二学期の中間試験の期間になった。部活もないから、つかさがバイクで家まで送ってくれることになっていたけれど、放課後、突然雨が降り出した。教室の窓から空を仰ぎ見て、「すぐ止むと思う」と詞は言った。詞の勘はよく当たる。だから私たちは他に誰もいない薄暗い教室で、雨が止むのを待った。

 私は翌日に控えていた歴史の試験勉強をしていた。例によって詞は勉強道具を持ち運ばないので、何もしていなかった。それでも彼女はそれなりの成績を保っていたから不思議だった。


「ね。あおいは雨、好き?」


 ひとつ前の席に腰掛けている詞が、沈黙の布をそっと裂くように囁いた。


「え? うーん……好きじゃない。なんか気持ちが落ち込むし」


 窓の外の仄暗い景色を見て私は答えた。詞も窓へ顔を向けて、ぽつりと言葉を零す。


「あたしは好き」


 その横顔がなんだか大人っぽくて、私はそれを崩したくなったからちょっとムキになって言った。


「そうなんだ、意外。私たち、雨だと走れないじゃん」


 詞は淡く笑って、


「走れないから、走ってるときにはできないことができるんだよ」


と言う。


「できないこと?」


 彼女は目を閉じた。


「しとしと降る雨の音や、水たまりをはねて進む遠くの車の音に耳を澄ませたり。糸みたいに落ちてくる雨の線を眺めたり、優しい霧雨を顔に受けて遊んだり。雨上がりで濃くなった植物の匂いをゆっくりかいだり」


 まぶたを開けた詞が頬を緩める。


「――こうやって、葵と静かに話したり」


 詞のひっそりとした声が、しんとした教室に浸み込んだ。

 それから彼女はぱっと顔を明るくして、


「それに雨、いつかは止むじゃん。で、晴れたねーって笑えるから」


 窓の外へ目を向けると、いつの間にか明るくなっていた。


「あ、雨止んだ」

「ほら、晴れた」


 嬉しそうに言う詞へ、私も唇を綻ばせて答える。


「晴れたね」



 校舎を出て駐輪場へ歩いていれば、確かに土の匂い、葉っぱの匂いが鮮やかに立ち昇っていた。胸に息を深く吸い込んでそれを味わうと、自然と笑みがこぼれた。

 赤いバイクのそばでいつものようにヘルメットを寄越してきながら、詞は思い出したように言った。


「あ、それに運がいいと、虹見えるじゃん!」

「あーうん。でも……私、虹ってちゃんと見たことないかも」

「うそ!?」


 大げさに目を丸くする詞へ逆に私が驚く。


「え、ふつうあるもの?」

「小学校の時とか、ホースで虹作らなかった?」

「うーんやったような気もするけど、そういう養殖ものじゃなくて天然の、野生の虹ってたぶん見たことない」

「まじか! じゃあ今から帰り道、葵は後ろで虹探して! あたしは運転に集中するけど。虹見つけたら教えてよ」


 雨上がりの道路を、詞はいつもよりずっとずっとゆっくり走った。湿度を含む風が私たちをしっとりと撫でていった。

 その日私は虹を見つけられなかったけど、雨の良さは、少しわかった。




 それから少しして、中間試験も無事終わって、秋の大会が近づいていた。このところ私は調子がよくて、走れば走るほど記録が伸びていたので、数日後の大会も期待できた。ただひとつ残念なのは、その日には詞のロードレースの大会も開催されることになっていたから、出会ってから初めて彼女の応援に行けないことだった。その代わり、「お互い自己ベストタイムを更新しよう」と詞に伝えておいた。

 入浴を終え、ベッドの上でストレッチをしつつ髪にドライヤーをかけていると、スマートフォンに詞からメッセージが届いた。


『今日めちゃくちゃでかい野生の虹見た!』


 続いて10秒ほどの短い動画。練習場のサーキットと思われる拓けた場所から、まだ少し雲の残る空を覆うように大きく、鮮やかな虹が曲線を描いていた。ドライヤーの風に吹かれながらその動画を見て、くすりとした。


『すごいね! 次は捕まえて私のところに見せに来て』



 週末の大会当日はカラリとよく晴れていて、でも日差しはきつくなく、走るにはうってつけの天気だった。こういう日、私はいいタイムを叩き出す。

 ほどよい緊張感に包まれながらスタート位置へ歩き出したとき、詞のことがふっと頭に浮かんだ。詞も、頑張ってるかな。雲ひとつない空を見上げて、ロードレース会場に鳴り響く何台ものバイクのエンジン音とガソリンのにおいを思い浮かべた。


 実際に、私のタイムは劇的に縮んだ。陸上部の仲間や、顧問にもすごく喜んでもらえた。

 興奮冷めやらぬまま、『自己新出た!』というメッセージを詞に送った。




 胸を弾ませて家に帰ると、顔面を蒼白にさせた父親が待っていて、詞がレース中の事故で亡くなった、と言った。




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