいつかきちんと契約で使ってくれる?」
「はい、ぜひ」
伊織は別れ際にもう一度深く頭を下げた。
予定した営業回りを済ませて帰社したときには、夜9時をまわっていた。社員がまだ2人残っているのみで、オフィスは明かりが半分消えていた。メールをひらけば原田から振り込み先の口座の連絡があった。伊織は今日のお礼を返信した。振り込み処理を済ませて、今日訪問した先の報告をすでに帰宅した課長へ送信して、明日の資料の準備をする。会社を出るときには、終電間際、駅まで慌てて走った。
池袋のボロアパートに帰宅して、スーツを脱ぎ捨てた。下手クソな鼻歌交じりでシャワーを浴びる。コンビニで買ったおにぎりを腹に入れて気絶するように眠った。疲労感に包まれた身体が泥に沈むようだ、でも今日は決して悪い日じゃなかった。
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