空に走る — 光が涙をこぼしたら —

東海林 春山


 あの子は速すぎて、天国にもらわれてしまった。

 命をガソリンにして、走って走って、燃やし尽くして、誰も追いつけない場所に行ってしまった。



∽ ∽ ∽ ∽


 ドルドルドルドル、というエンジン音が家の外に聞こえたのを合図に玄関を出ると、真っ赤な、どっしりとしたバイクにまたがる人がいる。フルフェイスのヘルメットの中からくぐもった声で、


「おはよう」


と、挨拶を投げてくるから、私もいつも通り応える。


「おはよ、つかさ


 ヘルメットの暗いシールドの中の表情は見えないけれど、きっと微笑んでいる。詞から別のヘルメットを受け取る。フルフェイスは髪がぺたんこになるからいやだって一度抗議したら、「だいじなあおいの顔を傷つけるわけにはいかないから」と困ったように笑うから、「なにその事故起こす前提。怖すぎ」と返したけど、「万一、万一」と詞は歌うように言って、結局そのあとも私はこのゴツいヘルメットを毎日被って登校している。

 学生鞄をバックパックみたいにして背負って、詞の肩を掴みマシンの後ろにまたがって、


「いいよ」


そのお腹に腕をしっかり回して声をかける。詞は頷き、ゆっくりとスロットルを開けて道を走り出した。何も怖さを感じさせない、すごくすごく丁寧な運転。

 制服を着た女子高生が二人、いかついバイクに乗って走る姿は珍しく、街ゆく人たちの視線を毎朝集めたから、最初の頃は恥ずかしかった。

 まさか彼女の後ろで自分がバイクに乗るなんて、出会った頃は思いもしなかったけれど、春から始まったこのタンデム通学に、私はもうすっかり慣れてしまった。



 詞と私が出会ったのは小学生の頃。

 バイク好きな私の父親が、ある日の休日、知り合いの娘さんが出場するから観に行こう、と私をバイクのレースに連れていった。「葵と同い年の女の子なんだよーすごいよなあ」と父がどれだけ興味を掻き立てようとしても、バイクなんて全然興味のなかった小学生女児の私は気乗りしなかったけど、いったんレースが始まると夢中になってしまった。

 広大な土地が一面茶色い土で覆われていて、急カーブや、きつい上り坂と下り坂、小高い山、人工的に作られた凹凸だらけの道とは言えない道、それらの悪路をうるさい音を立てながらたくさんのマシンが走っていく。

 砂埃と泥を跳ね上げ、わだちに車体を倒されまいと激しくハンドルを切りながら、ときには足で地面を蹴って進むバイクたちは、それまで車道で見たことのあるそれらとは全然違ったし、泥のシャワーでも浴びたように体の前面を真っ黒にしたライダーたちは、荒々しく粗暴に見えて、小学生の女の子が素直に憧れるものではなかったけれど、それでも私の目を奪うものがあった。


 バイクで空を飛ぶ、赤いウェアのゼッケン25番。


 ジュニアレースの選手たちのなかでも、ひときわ華奢な体の、バイクを操っているというよりバイクにしがみついているようにも見える子。

 小高い丘陵を走り抜けるときは、どのバイクも一瞬ふわりと宙を浮いたけど、その25番の選手が飛ぶときは、まるで魔法みたいに軽やかに、長く、空に浮かんだ。そのまま重力を無視して空を走っていってしまいそうだった。25番が飛ぶたびに、私の目は惹きつけられた。


 ビビビビと破れたような音を鳴らして跳ねたりこけたりしているマシンの群を見ているうち、どうやらレースはいつのまにか終わったらしい。私は父親へ尋ねた。


「誰が勝ったの?」

「……わからん」


 のちに"モトクロス"という競技だと知ることになるそれのルールを、私も父親も知らずに観ていた。


 レースが終わって、父親の馴染みのバイクショップの店長と落ち合った。どーもどーもと私の父親と声を交わし合う人のさそうなおじさんの隣に、泥だらけのウェアを着た子どもがいた。うちの父親がその子へ声をかける。


「いやーすごいね、つかさちゃん! 女の子でレースに出るなんて」


 父親の感心しきった声に、私は内心驚いた。全身汚れた格好にヘルメットを被っていて、それは私の思い浮かべる女の子像とはかけ離れていたから。そうか、この子が私と同い年の女の子なんだ。


「でも、結果はぼろぼろだったし」


 短く答える彼女はどこか大人びていた。尖ったひさしを持つヘルメットの隙間から覗く目元は切れ長で、どこか狐のようだった。

 じっと見つめる私の視線に気づいた彼女がヘルメットを脱ぐと、思っていたよりも長い髪がこぼれた。そして、彼女はふわりと目尻を柔らかくして私に笑いかけた。それは、あんな荒っぽいレースに出ていた女の子とは思えないような優雅な微笑みで、私はうまく笑い返せたか自信がなかった。

