第4話
獅子は異様な空気に緊張し、雷鳴のような声で吼える。その恐慌をあおり立てるように、太鼓や水平琴も合奏に加わる。
……獅子。
わたしの脳裏に、王子とともに涼しい中庭で戯れていた仔獅子が浮かぶ。太い脚の、ころころとした、目のおおきな仔。
荒野に住む野生の獅子ではない。ガゼルや野驢馬も、事前に生け捕りにされ、数日飼われるが、獅子をこんなにたくさん、短い期間に生け捕るのは不可能だ。
王に養われ、王とともに育つ獅子が、この場に引き出されるのだ。
木陰から進み出た王は、額飾りではなく、高い塔のような形の王冠をかぶっている。騎馬ではなく馬の曳く戦車に乗り、土埃を立てて走る。
足を踏みならし、うろうろと檻のなかで動く獅子たち。宦官が檻の上に登り、槍の柄でガンガンと檻を叩く。地を揺らすような獅子の叫びが起こる。
王の顔は……王冠と髭のあいだのかれの顔は……よく見えない。わたしは、顔を背けたくなる気持ちと、目を釘付けにされたような気持ちの両方を感じながら、闘技場を見下ろし続ける。
仔獅子の喉元をかいてやる王子の、いとおしげな顔を思い出す。鞠を転がし、それに取り付く仔を見て笑うかれの顔。
檻の上の宦官が扉を引き上げる。
獅子たちは一斉に野に飛び出していく。しかし、戸惑い、顎を揺らす。
獅子の視線のさきに、獣たちが見知った顔がある。けれど一方で、地面は血塗られ、死んだ獣たちの絶望の臭いが充満していることに、かれらは気づいている。
――なにゆえ予は……なにゆえわれわれは……
世を去った王の遺したことば。痛々しい手を握ったこと。
アッシュル・アハ・イディナは知っていたのだ。自分だけでなく、息子も、自分と同じ絶望の道を行くことを。
「予に続け!」
闘技場から、王の声が響きわたった。王の合図で戦車が進む。王が弓を引き、ほかの戦車のひとびとも同じ動作をする。矢の雨が、裏切り者を見つめる獅子たちに降り注ぐ。獅子たちは本能に従って逃げ、あらがう。すでに矢を肩に受けた一頭が、王の戦車に向けて駆け、王に飛びかかる。その獣は王に近づく前に槍で胸を衝かれ跳ねる。悲鳴のような声を上げてのたうち回る獅子に、ほかの貴人がさらに穂先で襲いかかる。しだいに、痙攣の間隔がゆるやかになってくる。王は戦車を近づけると、日の光にきらめく剣を抜き放ち、獅子の前足の付け根を突き込んだ。そのまま身を進め、切っ先が獅子の背から飛び出す。
「アッシュル・バニ・アプリ!!」
観衆が叫ぶ。
「アッシュル・バニ・アプリ、王のなかの王!」
「アッシリアの王!」
「この世の、四方世界の王!」
「王は偉大なり!!」
「栄えある王!!」
王は獅子を蹴る。剣が突き刺さったまま、獅子はぐしゃりとうずくまる。尚、かれは生きている。怒りのこもった目で王をにらみつけ、腹と胸をおおきく震わせて血の混じった吐瀉物を口から滝のように吐き出す。四肢には血管が浮き出、うめくような声を漏らす。その途中で、事切れる。
光を失った目で倒れた獅子を見て、観衆はふたたび王に喝采を浴びせ、歓喜を叫び続けた。
「ばあさま、お話して」
冬の夕暮れ、寝支度をする孫や曾孫たちにせがまれ、わたしは物語を語って聞かせる。神々の戦いや結婚の物語、英雄の苦悩、この世の真実を解き明かす旅の物語――……。
糸紡ぎの手を休めることなく、わたしが語っていると、幼な子たちはうとうとと眠ってしまう。ちいさな窓から差し込む、暗い残照を見つめ、わたしは手を止める。
――人間は、自分が覚えているお話しかできないけど、粘土板は、書かれたらずっと残るし、ずっと読めるんだ。
そう言ったアッシュル・バニ・アプリ。
わたしは文字を習うことなく一生を終える。村のひとびとにも、文字を読み書きできる人間はいない。定期的にやってくる役人だけが、わたしの日常的に知る文字を操る人間だ。
