空に走る

一視信乃

『君と虹を…』

「あーもう、朝っぱらからくそあちぃぜ」

「だが、絶好のライブ日和びよりだ」


 前髪に赤いメッシュを入れた銀の髪というばつなカラーリングがよく似合う、日本人離れした整った顔立ち。

 バンから下りた青年は、強い日差しに目を細め、まだ色浅い空を見上げる。


〈ついにこの日が来たんだ──〉


 大都会の只中にある、野外音楽堂でのライブ。

 それは彼の夢であり、大事な友の夢でもあった。


「でも今日、雨降るっていってましたよね。大丈夫かなぁ」

「どーせ、にわか雨だろ。それも野外のだいだって。なぁ、あおい


 ゆるいクセのある青い髪に、くりっとした大きな目の美少年(といっても実際は、二十歳はたちを優に超えている)が、不安そうに呟くのを聞きとがめ、短く刈られた黒髪と鋭い眼光がワイルドな印象を与える強面こわもての青年(実際は、能天気なお調子者)が、銀髪の青年──葵に振った。

 葵は二人に視線を移し、にこやかに微笑む。


「そうだな。雨にも暑さにも、せみにも負けない、最高のライブにしよう」


〈だから、もしまだ、この世界をさ迷ってんなら、見に来てくれよな〉


 もう一度空をあおいでから、葵は彼らとゲートをくぐった。


        *


「グレート! ファンタスティック! ブラーボゥ!」


 あれは三年前、高二の昼休み。

 クラス内の空気にめず、ひとり屋上へ続く階段に腰掛け、スマホで音楽を聴いてた葵は、いきなり起こった拍手喝采かっさいに面食らって顔を上げた。

 見下ろした踊り場には、葵と同じ制服姿──白い半袖シャツにグレーのスラックスをはいたせぎすの少年がいて、細い目をより細くし、葵を見上げている。


「キミ、先月来た転校生だよね、C組の。ハーフで髪金パツキンのイケメンだってクラスの女子たちが騒いでた。えーと、アレサンダーくんっ」

「……アレサンダー葵。葵でいい」

「おお、名前まで美しい。あっ、僕はB組のつかさ。よろしくぅ」


 気さくにされた挨拶あいさつを葵は無言でスルーしたが、詞は全く臆することなく、尚も話しかけてくる。


「それより葵って、歌ウマイんだねぇ。高音がキレイで感動したよ」

「歌?」


 そこで葵はようやく気付いた。


「もしかして、俺、声に出して……」

「歌ってたよ。気持ちよさそうに」


〈やべぇ、またやらかした〉


 口元を押さえ白い頬を朱に染めた葵の元まで、一気に駆け上がってきた詞は、断りもなく隣に座り、身を乗り出して尋ねてくる。


「ねぇ、今日の放課後、ヒマ?」

「なんで?」

「ヒマなら、僕と付き合ってよ」

「は?」

「僕たち絶対、と思うんだ」

「合う?」

「僕らがになったら、と思う。だから、やろう。僕と一緒に」


 如何いかがわしさあふれるお誘いに葵が渋々応じたのは、散々しつこく付きまとわれた、二日後のこと。

 嬉々として連れて行かれた場所は、駅の近くのラブホ──の隣にあるカラオケボックスだった。


        *


「は? 路上ライブ?」

「そう。ギター片手に駅前でやってたら、音楽事務所の人に声かけられたんだ」