 どこかでご飯食べましょうか、と相談を始めて歩き出した父親たちに続いて、その子もきびすを返した。その背中を見た瞬間、私の口から、


「あ!」


と大きな声が出た。びっくりして振り向いたみんなの様子に口ごもったけれど、何事かと尋ねる三対の目に、しょうがなく"つかさちゃん"へ伝える。


「……つかさちゃん、すごかった。魔法みたいだった」


 言われた彼女はきょとんとして、それから困ったように微笑んだ。


「――いまさら?」

「だって……つかさちゃんがゼッケン25番って知らなかった」


 口を尖らせて言う私に、彼女は自身の胸を見下ろし、それから体をひねって、その泥で覆い隠された胴体とまだ数字の読める背中側を見比べて納得したようにくすりとした。


「確かに前から見てもわかんないね」




 それからは、私は詞の出るレースは必ず観戦に行ったし、詞も私の出る陸上大会へ応援に来てくれた。


「葵〜っ遅い!」


 自転車に乗った詞が、少し先で振り返って私を呼んでいる。私は昔から陸上競技の短距離走に打ち込んでいて、川沿いの長い土手道を体力づくりの練習場にしていた。

 出会ったときには大人びて見えたのが嘘みたいに、詞は案外と天真爛漫な――有り体に言うと、ばかっぽいところがあった。

 彼女へ追いついた先で両膝に手をつき、荒い息の隙間から異議申し立てをする。


「詞。そんな、全力で自転車漕いで、遅いも何も、ないから。こっちは、生身の、脚なの」

「甘いよ葵。あたしを捕まえる心意気で走らないと、葵のタイムは縮まらないよ!」


 差し出されたペットボトルの水を私はごくごくと飲み干してから、


「詞はただ二輪の乗り物に乗れてれば満足なんでしょ」


と二輪バカに笑いかけた。私の練習に付き合うためと言いつつも、私を置いて自転車で土手を爆走してばかりの詞は顔を綻ばせて、


「んーそうだね。二輪の乗り物に乗ってる私の背中を葵に見てもらってれば、満足かな」

「……なにそれ。いつでも私が詞を追いかけてばっかみたいじゃん」

「そうだっ。悔しかったら追い抜いてみろっ」


 そう言って詞はまたペダルをぐいぐいと漕ぎ出した。

 土手を流れる景色はいつでも優しかった。




 中学生になった頃、詞はモトクロスからロードレースへ転向した。野性味溢れる土の上を飛んだり跳ねたりしながら進むモトクロスに対して、ロードレースは舗装された平坦なサーキットの上を、ひたすらに速さを追求して走る競技だ。

「葵が競技場でヒュンヒュン走るところ見てたら、あたしも速く走りたいって思うようになった」という詞の言葉に、なんだか照れくさいような気持ちを抱いたけれど、ロードレーサーとしての詞を見た当初、私は懸念を覚えた。

 ものすごい速さでサーキット場を回るバイクたちは、何かに導かれるように無駄なくコースを滑っていく。急なカーブも、そのままマシンごと倒れてしまうんじゃないかというくらい体を思い切り倒して、内側の膝が擦り切れそうなほどにコーナーを切り込んでいく。

 モトクロスをやっていた頃、宙を舞い、つかのま時間を止めていた詞は、今や地面を滑るようにして目にも止まらぬ速さで駆け抜ける。詞は空でも地でも魔法を使えた。私は詞の新しい魔法に見惚れながらも、一方で、でもこれは、あまりにも速すぎる、と思った。あの速さを生きるには何かを犠牲にしないといけないんじゃないか、というひりつくような不安が私の胸を焼いた。

 けれど、怖いことなんて何もない、楽しいことだけ、といった詞の走る姿に、私の不安はしだいに消えていった。



 私と詞は同じ高校へ通う2年生になっていた。

 4月生まれの詞の17歳の誕生日を祝ってから数日と経っていない朝、そろそろ登校しようかなという頃合いに、家の外から鳴り響くものものしいエンジン音に表へ出てみたら、


「葵! 迎えに来たよ!」


と、フルカウルの鮮やかな赤いバイクに乗った制服姿の詞が言った。


「え……」

「今日が何の日か知ってる?」

「なに? 朝からクイズはだるい……」

「今日は私が免許取得して1周年の日だよ! すなわち、今日から公道を葵と一緒に走れる〜♪」


 シールドを開けたヘルメットの隙間から、ご機嫌な顔を見せて詞は言う。


「は?」

「さ、これで登校するよー。葵用のメットも買ったからね☆ 鞄取ってきな、葵!」

「え〜……もうなにそれ……」


 ノリノリになった詞を止める術はないことを知る私は、大人しく家へ戻って学生鞄とボトムス2本を取ってきた。


「詞、危ないからこれ履いて」


 私の部屋着となっている、中学時代のジャージの下を詞へ差し出す。詞の制服の短いスカートの下は、普通に生足だ。いくらオートバイに乗り慣れているとしても、その格好はあまりに舐めすぎだと思う。


