第31話
わたしが夢の世界の住人になってから、既に三十年近くが経過した。
幸いなことに、この三十年間、悪夢には一度も襲われていない。きっと陽斗くんが身を張って、わたしを浅村さんから守ってくれたお陰だと思う。
陽斗くんには感謝してもしきれない。
でも……
悪夢では無いとは言え、やっぱり夢の中で一人ぼっちなのは寂しかった。周囲は真っ暗で、バイオリンの練習くらいしかやることがない。
だから、色々な人にお見舞いしてもらえるのは本当に嬉しかった。
長い間、こうやって一人でいると、五感が研ぎ澄まされるらしい。わたしは現実世界の様子が、少しずつ感じ取れるようになっていた。
最初は誰かがお見舞いに来ているという事実しか分からなかったけれど、一、二年で、お見舞いに来てくれた人が誰なのか判別できるようになった。
皆がわたしの手を握る。すると、夢の中のわたしの手も温かくなる。
わたしは、この感触が大好きだ。わたしは一人じゃないってことが実感できるから。
でも、誰か判別出来るようになったことで、心配事も一つ生まれた。
陽斗くんがお見舞いに来てくれないのだ。
やっぱり……
わたしは自分の予感が当たってしまったことにため息をつく。
きっと陽斗くんは、以前のわたしのように全てが嫌になってしまったのだろう。心が空っぽになって、何もする気が起きなくて……。
お見舞いに来た千春ちゃんも、色々と苦悩していることが手を通して伝わってきた。
陽斗くん、千春ちゃん、お父さん、お母さん、奏汰、皆、ごめんなさい。
わたしは何度も何度も謝った。
皆を置いてけぼりにして、わたしだけ夢の世界に閉じこもって、それで迷惑をかけて……。
無力な自分が嫌になってくる。わたしがいくら暴れても、現実世界には何の影響も及ぼせないのだから……。
どうかお願い……陽斗くん、立ち上がって!
わたしは祈った。
そして、その祈りは通じた。
夢に閉じこもって四年と少しが経過した頃、ようやく陽斗くんがお見舞いに来てくれるようになる。
陽斗くんは、これまでお見舞いに来てくれた誰よりもキラキラと輝いていた。
きっと自分の力で、悩みを乗り越えたのだと思う。
もしかしたら、わたしが奏汰に託した動画が助けになったのかもしれない。
あの時、自分の勘を信じて動画を撮影しておいて良かったと強く思う。やっぱりわたしの勘はよく当たる。
その日以来、陽斗くんはこれまでお見舞いに来なかった分を巻き返すように、頻繁にわたしのもとを訪れた。
陽斗くんの輝きは時間が経つにつれて、ますます激しくなってゆく。
色々なことに全力で取り組んでいることが、はっきりと感じられた。
出会った時から陽斗くんは素敵な人だったけれど、もっともっと素敵になっていることが、肌を通して伝わってくる。
あぁ……出来ることなら、そんな陽斗くんの姿を直接見てみたい。
わたしは、叶うはずのない願いを胸に抱く。
それから更に長い時間が経過した、ある日。
その日も、陽斗くんはわたしのお見舞いに来てくれた。
陽斗くんに頭を撫でられると、頭が心地いい。
陽斗くんに手を握られると、心がポカポカする。
思わずわたしも彼の手を握り返そうとするけれど、うまく力が入らない。それでも尚、試行錯誤を繰り返していたその時……
これまで真っ暗だったわたしの視界に一筋の光が差した。
その白の直線は、蜘蛛の糸と同じ位、細い。
ちょっとしたことで消えて無くなってしまいそうなくらい、細くて頼りなかった。けれど確かに存在していた。
何?
初めてのことに、わたしは驚く。
けれど、その現象は、それだけでは留まらなかった。
その日以来、陽斗くんがわたしのお見舞いに来てくれる度に、光の筋が一本ずつ増えてゆくのだ。まるで紙コップに針で一つずつ穴を開けて、プラネタリウムを手作りする時のように。
真っ暗だった周囲が、ほんの少しだけ見えるようになる。
そしてある日、気がついた。バイオリンとわたししか存在しないと思っていたこの世界に、それ以外のものがあることに。
それは何の変哲もない木製の扉だった。取っ手の部分だけは金属製。おそらく、取っ手を押し下げてから体重を預ければ開くタイプの扉だ。
どうしてこんなものがあるの?
疑問に思いながらも、わたしはその扉に向かってゆらゆらと歩みをすすめる。距離は、およそ十メートル。本当にすぐ近くに、その扉は存在した。
それなのに……
おかしい。
いくら歩いても歩いても、わたしと扉の距離は変わらない。
もどかしくなったわたしは思わず駆け出す。しかし、それでも扉が近づく気配はなかった。
まるで磁石のS極とS極、N極とN極どうしのように、わたしが近づこうとしても反発しあう。
むしろ、その距離は離れているような気さえする。
どうして!
