脚が、重い。

 空気がまとわりつく。


 つかさが死んでから、秋の長雨がずっと、ずっと降り続いた。


 詞はスピードを出しすぎてうまくカーブを曲がれず、そのまま天国まで走り抜けていってしまったそうだ。



 私は走れなくなっていた。

 だって、詞のいない世界で走って、いったい何になるというのだろう。

 前へ進もうにも、いつも前を走っていた詞がいないから、どこへ向かえばいいのかわからない。


 世界を包む、音も、香りも、てざわりも。みな味気なく、膜を張ったように遠かった。


 あの日、もし私が今まで通り、詞のレースを観戦していたら、あの事故は起こらなかったのではないか。自分の大会なんて放り出して、命を危険にさらして走る詞のそばにずっと付いていたら、結果は違ったんじゃないだろうか。


 いや、私がもし、陸上なんてやっていなかったら、そもそも詞はロードレースなんてやらなかった可能性がある。少なくとも、モトクロスから転向することはなかったかもしれない。


 せめて、私がもし、自己ベストを更新しよう、なんて言わなければ。

 私と詞では、一度のレースに賭けている命の重みが違う。アスファルトの上で彼女が研ぎに研いで尖らせた覚悟で以って、自身の命を削って、燃やして、それを原動力にエンジンを駆動して、死の淵を舐めて走る恐怖を飼い慣らし、震える四肢を車体とひとつにして――そうやって編み上げられた彼女のミリ秒が積み重なって、ようやくあのサーキットの一周分になっている。

 自分が詞に送った最後のメッセージを眺める。

 無邪気で愚かな『自己新出た!』というそれに、既読のマークがつくことは永遠にない。



 雨が止んでくれない。


 私と出会わなければ。

 私がいなければ。

 詞は。



 私は一滴だって涙を零さなかった。

 私の代わりに雨がざあざあ降るから、私は泣けない。




 今日も雨は降りやまない。電車をふた駅乗り、歩いて学校へ行く。

 初めの頃は気を遣っていろいろと友人や先生たちも声をかけてくれたけど、私の抜け殻のような有様に、やがて遠のいていった。

 それでも学校へ行き続けた。早朝、部屋の外からバイクのエンジン音が聞こえる気がして、どうしても起きてしまうのだ。カーテンを開けて、雨にけぶる暗い住宅街を見下ろしながら、真っ赤なバイクが迎えに来るのを期待してしまう。

 ドルドルドルドル。まるで大きな怪物の喉の音みたいなそれが、聞こえてきやしないかと耳を澄ませても、耳をつんざくのは雨の音だけだった。



 いつの間にか、今日も授業が終わっていた。放課後になってもざんざんと降る雨に、運動部員はみなどこかへ消えて、運動場は空っぽだった。


 駐輪場に赤いバイクのないことを確認して校門へ向かいかけた足を、思い直して運動場へのろのろと運んだ。傘を畳んで、運動場が見渡せる屋根付きのベンチに背を預けた。

 強い雨は太い槍となって地面を叩きつけ、泥を跳ねさせていた。

 あの日もこれだけ雨が降ってくれていたら、詞は走らなかったかもしれないのに。


 ――『あたしは好き』。

 雨のことを好きって言ってた詞を、なんで助けてくれなかったの、雨。


 雨音が強すぎて、記憶のなかの詞の声がうまく聴き取れない。


 ベンチの上で膝を抱えてうずくまる。


 話したい、話したいよ、詞。


 あんなに一緒にいたのに、突然いなくなっちゃうから、一緒にいたのが嘘みたい。

 私の一部は詞で出来ていたのに、詞が去ってしまって、私はもう、ばらばらになりそうだった。

 詞は幻だったのかもしれない。そう思うほうが、楽だった。


 それでも、私の目から涙が出ることはなかった。



 どれぐらいそうしていたかわからない。

 隣に誰か座る気配がして、でも顔を上げずにいた。少しだけ雨足が弱まった頃、その人は、


あおいちゃん」


と静かに言った。聞こえないふりをして無視してもよかったけれど、のっそりとそちらへ顔を向けた。

 たすくくんだった。こちらを見ないまま、彼は静かに言った。


「葵ちゃんに見てほしいものがあって」

「……なに」


 トタン屋根を激しく打つ雨の音に紛れそうなくらいの小ささで応えた私に、佑くんは顔を向けて、一瞬口をつぐんでから続けた。


「――あのレースのちょっと前に。サーキットで練習してたとき、こんな風にすげー雨が降って、おれらコースの脇で休憩してたんだ。そのときに、みんなでさ……『ぶっちゃけ死ぬの怖くない?』って話になって……」