「えーあたしこけないって。まじ安全運転第一主義」

「いいから。パンツ見えるし」

「パンツとかどうでもいいよー」

「よくない! 履け! ていうか私のパンツのことも考えろ」


 しぶしぶシートを降りて私の中学ジャージをスカートの下に履く彼女の横で、私も高校のジャージを履く。バイクに乗って公道を走る前に公道での生着替えを経験してしまった。


「ダサくない?」


 胡乱な目で詞は問うてくる。あずき色のジャージは彼女にとっては寸足らずで、ジャージの裾からハイソックスが盛大にお目見えしている。中学時代のものだとしても特に私は大きく成長していないし、詞は私とそんなに身長が変わらないはずなのに、これだけつんつるてんになっているのは、脚の長さに違いがあるというわけで。むかつく。しかもその妙な着こなしも、彼女にかかればどことなくキマってしまうのだ。むかつく。


「ダサくない、ダサくない。詞は……いつでも格好いいよ」


 ため息をつきながら、半ば自棄っぱちに、半ば本気で答えた。詞は目を細めてにっこりする。


「あ、そーお? ありがと♡ 葵はダッサ〜い♡」


 はーむかつく。

 そのあとは、運転中はどこに手をかけるべきだとか足を置くべきだとか、こういうときは気をつけてね、ということを意外なほど丁寧に教えてもらった。初めてのバイクに、少し緊張しながら発進に備えていたら、これもまた予想以上に彼女はとても慎重に、滑らかに道を走り出した。

 ゆっくりと走るバイクの上で感じる風は優しくて、バイクっていい乗り物だな、と私は思った。


 学校側へはバレないよう、高校の近くのどこかに駐車して校門は徒歩でくぐるのだろうと考えていたのに、詞はそのままバイクで正門を通った。もちろん先生たちは怒りに来たけど、生活指導担当のサトゴリ先生が昔同じモデルに乗っていたらしく、詞の愛車を懐かしむような目で見て、「まあ別にいいじゃない」ととりなしてくれた。詞は妙なところで運がいい。そしてそれを当たり前のように受け止めている。それから毎日私たちは大きな赤いバイクで登校した。

 ちなみにタンデム登校を始めて以来、学生鞄は荷物になると詞は言って、財布とケータイ以外の物を全部学校へ置きっ放しにしている。女子高生・詞の日常に、予習、復習、宿題というものは存在しない。


 詞は切れ長の瞳に、さらさらの髪と長い手足で、黙っていればはんなりとした男前だったので、女子にモテた。ときどき、赤いバイクのそばへ女の子たちがやって来て、「後ろ乗せてーっ」と詞に頼んでいたけど、彼女は申し訳なさそうに笑って、「ごめんね、ココ、葵専用の席なの」と断っていた。

 ――だから、私はダサい格好のうえ不必要に目立った登校を強いられていたけれど、満足だった。


 ただひとつ、イラっとするのは、同級生のたすくくんだった。彼は詞と同様、中学生の頃からロードレースをやっていて、同じ練習場で彼女と切磋琢磨する仲間だった。私には到底わからないロードレースやバイクに関する深い内容を、詞と楽しそうに屈託なく話しているのをよく見た。

 この日の朝も、教員用のバイク駐輪場へ堂々と車体を駐める詞をそばで待っていたら、生徒用の自転車駐輪場から出てきた佑くんが恨めしげに詞へ声をかけた。


「いーよなー、詞は。おれもバイク通学してえよ」


 にやりと詞は唇を歪め、赤く輝くバイクのタンクをぽんぽんと叩きながら、


「お金貯めて、佑もドゥカちゃん買えば? サトゴリ、このモデルには思い入れあるみたいだし甘い対応してくれんじゃん?」

「買えるかよ。あーあ、バイク屋の娘はずるいよな」

「ふふ」


 そう微笑む詞の横顔に、なにか特別変わった感情が浮かんでいないか、私はどうしてもじっと観察してしまう。

 これだけ長く一緒にいても、わからないものはわからなかった。ときどき詞はやっぱり大人びた瞳をしたし、口元に寂しげな陰を刻んだように見えた。


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