 カラオケ帰り、渇いたのどうるおそうと、立ち寄ったコンビニの店先で、詞はちょっと得意げにいった。


「スゲーじゃん」

「まあ、ほぼインディーズの小さいトコだけどね」


 ペットの緑茶を飲んでいた手が思わず止まった葵の横で、ペットのゆずれもんをあおり、彼は話を続ける。


「その人に、歌も上手いし、オリジナル曲も悪くないけど、デビューするには、ちょっと足りないなっていわれて──」


 本人がいうとおり、詞歌が上手かった。

 キツネ目のあっさりした顔からは想像も付かない、とびきり甘くとろけるような歌声で、特にバラードが素晴らしく、葵も思わず泣きそうになったほどだ。

 ちなみに彼がといったのは、この歌声のことであり、実際少しハスキーな葵の声との相性は良く、試しに歌ったデュエットも、


「──その足りないモノを、葵に補って欲しいんだけど」

「は?」

「まずは、ビジュアル。今が平安の世だったら、僕一人で日本中の女の子をメロメロに出来ると思うけど、さすがに平成じゃねぇ」

「いや、俺は……」

「知ってるよ。葵がその顔にコンプレックス持ってんの。それで色々こじらせて、未だクラスに馴染めてないのも」


 図星を刺され何もいえない葵に、詞はたたみかけるようにまくし立てる。


「でもそんなの、勝手にひがんでなんかいってくる方が悪いんだし、葵はフツーに堂々としてりゃあいいんだよ」

「いや、でも……」

「大丈夫だって。例え世界が敵になっても、僕は死ぬまで味方でいるし、それに、最高だったろう? 僕たちのハーモニー」

「それは……」


 確かに最高だと葵も思った。


「葵はさぁ、こんなとこでくすぶってちゃ勿体もったいない人だよ。その魅力、僕が必ず世に知らしめてやる。そうすりゃ味方も増えるから、だから、やろう、一緒に」

「……わぁったよ。一緒にやる。でも、俺がいるからって、デビュー出来るとは限らな──」

「出来るよ、絶対。だから全力で突っ走ってこう」


〈その自信、どっから来るんだ?〉


 葵はじっと詞を見つめる。

「じゃ、まずはユニット名決めないと」と、嬉しそうに笑う詞は、葵にはまるで太陽のようにまぶしくて、それでも目が離せなかった。


        *


「僕、野音でライブ、やりたいんだよねぇ」

「野音? 武道館でなく?」

「武道館も憧れるけど、やっぱ野音だよ。

 屋外だから、音が空に走ってく感じがいいし、それに子供の頃、母さんに連れられて、とあるアーティストのライブに行ったんだけど、途中でいきなり雨が降ってきてさ、最初うわって思ったけど、雨はすぐ止んで、そのあとでっかい虹が出たんだ。

 しかもちょうど、歌詞に虹が出てくる歌を歌ってたときで、なんかもうスゴい奇跡だって感動しちゃって。

 僕もいつか、そんな奇跡起こしてみたいなぁ」


 そんな詞の話から、ユニット名はとりあえず《虹のしずく》に決まった。

 詞の好きなゲームに出てくるアイテムの名前、だそうだ。

 名前が決まるとすぐに、二人は活動を開始した。

 といっても、ネット配信は葵が嫌がったため、放課後や休日に、駅前や公園で、詞の弾くギターに合わせ、彼の作った曲や既存の曲を、ただ歌っているだけだったが、それでも少しずつ足を止めてくれる人は増えていった。


