嘘と小説

五月 病

嘘と小説


「小説家はいつだって最上級の嘘吐きでなくてはならない」


 その言葉を言ったのは俺が十一歳の年に自殺した叔父さんだった。

 叔父さんは少しだけ名の売れた小説家だったらしい。らしいと言うのは、俺が知っているのは、六畳一間のぼろい安アパートで毎日パソコンと睨めっこして物語を創っていたあの姿だけだからだ。

 正直、小さい頃のことなので、俺はあまり覚えていない。だが、その言葉だけはしっかりと胸に刻み込まれていた。

 

 小学生の時、週に一回の習い事にいく帰り道で叔父さんの家によることが俺の楽しみだった。苔の生えた手すりを辿って鉄板の階段を上っていく。幼い俺にはそんなことですら大冒険の様に思えていた。

 やっとのことで階段を登り終えると、俺は全力で、玄関前で短くなった煙草を咥えて待っていてくれた叔父さんの元まで走っていった。すると叔父さんは、

 

「坊主、また来たのか、こりねーやつだな」


 とボサボサの髭を掻いて笑うのだった。

 その後、決まって叔父さんは部屋の中に招いてくれて俺に二、三個の菓子を持たせてパソコンの前で睨めっこをしていた。

 その間は何も喋ってはくれなかった。俺も不思議と喋ろうとは思わなかった。

 テレビも扇風機もクーラーもない決して快適とは言えない部屋だった。

 ただ叔父さんが俺にその大きな背を向けて座り込み、時折、カタカタと文字盤を叩く音だけが残響する。それだけで、俺はその環境を心地よいものだと思えていた。


 だいたい一時間ほどすると叔父さんは椅子から立ち上がり俺を帰らせようとさせる。

 毎回毎回俺はそれを拒むのだが、叔父さんは「また来週な」と駄々をこねる俺を優しく諭してくれた。たまにテストの成績が悪かったり友達と喧嘩したときなんかは、それだけでなく叔父さんに家の近くまで一緒に歩いて帰ってもらう時もあった。


 その時、叔父さんはいつも困った顔する。

 そして、その帰り道では必ず叔父さんの小説の話をしてくれた。


 今だから分かるが、叔父さんが聞かせてくれていたのはライトノベルと言うジャンルの当時では新しい分野のファンタジーだった。

 その中に出てくる人たちは魔法や剣で竜を倒したり、魔王を倒したりしていた。名前こそヘンテコに感じたけど、そのどれもが新鮮で、子供心に憧れを抱いていた。


 なにより、叔父さんの話の中では、その人たちはみんな、生きていた。


「なぁ、ライトノベルって、なんでライトノベルって言うか知ってるか」

「しらなーい」

lieライ、つまり嘘と述べるから、ライトノベルって言うんだ」

「どういうこと?」

「はは、坊主にゃあ、まだ分かんねーか」


 そんな風なくだらない冗談を言ってくれることもあった。

 難しい言葉もあったし、分からない話もあったけど、その話をしている時の叔父さんは本当にかっこいいと感じていた。

 もう忘れてしまった話もほとんどだ、それでも、やっぱり覚えているのがあの言葉だった。


「小説家はいつだって最上級の嘘吐きでなくてはならない」


 

――×――×――×――×――×――



 今日、叔父さんの七回忌が終わった。


 叔父さんと父さんは二人兄弟だったため、爺ちゃんと婆ちゃん、それに俺たちの家族三人だけが実家の田舎に集まるちっぽけな弔いだった。


 叔父さんの言葉は、十七になった今でも消えずに残っている。


 あれから六年が過ぎた。叔父さんが亡くなってからしばらくは叔父さんの話からは遠ざけられてきたが、もう色々とかみ砕いて理解できるようにもなっていた。


 叔父さんはずっと昔に家族の反対を押し切って小説家の道に進んだらしい。その時に爺ちゃんとは大喧嘩したそうで、小説家という職業を爺ちゃんは未だによくは思っていない。今も爺ちゃんは、縁側で父さんと晩酌を交わしながら、叔父さんの悪口ばかりを言っている。