わたしは心の中で大きく叫ぶ。
きっと、あの扉の向こうには今までと違う世界が広がっている。そんな気がした。
それがどんな世界なのかは分からない。もしかしたら、この夢の世界の出口なのかもしれない。
もしもそうなら、わたしは向こう側へ行きたい。
だから、扉の取っ手に手をかけようと、わたしは何百回、何千回、何万回と挑戦を重ねる。
しかし……それでもダメだった。
遂にその挑戦回数が七桁に達しようとした頃、わたしは気づいた。
もしかして……
この扉は、神様のわたしに対するいたずらなのではないか。
決してたどり着けない扉に向かって突進を繰り返すわたしを見て、神様は、ほくそ笑んでるのではないか。
そんな考えが浮かんだ途端、わたしは体が楽になるのを感じた。
もうこれ以上、挑戦する必要が無いことが分かったからだ。
よく考えてみれば、わたしが夢の中に閉じ込められ続けることは決定事項なのだ。だって、わたしの勘が外れたことは一度もないのだから。
現実世界最後の日となったあの日のわたしの勘によれば、わたしはこのまま一生夢に閉じ込められて出られない。だから、こうしてあがいても意味はない。
わたしは、その場に体育座りする。そのままじっと前を見つめていると、徐々に扉の姿が薄くなっていることに気づいた。わたしの足掻(あが)く姿が見られなくなったから、神様もいたずらを辞めたのだろう。
そして扉が完全に消滅しかけたその時……。
……!
わたしは陽斗くんの気配を感じた。今日もお見舞いに来てくれたみたいだ。
右手から陽斗くんの体温が、きらめきが伝わってくる。わたしの右手まで薄っすら輝く。
あれっ……?
わたしは、その右手を見て思う。
何やってんだろう……わたし。
そんなことを考えている間にも、陽斗くんのきらめきは次々と流れ込んでくる。日々頑張っていることが手にとるようにわかる。
それに対して、わたしはどうだろう?
わたしは……今まさに挑戦を諦めて、全てを投げ出した所だった。こうして体育座りをしながら小さく縮こまっている。
陽斗くんは毎日、前に向かって進み続けているというのに。
陽斗くんみたいに輝きたいんじゃなかったの?
わたしは自分に問いかける。
答えはもちろんイエスだ。
そのことを意識した途端、わたしは耐え難い焦燥を感じた。
恥ずかしい。
陽斗くんには前に進むよう言っておきながら、自分はこうして停滞し続けているのだから。
いますべきことは、こうして体育座りをすることではない。
立ち上がらないと!
そう決意した瞬間に、陽斗くんは握っていた手を離してしまった。
ついさっきまで、わたしの右手にほのかに宿っていた光も消えてしまう。
今日のお見舞いは、これで終了なのだろうか。
いや、違う。
まだ彼の気配を近くに感じる。
きっと病室には残っているのだろう。
でもこのままだと、また一週間以上、陽斗くんと触れ合えなくなってしまう。
それは嫌だ。
わたしはもっと、陽斗くんの隣にいたい。
まだ告白の返事だってしていない。
わたしにはやり残したことがたくさんある。
「やっぱりわたし、この夢の世界から抜け出したい!」
わたしは大きく目を見開いた。すると、消えかかっていた扉が再びその姿を現す。
まるでわたしの意思に答えるかのように。
いや、もしかしたら本当にわたしの意思と連動しているのかもしれない。
だって、ここはわたしの夢だ。だからこの世界の中のことは、全てわたしの思い通りになって良いはずだ。
この世界での神様は、わたし自身なのだから。
つまり、さっき扉が消えかけたのも、わたしが諦めたからに過ぎない。
最初から、心の底では夢から抜け出せる訳がないと思っていた。そう決めつけていた。
だから神様のいたずらという都合のいい言い訳にすがって、挑戦しなくていい理由を見つけようとしていた。
そんなことで夢から抜け出せる訳がない。
要するに、わたしがどう思っているかが重要なのだ。
わたしは、扉の方に向かって右手を突き出す。
そして扉を手繰り寄せる様子を強くイメージする。
右手に力を込める。
夢の中なのに、何故か額に汗が浮かぶ。
「会いたい、陽斗くんに会いたいよ!」
わたしは大声で叫ぶ。
その声に呼応するように、扉がこちらへ向かってやってきた。
出だしはスムーズだった。しかし、わたしとの距離が縮まれば縮まるほど、扉が前進するスピードは低下する。反比例するかのように、右手にかかる抵抗が増加する。
たまらずわたしは、震える右手を左手で押さえる。
重い……。
残り一メートルくらいの所で、扉はピタリと動きを止めた。
どんなに力を込めてもビクともしない。
どうして……?