「今日もお客さん、たくさん来てくれたなぁ」


 駅前でのライブの後、ギターを片付けながら、詞は満足げにうなる。


「一人のときとは全然違う。やっぱ葵様々だ」

「違うだろ──」


 葵の反論は、詞のせきさえぎられた。


「風邪か?」


 そう思って見ればなんとなく、顔色も少し冴えない気がする。


「さあ? 別に頭も喉も痛くないけど、もし風邪だったら移すと悪いから、今日は一人で帰るよ」


 ギターを背負った華奢きゃしゃな背中が、ラッシュアワーの雑踏ざっとうに消えても、葵はその場に居残っていた。

 デッキの縁にもたれかかり、明かりに浮かぶ謎のオブジェと、ビルに囲まれた暮れなずむ空を、ぼんやりと見上げる。


〈自分が、こんなこと始めるなんて、数ヶ月前には、全く想像つかなかったな。

 人前で歌うのが、あんな気持ちいいなんて──〉


 心地いい秋風に吹かれ、ライブのいんに浸っていると、スーツを着た若い男が葵に声をかけてきた。


「今日はお一人ですか?」


 物腰は柔らかいが、長い黒髪を一つにくくり、片耳にピアスをした姿は、とてもかたには見えない。

 いぶかる葵へ、男は溝口みぞぐちと名乗り、名刺を差し出してくる。

 そこには以前、詞に聞いた音楽事務所の名前があった。


「単刀直入に申し上げます。うちと契約しませんか?」

「えっ?」


〈これわひょっとして、デビューのお誘いってヤツでわ!?〉


 その実、激しくテンパりながらも、葵はなんとか言葉を選び、男に答える。


「そういったお話でしたら、俺ではなく詞──伊野尾の方へお願いします」

「そうおっしゃられましてもねぇ、私はお二人ではなく、あなたを誘っているんですよ。アレクサンダーさん」


 少し困った表情かおで、溝口はいった。


「デュオではなく、ソロでデビューしませんか?」


        *


「どーした? いつになく無口だけど、なんかあった?」


 昼休み。

 いつものように、二人の秘密の場所と勝手に思ってる、施錠された屋上ドアの前で弁当を広げていたとき、いちご牛乳を手にした詞に尋ねられ、葵はとっに「いや、別に何もっ」と首を横に振った。

 溝口にスカウトされた翌日のことだ。

 勿論、彼には断った。

 デビューするなら、詞も一緒じゃなきゃイヤだと。

 だったら別に隠す必要なかったんじゃないのかと、後ろめたさを覚えながら、「そういう詞は風邪大丈夫なのか?」と話題を変える。


「大丈夫。ちゃんと川崎大師のせき止め飴持ってきたし。める?」

「いらない」

「えーっ、美味うまいのに」


 甘党の詞と違い、甘いものが苦手な葵は、パックの緑茶をすすりながら考える。


〈溝口さん、また来るとかいってたけど、詞が一緒んとき同じこといわれたら、どうしよう?