わたしも、文字が読み書きできれば……もっと、物語を知りたい。遠い過去の、遠い異国の物語を……。そう、以前は思っていた。王がこの村を去る前は。
けれどいまは。人間の覚えていられない物語に、なにか価値があるのか、と疑問に思う。一生の両手に収められない物語、自分の両足の届かない場所の物語、そんなものに。そんなものに対して、持っていると感じることは、驕りではないのか。地を這いつくばり、神々に命じられて日々からだを動かし、くたくたになるまで働く人間が、そんなことができると主張することは――……。
王は、アッシュル神の第一の礼拝者であるが、神ではない。それは都の貴人たちも、この村のひとびとも、当然のこととして知っている。あるいは文字を知り、帝国を広げようとする貴人たちは、わたしたちのような農民とは、見ているものがちがうのかもしれない。けれど、あなたたちも、王も、人間だ。ものを食べ、排泄し、眠り、語らう、神々が粘土をひとつまみ取り上げて造った、神々の労役を担う人足に過ぎない。用水路を保持し、神殿を造成することを願う、僕なのだ。
冬、村の役人に伴われて、「王の書記」がこの村にやってきた。
もそもそとした頭髪に、乾き目なのか頻繁に瞬きを繰り返すそのわかい書記は、王に命じられて、わたしの語る物語を書き取りに来たのだという。
覚えて。
ええ、陛下は覚えておられます。幼きころ、あなたに物語を聞いて、こころを躍らせたことを。
王の別邸だった場所は、日干し煉瓦も崩れ、跡形もない。数本のイチジクとナツメヤシだけが、忘れられてたたずんでいる。書記をそこへ案内し、残った壁の陰で風をよけて火を焚き、かれに当たらせる。
曇った空、つめたい風を見上げながら、わたしは話した。さすらう神ネルガルの、バビロニア壊滅の物語。イシュタル女神の冥界下り。農民たちに伝わる知恵を絞った寓話。少年に語った物語を、ひとつ残らず語る。
しだいに、わたしの胸から、きらきらした瞳の、豊かな巻き毛の、シトロンの匂いの子どもが去っていく。かれは病弱で発熱しがちな、老いた父の手を引いている。老父はわたしを振り返り、ヤヨタ、と呼びかける。
農夫陛下。
老人と子どもはほほえみ、農民のように無心に、おおきく手を振る。
さようなら。
わたしはつぶやく。手を振り返す。
ふたりは、羽ばたく音と、日輪の輝きの向こうに去っていく。
わたしは、ずっと空を見上げ続ける。
草のように不要なもの
怠け、妬み、嘘、空を見つめる時間
走れ、走れ 矢のように走れ
翼ある日輪が
山の向こうに翔けてしまう前に
春。洪水の季節。羊や驢馬の子を取り上げ、羊の毛を刈る。
初夏。用水路を修繕する。鍬返し。播種。
夏。草刈り。麦の収穫。
秋。果実の収穫。ビールを醸す。干し草づくり。
冬。神殿の建築。機織り。
からだはきかなくなっても、知恵とわざを求められて、わたしは軒先に出る。みなが額に汗して働くすがたを見つめる。
都の周りではずいぶん長いあいだ、戦は起こっていない。孫は兵役に取られるが、略奪や破壊とは無縁の生活だ。
先王の、あるいは現王の治世の安楽を、わたしたちは享受している。
遠くの大国を滅ぼしたと、バビロニアの兄王を倒したと、殺戮の報を聞きながら、わたしたちは変わらず羊の乳を絞り、麦を刈る。
鎌で刈り取った麦は、エジプトの兵士の首だったかもしれず、畑の底から掘り出した岩は、エラムの神の像だったのかもしれない。
この帝国の民であるということは、そういうことだ。
翼ある日輪の帝国 農婦の物語 鹿紙 路 @michishikagami
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