わたしの意思以外の何かが邪魔をしている。わたしは、そう感じた。
それはきっと、わたしの病の根本的な原因なのだと思う。脳の損傷なのか、ウイルスなのか、詳しいことは分からないけれど、薬を摂取しないとどうにも出来ないものだ。
でも薬はきっと既に病院に届いているはずだ。そして、わたしが目覚めさえすれば薬を投与してもらうことが出来る。
だから……
一瞬でも良いから、わたしはこの夢の世界から抜け出したい!
わたしは全身全霊の力を右手に込める。
夢の中なのに痛い、辛い、苦しい。
頭が焼き切れそう。
でも、扉は再び前進を始めた。
あと五十センチ、四十センチ、三十センチ……。
そして遂に、扉との距離は十センチほどになる。
あと少し。だけど、その少しの距離が無限に遠く感じられる。
わたしは自分の限界が近づいていることに気づいていた。
これ以上無理したら、わたしの身が持たない。今のわたしは、コップの縁ギリギリまで水を注いだ状態と一緒だ。表面張力のお陰で何とかバランスを保っているけれど、あと一滴でも水を注いだ瞬間に、それは崩壊する。
あと少しだけ、わたしが強ければ……!
わたしは自分の無力さを嘆く。
どうすることも出来ない今の状況に絶望する。
その時だった。
わたしの右手が、再びキラキラと輝き始めたのは。
陽斗くん?
すぐに分かった。わたしの憧れの人が右手を握ってくれたことが。
そして気づく。大量のキラキラがわたしの中に流れ込んでくることに。
その量は、普段、陽斗くんがわたしの手を握る時以上だ。
きらめきが、右手から全身へと伝播してゆく。指先も足先も、髪の毛までが煌々と輝き始めた。
陽斗くんが、わたしの為に力を分けてくれている。
体の底から、次々と力が湧いてくるのが感じられる。
ありがとう、陽斗くん。
その思いを直接伝えるために、そして、出来ずに終わってしまった告白の返事をするために、わたしは右手を強く握る。
ここまで環境を整えて貰って、何も出来なかったら女が廃る。
「行っけええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
わたしは腹の底から叫ぶ。
指先と金属製の取っ手が接触する。
勢いよく押し下げて、全体重を前に預ける。
光の渦がわたしに襲いかかる。
そして……
わたしはゆっくり目を開ける。
最初に視界に写ったのは白い天井。続いて頭を、ほんの少し右に向けると……
「久しぶり、彩」
わたしの記憶よりも、ほんの少しだけ大人びた雰囲気をまとった陽斗くんの姿があった。髪に少量のワックスをつけて、おしゃれしている。相変わらず彼は、かっこよかった。
「わたし……」
色々な思いが濁流のように押し寄せて、上手く言葉に出来ない。
「どうやら彩の勘は外れたみたいだね」
目元から透明な雫を流しながら、陽斗くんはそんなことを言う。
ちょっと辞めてよ……。
そんな姿を見せられたらわたしだって耐えられない……。
あぁ、もう遅かった……。
わたしの目頭も、自然と熱くなる。
「わたしの勘が外れたの、初めてだよ……。夢から頑張って抜け出そうとしてたら、陽斗くんが最後のひと押しを手伝ってくれて……。それが本当に嬉しくって……。こういうのって奇跡って言うのかな?」
感情が上手く整理出来ない。頭の中に思い浮かんだ言葉が、そのまま口に出てしまう。
そう言えば陽斗くんは、奇跡って言葉が嫌いなんだっけ。後になってそんなことに気づいたけれど……
「きっとそうだよ。今この瞬間が奇跡なんだ」
陽斗くんは、微笑みながらそう言った。
「そっか」
ならこれは、わたしと陽斗くん、二人の力で引き起こした奇跡だ。
この奇跡を無駄にしない為にも、わたしは、この三十年間ずっと心残りだったことを伝えることにした。
「ねえ、陽斗くん」
わたしはキュッと顔を引き締めると、陽斗くんをじっと見つめた。つられるように、陽斗くんも真剣な表情になった。
「わたしは陽斗くんのことが……」
あぁ、ダメだ。せっかく引き締めた表情筋が緩んでゆくのが感じられる。だって、たまらなく嬉しいから。
ほんの少し開けられた窓の隙間から、桜の花びらが吹き込んできた。そして、わたしの目の前を横切る。
まるで、わたし達を祝福するかのように。
これからの先の未来がどうなるかなんて誰にも分からない。
でも、今この瞬間、
俺は
わたしは
全く将来に不安なんて感じていなかった。
俺たちの
わたしたちの
心の中は、明るく照らされていた。
これからが楽しみで仕方がなかった。
ベテルギってる君へ、余命640年のわたしより 青葉ナオ @naoaoba
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