「……」

「おれらってさ、バカみたいなスピードでマシン走らせてさ、それは楽しいからそうしてるんだけど、でもやっぱ……。そんで……いつ死ぬかわかんないから、遺書代わりに動画撮っておこうぜってなったんだ」


 彼はひそやかに昏い笑みの気配を浮かべ、


「今考えると縁起でもないし、実際……」


そして、声を震わせて黙った。それからぎゅっと口を引き結び、私の乾いた目をまっすぐ見て言った。


「……だけど、やっぱ葵ちゃんには見てもらったほうがいいと思ったんだ」

「……」


 怖い。見たくない。私の知らない詞の声を、姿を知りたくない。見たらほんとに、私のなかの詞がいなくなる気がする。

 佑くんは液晶画面にヒビの入ったスマートフォンを取り出して、私に確認した。


「――見る?」


 引き攣れそうになる喉から、掠れた声を絞り出した。


「うん……」



∽ ∽


 画面の中の景色も薄暗く、雨音がしていた。

 私の記憶の中にいない詞が、レーシングウェアを着てパイプ椅子へ座っている。

 現実の雨にかき消されないよう、スマートフォンの音量を最大限に上げた。


『――の、怖い?』


 途中から大きくなった佑くんの声が届いて、詞が小さく口元にかたい笑みを刻んだ。


『うん……死ぬのは……怖いかな……』


 画面の中からも、外からも雨音がひっきりなしに鳴っている。たっぷり沈黙を保ってから、ふいに詞は困ったように微笑んだ。


『レース直前、やっぱり怖くなることがあるんだけど……でも、そういうときに、葵と走る河原のこと思い出すと、怖くなくなる』


 仄暗い空間で不思議と、彼女の切れ長の瞳が煌めいた。


『私の背中見て、魔法みたいだったって葵が言ってくれたこと、あたしいまだに忘れてない。あの言葉があたしの中でずっと燃えていて、それを原動力にして走ってるんだ。葵がいるから、あたし、走れてる。葵が走ってるから、速さの向こうに挑めてる気がする。あのまっすぐな土手の上を、あたしはバイクで、葵は自分の脚で走ってるイメージを……あたしはたぶん永遠に持ってる』


 詞の声だけがくっきりと聴こえる。


『いったんレースが始まったら――走ってる最中は何も考えないんだ。言葉も、感情も、からっぽになる。……でも、そのからっぽのふとしたときに、葵が走ってるイメージが一瞬よぎることがあって、そうすると、たいてい、いいタイムが出てるんだよね』


 首を少し傾けた拍子に、詞の髪がさら、と揺れた。


『だから、走ってる葵はあたしの幸運のお守り』


 詞は柔らかく笑んでいたけれど、はっとしたように慌てて付け足した。


『あ、だからってプレッシャーに感じることないよ。走ってても、走ってなくても……葵は葵だから。だから……。……そんなカンジー!』


 最後に照れ隠しか、下唇を突き出しておどけてみせている。佑くんの声が呆れたように言う。


『……なにこれ、愛の告白?』

『ち、ちがうし!』

『ほぼ全編、葵ちゃん宛てメッセージじゃん』

『いや、そんなつもりなかったんだけど、なんかっ……みんな死ぬとか言うからさあっ! ……なんか……葵に話しとかなきゃって思った』


 そうして、詞は寂しげに笑った。


『……ふーん』という佑くんのつぶやきが終わらぬうちに、カメラの前の詞はぶんぶんと手を振った。


『やっぱやめ、やめやめ。消して、この動画』


 そのとき、少し離れたところから誰かの声が届く。


『あっ、晴れたよ』


 確かに、タープテントの奥の遠景には光が差していた。雨音も、スマートフォンからは聞こえない。集っていた数人がばらばらと椅子から立ち上がって、テントの外へ歩いていく。


