雨のち晴れ ー宮野伊織

第1話

「伊織―、今日のコラボカフェ企画の資料できてるか?」

 デスクで同僚の山口浩平に肩を叩かれた。振り向いた伊織の顔を見て山口はドン引きする。

「うわ・・・なんだその顔、まるでゾンビじゃん」

「仕方ないだろ、このアニメ全然知らなかったんだから・・・毎日ほぼ徹夜で82話を観てたんだよ」

 伊織の目の下には落ちくぼんだ黒いクマができている。顔色もすこぶる悪い。唇はカサカサ、後ろ髪はどうしても取れない寝癖がついている。

「お前、それで客先に行く気か。顔洗ってこいよ、あと寝癖な」

 山口は伊織から資料を受け取り、自分のデスクに戻っていった。


 都内四谷にあるTKコミュニケーションズは資本金1000万、正社員38名、契約社員15名、パート8名の中堅の広告代理店だ。社員は主に営業、外注に出さない細かいレイアウトデザインやWEB作業は契約社員とパートでまかなっている。TKは代表取締役の近藤孝史のイニシャルだ。創業8年、社員の平均年齢は36歳の若くて元気のある会社という触れ込みだが、小さな会社だけあって社員一人一人の仕事量は多く、業界にありがちないわゆるブラックに限りなく近い。社員の平均年齢が若いのはそのせいでもある。


 宮野伊織が地元岡山の大学を卒業して、必死の就職活動の末に入社できたのがこのTKコミュニケーションズだ。完全週休2日を謳いながら無給の休日出勤はほぼ毎週、資料作りや雑務のための残業はノーカウントという過酷な環境で気が付けば8年、よく生きてるなと山口を含めた同期3人と笑い合っている。

 地元は海と大きな橋の見える町だ。瀬戸内の穏やかな気候と潮風とともに育った。そんな伊織はどこかのんびり屋で天然なところがあり、それは都会に出ても変わらない性質だった。


 今日は人気アニメのコラボカフェの企画をプレゼンするために秋葉原や池袋のカフェを訪問することになっている。今流行のライトノベル小説が原作で、ドラゴンを操る少年の成長や恋を描いた壮大なファンタジー物語だ。いろんなものにアンテナを張っておく必要のある業界だが、サブカルチャー全般に精通するのは難しい。

 伊織もその作品を全く知らなかった。プレゼンに行くためには作品を知る必要がある、そう思って動画配信で全話完走したのだった。


「お前は馬鹿だな、有名な作品らしいからオタ系の店側がよく知ってるて。このプレゼン資料に依頼元が提示する概要はまとめてあるしさ。アニメなんてそんなのいちいち時間かけて観るもんじゃないだろ」

 山口は要領がいい。口八丁でクライアントを乗せることができる。確かに全話分観る必要はなかったかもしれない。しかし、少年の成長やドラゴンとの交流が気になってつい全話観てしまったのだ。最終話では感極まって号泣した。伊織は鏡に映るゾンビのような自分の顔を見てげんなりした。

 伊織は7件を回って3件がほぼ確約、2件は前向きに検討という結果だった。アニメ好きの店長たちに、作品に愛着を持った伊織の熱心なプレゼンが功を奏した。山口は別行動で3件の確約を持って帰った。


 営業は毎月数字との戦いだ。同期の山口はいつも成績が良い。筋の良い得意先を持っている。筋が良いというのは金払いが良いということだ。離職率が高く、いつも社員を募集するブラック企業に張り付いて上手い文句で募集広告を打つ。悪質な課金システムで問題になっているオンラインゲーム会社もユーザーが減れば一気に派手な広告を打つので「良い客」だと言っていた。外面と、要領の良さで相手先の上役にもよく可愛がられている。

 反して伊織は要領が悪い。何にでも真面目に取り組んで上手く手が抜けない。相手を思いやる気持ちと言えば聞こえがいいが、実のところ効果が見込めない広告やサイト掲載を小さな店の個人事業主に押し込んだりする強引な営業はできないでいた。営業課長から日々怒声を受け、そろそろ主任と噂される同期と比較されていた。


「宮野、この件適当に文面書いて送っといてくれ」

 人の良い伊織には上司からの雑務の押しつけも多かった。山口に依頼しようものなら、それならこの重要案件が後まわしになります、と遠回しに脅されるからだ。

「これ、使用許可取ってなかったんですか」

 課長に渡されたのは4つ下の後輩の上原結愛が手がけた広報誌の記事とメールのプリントアウトだった。記事に使われているイラストが無断使用だったこと、プリントアウトはそれを見つけたイラストレーター本人からの抗議文だった。


「うちの規定は1カット3000円だ。3点分の料金を支払うとメールして振込先を聞いておけ、振り込みも臨時伝票を切ってお前が処理しろ」

「でも、これきちんとお詫びしないと」

 伊織の言葉は遮られる。

「お詫び?金を払うと言っているんだ、そんなものいらん。上原はフリー素材と思って使ったと言っている。サイトがわかりにくかったと言っておけ」

 その上原はふて腐れてそう言い切ったらしい。課長は女に弱い。


 業界ではよくある話だった。伊織はデスクで事務的なメールの文面を作り始めた。勝手に使ったが規定の料金は払う、それでいいだろう。そんな本文テンプレが社内にある。キーを打つ手が進まない。イラストを眺めると、やさしい丁寧なタッチでイラストレーターの人柄が出ているようだ。相手からのメールの文面は感情的なものではなく、問題について端的に伝えていた。

 伊織はメールを送信した。これ以上社内にいたらどやされる。営業カバンを持ってオフィスを飛び出した。

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