 詞、なんていうだろ? 怒るかな?〉


「あっ、そうだ。僕しばらく用があって、一緒にライブ出来そうにないんだ」

「えっ?」

「ゴメンなぁ、僕が誘ったのに。別に葵が一人でやってくれても全然構わないんだけど」

「いや、いいよ別にっ。詞が出来るようになるまで待つから」


 すまなそうにいう詞へ、内心少しホッとしながら、葵はそう答えた。


        *


「溝口さんっ? どうして?」


 数日後、朝からの曇天どんてんを気にしつつ一人で下校していた葵は、校門前に見覚えのある顔を見つけて驚いた。


「最近ライブやってないみたいだし、伊野尾くんから、この学校だって聞いてたから。それより、この間の話、考え直して貰えないかな?」

「困ります、こんなところで」


 相変わらずさん臭いスーツ姿の溝口と一緒のところを、誰かに見られでもしたら、なんと思われることか。

 人目を気にし、落ち着きなく辺りを見回していた葵の目が、ある一点で止まり、大きく見開かれる。


「詞っ……」


 視線の先には、詞がいた。

 ロッカーに靴がなかったから、帰ったとばかり思っていたのに。

 詞は葵を一瞥いちべつし、溝口に挨拶をする。


「こんにちは、溝口さん。今日はなんです? 葵のスカウトですか?」

「ああ。でも、大丈夫かい? 随分ずいぶん痩せたみたいだけど、体調が──」

「大丈夫ですっ。それじゃあ、雨も降りそうですし、僕はこれで」


 強引に話を切り上げ、しゃくして歩き出した詞の後を、葵も慌てて追いかける。


「待って、詞。今のは、そのっ……」

「スカウトされたんだろう? やっぱスゴいな葵は」


 足を止めて振り返った詞は、拍子抜けするくらいあっさりといった。

 いつもと変わらぬ屈託のない顔つきで、別段怒ってるようには見えない。


「スゴいのは詞の方だろっ。詞がいなかったら、俺なんて──」

「それはどうもありがとう。で、葵はどうするの?」


 詞の問いに、葵は即答した。


「断ったよ、勿論」

「なんで? 勿体ない」

「だって、詞が一緒じゃねーと」

「そりゃねぇ、出来ることなら僕だって、葵と一緒に歌いたいよ。でも、ダメなものはダメなんだから、しょうがないだろう?」


 だだっ子に言い聞かせるように、詞は穏やかに言葉をつむぐ。

 その瞳に、らしくない諦めの色を感じ、葵は思わず声を荒げた。


「しょうがないってなんだよっ! 別に溝口さんとこじゃなくたって、他で一緒にデビュー目指せば──」

「ダメなんだよっ」


 詞も声を荒げたが、それにはどこか覇気がない。


「僕にはもう、無理なんだ……」


 笑顔が消えた青白い頬に、つーっと一粒、しずくが流れる。

 驚く葵の頭にもポツンと滴が落ちてきて、あっと思ったときにはもう激しい雨が降り出していた。


        *


 翌日の昼、詞は例の秘密の場所へ来なかった。

 次の日も、また次の日も──。


〈やっぱ怒ってんのか?

 それとも、どしゃ降りの中、傘も差さずに帰ってったから、風邪がぶり返したとか……〉


 気になった葵はB組を訪ねたが、詞の姿はどこにも見えない。

 少し迷ってから、戸口付近にいた女子二人に声をかける。

 女子を選んだのは、その方が親切にしてくれるという、詞の入れ知恵からだ。


「あのっ、つ……伊野尾くん、いるかな?」


 二人は驚きの表情で葵を見返したあと、すぐ席を離れ、教室にいた男子に何か聞いて戻ってきた。


「伊野尾くんは一昨日からお休みです」

「肺炎で入院したってさ」

「入院っ?」


〈やっぱあのとき、濡れたから……〉


 動揺する葵へ、一人の女子がおずおずと話しかけてくる。


「あのっ、アレクサンダーくん。ライブ聴きました。すごく良かったです」

「えっ、ああ、ありがとう」


 葵がなんとか笑みを作ると、もう一人の女子も、「わたしも聴いたっ」と話に割り込んできた。


「伊野尾って、教室じゃほぼ空気なクセに、歌上手くてマジ驚いたわ」

「えっ?」

「でもあの人、一年の頃からライブとかしてたんでしょう? それで先輩たちに生意気だって殴られて、骨折して入院してたじゃない」

「えーっ、それアイツの話だったの?」

「伊野尾くんだよ。あたし同じクラスだったもん。もともと大人しい感じの人だったけど、あれからますます人付き合い悪くなって、学校もしょっちゅう休むようになったんだよ」