『おーっ見て見て、虹! すげーでかいっ!』


 野太い声が嬉しげに届く。


『だー! 綺麗!』

『わーやべー!』


 そのとき、詞の声がして、


『あ、待って待って、動画で撮るっ、葵に見せたい!』

『あっ、おい! おれのケータイ!』


 一瞬映像が乱れてから、画面が光に溢れた風景を写す。

 それは、見覚えのある風景だった。

 黒いアスファルトが濡れて、きらきらと光っている。その大きく広がるサーキット場の真上、白い雲がうっすらとかかる空を、力強い虹が横切っている。


 それは、以前詞が「野生の虹を見た!」と言って私に送った動画と同じものだった。


『どうだね、これが虹というものだよ、葵! 綺麗だろ〜』


 得意げな声が朗らかに響く。

 光の束が描く線をカメラは丁寧に追い、それから全景が映るようズームアウトした。

 つかのま黙って、


『虹の根元ってどうなってんだろ』


ぽつりと詞はつぶやいた。

 それから、一転して優しい声になって囁いた。


『……葵。いつか一緒に見たいね、虹』



∽ ∽


 いつの間にか、現実の世界でも雨が弱まっていた。

 無言でスマートフォンを佑くんへ返す。

 座っていられなくなって、立ち上がる。どうしたらいいかわからない感情が、ぐるぐると奔流になって胸と言わず全身を渦巻いている。だらだらと目から水分が流れ出ていた。あんなに厚かった雲が割れて、眩ゆい光が街を照らし始めている。どんどん明るさを増す空だけど、あいかわらず霧雨が細く天から落ち続けていた。

 佑くんが独りごとみたいに言った。


「狐の嫁入りって言うんだよな、こういうの」



 ――見たかった、詞と一緒に見たかった。虹。


 止まらない涙をカーディガンの袖で何度も拭く。


 ふいに、遠くのほうでワッという歓声が上がった。


「わーすごい、すごい!」

「虹! 虹でっけー!」


 その言葉にはっと顔を上げる。

 はしゃぎ声のするほうへ体を向けると、建物の向こうに虹のしっぽが見えた。


 運動場の水たまりを蹴散らして走り出す。

 重かった脚に力がみなぎる。空気が清冽に澄んでいく。


 あの虹の先に詞がいる気がした。


 生徒たちがスマートフォンを掲げて大きな虹を写真に撮っている。

 ここはまだ虹から遠い。よくわからない焦りに突き動かされ、学校の外へ飛び出した。


 ――詞っ、虹! 虹……っ見えたよ!

 詞が見せてくれているのかもしれない。


 虹の根元を追いかけ、走って、走った。


 転びそうになっては脚を踏ん張り、空を見上げて、光の束がそこにまだあることを確認した。

 繊細な雨が優しく顔を濡らして、今もまだ私は泣いているのか、空だけが泣いているのかわからなくなった。でも、顔を撫でる雨の感触も、土砂降りのあとの生っぽい匂いも、街に溢れるざわめきも、ちゃんと自分のそばにあった。


 そうこうするうち、私は土手に辿り着く。

 夕方の気配を漂わせた光が、赤っぽく滲む。街の上にかかる虹は、ゆったりとおおらかに伸びて、その根元は凪いだ川面と接している。半円を描く虹は、穏やかな川に反射してうっすらと円になって光っていた。


 土手の上から煌めく川へ向かって叫ぶ。


「詞のばか! はやすぎなんだよ! さっさといくな! ……バイクに人間の脚が追いつけるわけないじゃんか!」


 雨が乾いていく。蜃気楼のように、虹も大気にけていく。


「……私、絶対もっと速くなってやるから! それで、詞のこと迎えに行ってあげるから!」


 あとからあとから濡れてしかたがない顔を無造作に拭って、しゃくりあげそうになる息を深く吸い込んだ。


「それまでそこでちゃんと待っててよ、詞!」



 あとには、二人でよく見た夕暮れどきの土手の景色が広がるばかりだった。





(完)

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空に走る — 光が涙をこぼしたら — 東海林 春山 @shoz_halYM

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