 婆ちゃんは叔父さんのことを責めたりはしないが、内心どう思っているのだろうか。母さんと炊事場で夕飯の片づけをしているその背中はどこか寂しそうに見える。


 月色のランプだけが光る蚊帳の中で、俺は自分の携帯を再度握りしめて、立ち上がる。

 夏なのに踏みしめた畳が嫌に冷たい。

 喧しく鳴く鈴虫の声を聴きながら、俺は縁側の二人の背の前に立つ。

 あ、と掠れ声を出すのすら鈴虫が掻き消してくれるのではないかと願ってしまう。

 それでも、俺は言わなければならなかった。


「父さん、爺ちゃん。話したいことがあるんだけど、いいかな」

「なんじゃい、座って言ってみんしゃい」


 浅い呼吸を整えて、言う。


「多分、爺ちゃんにも父さんにも、いい話じゃないと思う」


 爺ちゃんは団扇を扇ぐ手を止めて、揶揄うように静かに笑った。


「そりゃあ、ヤじゃなぁ」

「父さんも、同じだな」


「ごめん」


 それだけ言って暫く沈黙が続く。声を出すには、まだ少しだけ勇気が足りない。

 携帯を持つ右手が馬鹿みたいに震える。

 胸の奥から湧き上がってくる恐怖を堪え、その震えを左手でぐっと握りしめる。


「二人に、見てほしいものがあるんだ」


 一呼吸おいて、何も言わず手を差し出してくれた父さんに、携帯を渡す。

 父さんはその画面を見て一瞬驚いた顔をした後、静かに目を瞑り「そうか」と言った。


 そして、そのまま爺ちゃんに携帯を渡す。


「爺ちゃん、見える?」


 苦し紛れの言葉だけが、先に出た。何か重りをつけられた様に自然と視線が下がる。

 見えて欲しい。だけど、見えて欲しくない。


「年ぃ取ると、見たくないものも見える――ちゃんと、見えとるわい」


 皺だらけの顔をよりくしゃくしゃにして、爺ちゃんは、確かに呟いた。

 そこから先は、また静寂が続いた。

 携帯を俺に返した爺ちゃんは父さんに酒瓶を注がさせて、夜空を眺めていた。


 俺は忌々しくも役目を終えた携帯を見る。


 そこに書かれているのは無機質な一通のメールの文面。


 それは、とある有名出版社が主催するコンテストの受賞を通知するものだった。




「将来、何になりたいんだ」


 言葉を切り出したのは父さんだった。

 しかし、その言葉を告げることで、きっと二人は悲しむことになる。それが今更になって怖くなってしまった。

 その先は、考えたくはない。


 覚悟はしていたつもりだった。だけど、つもりなだけだった。


「自分の言葉で、ちゃんといんしゃい。それが自分が選んだ道じゃろおが」


 真っすぐ、遠くを見て、爺ちゃんは言った。


 その横顔が、どこか叔父さんの横顔に重なって見えた。親子なのだから当たり前なのかも知れないけれど、その力強く、それでいて優しい声音は、確かに俺の背を押してくれた。


「爺ちゃん、父さん、ごめん。俺――小説家になっても、いいかな」


 爺ちゃんはフンと鼻息を鳴らして空を見上げた。


 その瞳がどこか潤んでいるように見えて、俺は、少しだけ逃げ出したくなる。

 そのまま縋るように父さんの方を見るが、父さんは目が合うといつもの様に大らかに口角を上げ、空を指さした。

 おいかけるように俺は爺ちゃんの視線の先を眺めて、息を呑む。


 そこには夜を割く天の川が見えた。


 漆黒の中で、何千、何万、何億もの星が輝き、列を為して空を覆いつくす。

 都会じゃ見たことがなかった幻想的な夜。

 不意に流れ星が夜を駆けた気がした。


「お前は。アイツのことを気に入っとったから、なんじゃそんなこともあるかもしれんと思っとった」


「――うん」


「物書きは、嘘吐きじゃなきゃいかんなんてアイツはいよったが、ワシゃ、よお分からん。それに、わしは嘘が好かん」


「――うん」


「でもな、アイツは言うとった、」



 ――小説の中に出てくるものは全部虚構でしかない。

         ――物語も、人間も、草も、鳥も、星でさえも

     ――全部作り物の、嘘だ


 ――だからこそ、小説家は、その一文、一節、一文字に至るまで

                 ――なによりも繊細に

        ――誰よりも正直に


 ――自分にとって唯一本物の真実うそ

                ――そのしんじつを、描かなければならない


 ――だから、小説家は最上級の嘘吐きなんだ。



 あの夕暮れの帰り道で、手をつないだ俺に叔父さんが言ってくれたことを、爺ちゃんは祈るように呟いた。


「世の中にゃあ、この星みたい、山ほどの本がある。そんで、その中にゃあ、本物じゃあ無くても売れる本がある。人に読んでもらうためにゃあ売れないかん、でも今の時代にゃあ売れるもん書くには本物はいらんのかもしれん、こんな老いぼれにゃあ、まるでわかりゃあせんが、そういうてアイツはニセモンの小説家に負けてしもうた」


 きっと、爺ちゃんの中には、叔父さんへの思いが残っているのかもしれない。そしてそれは、少なからず俺の中にも存在する。

 だがそれは、後悔とはまるで違う、憧れや希望、夢みたいなものばかりだった。それは日々膨れ上がれ、いつしか抑え切れないまでに、自分も嘘を描きたいと、そう願った。


「爺ちゃん、ごめん、でも、俺は、小説家に、なりたい」


 爪痕が食い込むほど拳を固く握りしめて、俺は言った。

 けれど、その言葉は届いているか分からないほど弱く、儚いものだった。

 それでも爺ちゃんは小さく頷いてくれた。


「――――なら、しゃーないんと、ちゃうんか」


 永い長い間の後に、それだけを伝えてくれた。

 父さんは、何も言わなかった。だけど、ただ微笑んで、頷いてくれた。


「ごめんなさい、ごめん、な、さい」


 溜まらずに零れだした涙が視界を遮っていく。言葉が、知らずに出ていく。

 ずっと隠していて、嘘を吐き続けていた罪悪感よりも認められた喜びの感情が何百倍も大きい。ずっと、ずっとあの星空に負けないくらいに。


「男が、めそめそするじゃねぇ、ほれ、食べんしゃい」


 トン、と爺ちゃんが俺の背を叩き、晩酌のつまみのスイカを差し出す。


「じーちゃんちでとれたもんじゃ、うまいけん、くってみんしゃい」


 赤く、黒い種が弧を描くスイカ。叔父さんも昔この縁側でスイカを食べたのだろうか。蚊取り線香の煙が夜に消えていく。騒がしく鳴いていた鈴虫の声も次第に収まっていた。星は変わらずに綺麗だ。

 かぶりついたあのスイカの味は今まで食べたどんなものよりもしょっぱくて、甘くて、優しい味がした。 


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