「へぇ。あのくらにそんな壮絶な過去が……」


 いつの間にか葵を無視して話し始めた二人へ、彼は再び「あのっ」と口を差し挟む。


「俺にも教えてくれないか、詞のこと」


 いつも一人で誰ともしゃべらず、この世の終わりみたいな顔した人。

 二人が語った詞の姿は、これまで葵が見てきたものと大分違っていた。

 真逆といってもいいくらいに。


〈いつもニコニコしてて図々しいくらい人懐っこいから、クラスの人気者かと思っていたのに、それじゃあ俺と大して変わらないじゃないか……〉


 詞が隠していたものを、こっそりあばいてしまったようで、少し気がとがめたが、それでも見舞いに行きたいと、今度はB組の担任を訪ねる。

 しかし、今は面会謝絶だと、病院の名前すら教えて貰えず、ヤキモキ過ごした数日後、葵にもたらされたのは、詞のほうだった。


        *


 あれから何日経ったのか、葵にもよくわからない。

 死を認めるのが怖くって、通夜も葬儀も行かなかった。

 だから時折錯覚する。

 ホントはまだ生きてんじゃないかって。

 そんな甘い夢だけを、ずっと見続けていたいから、葵は学校へも行かず、泣くことも忘れ、だらだら自室に引きこもっていた。


「葵っ! ねぇ、葵ってばっ!」


 部屋のドアを叩く音に、葵は伏せてた顔を上げた。

 体育座りの姿勢から、もう飯かと立ち上がり、細くドアを開ける。

 行動に干渉しない代わり、食事だけはきちんと摂るよう約束させられたのだ。


「メシは?」


 その言葉に、廊下にいた姉のおうは苦笑いを浮かべた。


「もう九時よ。ディナーはさっき食べたでしょ。それよりこれ。荷物来たわよ」

「荷物?」


 宅急便のラベルが貼られた小さな段ボール箱を受け取り、再び部屋にこもった葵は、ぼんやりした頭で差出人の名前を見る。


〈伊野尾 詞っ!〉


 はっと息を飲み、それから慌てて箱を開けると、中にはかんしょう材にくるまれた何か──CDケースに入ったCD-Rだけが入っていた。

 詞が自作の曲を入れるのに使ってたのと同じものだ。

 円盤の表には黒いマジックで『葵へ』と走り書きされている。


〈なんで、これが今頃俺に? まさかホントに生きてるとか?〉


 葵は急いでMacを立ち上げ、CD-Rを突っ込んだ。

 入っていたのは三分ちょっとの音声データ。

 曲でも送ってきたのかと再生すると、馴染みのある明るい声が聞こえてきた。


「ヤア、葵。元気ぃ?

 僕はまあ、元気じゃないけど、葵がコレ聞いてる頃には、全部終わって楽になってるから気にしないで」


 そこで一端、一時停止する。

 これはきっと詞から自分へのメッセージ、遺言だ。

 これを聞いてしまったら、詞の死を認めなければいけなくなる。

 葵は怖れ、迷い、一時停止を解除した。

 聞きたい欲求にあらがえなかった。


「もう知ってるだろうけど、僕は病魔にむしばまれている。

 骨折したとき気が付いて、あれこれ治療してきたけど、なんか全然ダメみたいで、とうとう余命宣告された。

 葵と会った前日のことだ。

 それでもうヤケになって、どうせ死ぬなら、とっとと死んでやろうと思った。

 思いっきり派手に、学校の屋上から飛び降りてやろうって。

 それで屋上へ向かう途中、たまたま葵と会って、その歌声を聞いて、僕は自分の使命を悟った。

 いや違う、思い出したんだよ。


 僕と葵は、遥か昔に、あるいは遠い未来でめぐり合い、深い絆で結ばれた。

 でもそれは、許されないことだった。

 それで僕は、様々な世界の様々な種族に、時には男に、時には女として生まれ変わり、やはり同じ世界に、なんらかの役割を持って生まれてきた葵と出会い、葵がそれを全う出来るよう正しく導く定めを負った。

