第3話

 十年あまりの治世のうちに、アッシュル・アハ・イディナ王は内外に遠征を繰り返した。少年から青年に成長したアッシュル・バニ・アプリ王子は、父に従い戦に身を投じた、という。遠征から戻ると、占いの結果を重んじて、からだの弱い王は疲れを押してこの村に来た。最後の滞在で、かれは熱を出していた。

 暮れなじみ赤らんだ光のなか、井戸から水を汲み、杯に入れて寝台のかれに差し出す。

「ヤヨタ」

「……はい」

 わたしは驚いた。かれがわたしの名を呼んだのは、これが初めてだった。上体を起こしたかれは、わたしから受け取った杯で口を湿すと、ゆったりとほほえんだ。

「……手を握ってくれ」

 掛け布に投げ出された左手は節が目立ち、わずかに震えている。

 わたしはなにかを考えることもせず、すぐにかれの手を両手でつつんだ。

「……まったく、なにゆえ予は……なにゆえわれわれは……」

 あまたの王を地に這いつくばらせ、足先に口づけさせた王は、わたしの手の甲にそっと唇を当てた。

「神々に駆り立てられて、進んで幸運から離れていくのか。残るのは抜け殻ばかり」

「陛下」

 わたしは目を見ひらいてかれを見つめた。

 するどい黒曜石のような瞳だと思っていたそのまなざしはいま、熱に浮かされているせいか潤んでいる。

「ほんとうに求めたものは……――」

 かれは首を左右に振った。

「いま言っても苦しいばかりだ。予はまたエジプトへ行く」

 うつむいて、かれは静かに涙を流した。この十年で華奢になったかれの背に、わたしは腕を回し、老いにさしかかった男を抱き締めた。かれは微動だにせず、音も立てず、泣き続けた。



 アッシュル・アハ・イディナ王は、エジプト遠征からの帰路、病没した。代わって、かれの寵愛をうけたアッシュル・バニ・アプリがアッシリアの王となり、その一年後、兄シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王となった。

 父王が病弱な自分のからだと同時に苦しめられていたのは、その母ザクートゥの専制だという。わたしは彼女に会ったことはないが、新王の祖母にあたる、北レヴァント出身の彼女の苛烈な支配は、都ちかくの農民ですら知っていた。もっとも悪評ばかりではない。女が政治をおこなうことに対する反感をねじ伏せる、彼女の毅然としたふるまいは、むしろ女たちには喝采をもって迎えられていた。

 あのすなおな王子は、王となって、彼女とどう向き合ったのか――その疑問に答える噂はなにもわたしの村には来なかったが、父の成しえなかったエジプトの首都テーベの征服を果たし、アッシュル・バニ・アプリは揚々と凱旋した。それを迎えるひとびとのなかに祖母ザクートゥはおらず、彼女は孫の到着前に亡くなったという。

 偉大なるアッシリアの王は、ニヌア城外の闘技場で獅子狩りの儀式を行うことを触れ回らせた。ひろくアッシリアびとの観衆を受け入れて、ある秋の始まりの昼、儀式が挙行された。わたしは――わたしも老いたので、息子に手を引かれ、杖をついて闘技場を見下ろす丘に上った。息が切れる。息子に差し出された革袋の水を飲み、闘技場を見下ろす。

 まばらに草の生えた野が、日干し煉瓦の塀で囲われている。貴人のいるおおきな色とりどりの幕屋も見える。檻に入れられた獣たちが、馬車に曳かれてやってきて、まずガゼルたちが放たれる。打ち鳴らされる太鼓、笛、水平琴に、ひとびとは歓声を上げる。音楽に驚き、ガゼルは慌てふためきながら野に散っていく。羊ほどのおおきさの獰猛な狩猟犬が、宦官によって放たれ、喇叭の音と同時に、騎馬の一群が入ってくる。わたしは王のすがたを探す――……いた。ひときわ輝く金の額飾り、豪奢な衣服。勢子が鳴子や太鼓でガゼルを追い立て、みるみるうちにガゼルたちは張られた網のなかに迷い込む。王がかろやかに弓を構え、引く。その一矢に続いて、貴人たちが次々に矢を放つ。絶命するガゼルの声に、ふたたびひとびとは歓声を上げる。

 続いて野驢馬。よりおおきく速い獲物も、修練を積んだであろう奴隷や兵士によって、囲い込まれる。絶食させられて餓えているのだろう、肋骨の浮いた犬たちが驢馬の腹に噛みつく。痛みにいななく驢馬を、矢が襲う。盾と槍で武装した兵士に囲われ、驢馬の一頭が首を折り、がっくりと倒れる。もう一頭は走る勢いのまま片足を射られ、平衡を崩して腹を上にして倒れ込む。あふれる血、甲高くするどい絶命の声、観衆の喝采や口笛。仔驢馬が母驢馬に駆けより鳴くも、その仔もゆったりと近づいた王の槍に貫かれる。苦悶に口を開け、泡を吹く仔驢馬。天を仰ぎ、痛みにひくひくと震える母驢馬。

 喝采に次ぐ喝采。王の馬は、地面の血を蹴立てて走る。

 ガゼル、四十。

 野を渡って、王の伝令が触れ回る。

 野驢馬、二十。

 手を叩き、観衆は感嘆する。

 殺した頭数を叫ぶ伝令に、わたしはとっさにてのひらで片耳をふさぐ。

 もう一方は杖を持っているせいで、両耳はふさげない。

 手でふさいでも無駄だ、この声はあまりにおおきい。

 かれは――アッシュル・バニ・アプリは、悠然と馬を操り、いちど木陰に引く。

 野に散らばった死骸と矢を、奴隷たちが片づけていく。血は乾いた土に吸い込まれ、遠目ではおおきなどす黒い染みに見える。

 喇叭と笛の合奏。獅子追いの歌の始まり。布で覆われた檻が、ころに乗せられていくつも運ばれ、野のまんなかで奴隷たちが素早く布を剥ぐ。檻のなかに認めたたてがみを持つ獣に、わっとさらにおおきな歓声が湧く。

 獅子だ!

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