 それで僕は死ぬ──その世界での務めを終えることになるけれど、このりんを繰り返していけば、いつか許され、望んだ世界でずっと一緒に生きられるようになる。


 それで僕は出来うる限り、葵の手助けをしようと決めた。

 今の葵の役割は、歌で人を幸せにすることで、葵が諦めてしまったら、僕は次に進めない。

 魂のまま、この世界をさ迷い続け、やがて消えてしまうだろう。


 葵にはいろいろ隠し事してきたし、たくさん嘘もついてきたから、信じて貰えないかもしれないけど、全部本当のことなんだ。

 だから、葵、歌ってくれ。

 僕を救うためにも、どうか──」


 そこから先は無音だった。

 わずか二分に満たない荒唐こうとうけいなメッセージ。

 途中から震えて聞こえた声は、緊張のためか、それとも笑いを堪えていたのか。


〈マンガ好きな詞らしい変な話だったけど、落ち込んでる俺を笑わせようとか思ったんなら、完全にムダだったな〉


 葵はCDを止めようと手を伸ばす。

 そのとき、ずずっと鼻を啜るような音がかすかに聞こえた。 

 慌ててボリュームを最大にすると、すすり上げる息遣いに混じり、小さな呟きが落ちてくる。


「……ヤだ……まだ死にたくない……もっと歌っ……葵っ」


 その後ぷつっと音がして、再生は終わった。

 だが、閉ざされた部屋にはまだ、噦り泣く声が続いている。

 いつの間にか葵の目からも、大粒の涙が溢れていた。

 鼻水も一緒に流れてきて、キレイな顔がぐちゃぐちゃになったが、そんなこと一切気にせずに、葵は泣いた。

 泣きじゃくった。


〈ゴメンな、詞。ちゃんとお別れ出来なくてゴメン。あんなケンカみたいな最後だったのに、まだ俺を気遣ってくれるなんて……〉


 やがてえつが治まると、上着のポケットに突っ込んだままになっていた、端の折れた名刺を取り出し、そこにあったナンバーに電話をかける。

 あとから考えると少し非常識な時間帯だったけれど、相手はワンコールで出てくれた。


「はい、溝口です」


 に触れる優しい声にも勇気を貰い、葵は意を決し口を開く。


「アレクサンダーです。以前頂いたお話、まだ有効ですか?」


        *


 それから約半年後、葵はデビューした。

 ソロでというのは、さすがにちょっと無理だったので、三人組音楽ユニット《空に走る》の一員として。

 個性豊かな魅力溢れるビジュアルと高い歌唱力を持つ彼らの楽曲は、少しずつ世に浸透してゆき、結成二年目となるこの夏、ついに野外音楽堂でのライブ開催が決定した。


 そして、ライブ当日。

 疾走感溢れるサウンドに乗って、三人のエモーショナルな歌声と熱狂的な歓声が、木々とビルとに囲まれた夏の空に響き渡る。

 ねんされた天気の崩れも今のところなさそうで、夕立があれば虹が出るかもと密かに期待していた葵は、少々ガッカリしていた。

 だが、そんな様子はおくびにも出さず、仲間と全力のパフォーマンスで会場を盛り上げる。

 灼熱の太陽に負けじと、高まっていくボルテージ。

 場の空気に呑まれ過ぎないよう気を付けながら、葵は一人MCのため、数歩前に出た。

 日本語が苦手(だと思われているが、実際はただ口下手なだけ)で、トークはメンバー任せな葵らしからぬ行動に、観客の視線が一斉に集まる。


〈大丈夫。ここにいるのはじゃない。詞が作ってくれただ〉


 それでも、見透しのいい屋外で、これだけ多くの注目を浴びれば、今でも少しひるみそうになる。

 そんな葵の背を押すように、いきなり強い風が吹いたかと思うと、遠くで空が低く唸り、細かい水滴がパラパラ降りかかってきた。

 小さなどよめきが起こる中、驚き見上げた都会の空は相も変わらず真っ青で、白く輝く綿雲が、気持ち良さげに流されていく。

 きらきらと音もなく降る優しい雨は、あの雲からこぼれてきたのか、それとも近くで降ってるものが風に流され運ばれたのか。

 仕事を忘れ見入る葵へ、メンバーが後ろから茶々を入れる。


「オイオイ。葵が慣れないことしようとすっから、雨降ってきやがったぜ」

「まさに青天の霹靂へきれきですもんねぇ」


 どっと起こった笑いで我に返った葵は、自分の務めを思い出し、観客席と向き合った。


「皆さん、本日はお越しいただき、ありがとうございます」

「堅いぞ、リーダー」

「リラックスリラックス」


 再び入ったツッコミに、会場はまた笑いに包まれ、葵を応援する声もあちこちから聞こえてくる。

 エールと雨粒を一身に浴び、葵の顔も自然とほころぶ。


 この心地よいお湿りは、詞のサプライズなのかもしれない。

 これから起こる現象のための下準備。

 そして、その合図なのかも。


〈だって、いってたもんな。こんな奇跡って〉 


「声援ありがとう。

 次の曲は俺が初めて作詞した曲で、大事な友のことを思って書きました。

 彼と出会わなければ、俺は今ここにいなかっただろうし、皆さんと会うことも、なかったと思います。

 彼には本当に、どれだけ感謝してもしたりません。ありがとう。

 そんな想いも込めて、精一杯歌いたいと思います。聴いて下さい。

『君と虹を…』」


 いつしか雨は止んでいた。

 メロディアスなイントロが流れ、わぁっと短く歓声が上がる。

 泣けると評判の、ストレートなバラード。

 ソロをになう葵の声が、空に高らかに響くとき、歌詞を具現化したかのように、大きな虹が現れた。

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空に走る 一視信乃 @prunelle

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