第30話
三年後……
「おい陽斗!」
背後から威勢のいい声で呼び止められた。
「おっす。高貴か」
ここ最近、少し髪を伸ばしている高貴の姿が目に入る。
「三限空いてる?」
「特に授業は入ってないな」
「じゃあ学食行こうぜ」
「オッケー」
俺たちは肩を並べて、桜の花びらが舞い散る通りをまっすぐ進む。
俺も高貴も、この春から大学三年生だ。
俺は近所の大学の理学部天文学科に進学した。理由は言うまでもない、星が好きだからだ。
三年前にベテルギウスが超新星爆発した影響で天文ブームが到来。そのせいで天文学科の倍率は急上昇したので、正直受験勉強は大変だった。けれど頑張って勉強したかいはあったと思う。毎日の授業が楽しくて仕方ない。
高貴は俺と同じ大学の薬学部に進学。将来の夢は薬剤師になることらしい。初めて聞いた時は驚いたが、こいつも毎日楽しそうなので、きっと正しい選択だったのだろう。
俺たちは手早く注文を済ませ席を確保する。新学期が始まったばかりだからだろうか、学食は混んでいた。
「今日、この後の予定は?」
俺はラーメンをすすりながら高貴に尋ねる。
「四限に製剤学の授業が入ってるな。その後はバイト。お前は?」
「俺はもう今日の授業は終わり。だからまあ、これから撮影しようかな」
「流石、YouTuberの鏡だな」
「からかうなって」
すまんすまん、なんて言いながら、高貴は大きな口でカツカレーを頬張る。
「でも冗談抜きで、本当に凄いよお前」
水を飲みながら、高貴はしみじみとした様子で呟いた。
「俺の学科の奴でも、ゆずプリンチャンネルのこと知ってるやつ結構いるぞ? ほら、今だって周りの奴らがジロジロこっちを見てる。きっと皆気づいてるんだよ。お前がゆずプリンチャンネルのゆずだってことに」
俺は目だけを動かして周囲の様子を伺う。確かに何人か、こちらを向いている学生がいた。
「見られるのは未だに慣れないけど、認知してもらえるのは嬉しいことだな」
一人でゆずプリンチャンネルを運営するようになってから三年と少し。先日、遂にチャンネル登録者数は百万人を突破した。
百万人。冷静に考えるともの物凄い人数だ。東京ドームの定員のおよそ二十倍。それだけの人々がゆずプリンチャンネルを楽しみに待ってくれている。
ここまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
YouTubeを再開してからも、《どうしてプリンちゃんがいないんだ》といったコメントはたくさん投げかけられた。やっぱり彩がいない状況は厳しかった。
でも俺は諦めなかった。前を向いて進み続けるって決めたから。
バイオリンの練習動画の投稿ペースを上げた。バイオリンだけでなく、俺の得意分野である星空の解説や、千春とのプリン作りなど、とにかく色々なジャンルの動画をアップした。高校三年生の時でさえ、受験勉強と平行して動画は撮り続けた。
その結果、こうして多くの人に認知してもらえるようになったというわけだ。
ところで……目の前の高貴の様子が少しおかしいのだが、これは一体どういうことだろう。
「なにニヤニヤしてるんだよ」
俺は高貴に質問をぶつける。
「いや、人は変わるもんだなって思ってな。お前が素直に褒め言葉を受け取るなんて……。昔だったら絶対、『それはお前の気のせいだ。俺なんて所詮どうたらこうたら……』って言ってただろうに」
「……まあ否定はしない」
確かに以前の俺なら言いそうなセリフだ。
「やっぱ変わったよお前」
そんな軽口を叩き合いながら、俺は昼ごはんを食べ終えた。
その日の晩のこと。俺は「いってきます」と挨拶をしてから家を出た。そして、もう何百回も通った道を歩く。
今日はよく晴れた一日だった。何となく空を見上げてみると、そこにはいくつもの星々が輝いている。俺はぐるりと一周、首を回した。
あ、あった。
心の中で小さくつぶやく。南西の方角に、淡く赤の光を放つ一つの星があった。
その星の名前はベテルギウス。
三年前は夜空全体を明るく照らしていたけれど、今は周囲と同じ位の明るさで、星の海に紛れている。あと数年もすれば、肉眼でみることも出来なくなるだろう。これまで何千年、何万年にも渡って俺たちを見守り続けてきたオリオン座も姿を消す。
一つの時代が終わりを迎える。今まで当たり前にそこにあったものが無くなるのは、何だか少し寂しいような気もする。
けれど、これでベテルギウスが終わりなのかというと、実はそうでもない。
超新星爆発で四散したベテルギウスの物質は宇宙全体へ広がり、そしてその広がった物質同士が重力で集まることによって新たな星が誕生するのだ。だから、形を変えてベテルギウスは存在し続ける。きっと将来は、ベテルギウスによって誕生した星々が夜空を彩ることになるはずだ。
この話もYouTubeの動画ネタに出来るかもしれないな……。
そんなことを考えながら、俺は再び歩き始めた。
「久しぶり」
病室の扉を開けて開口一番、俺は彩に挨拶した。
昨日も彩のもとを訪れたので少し違和感を覚えるかもしれないが、夢の中では一週間以上経過しているのだ。そう考えれば、やっぱり久しぶりという挨拶が適しているだろう。
俺は真っ白な彩の手をとった。手のひらを通して彼女の体温が伝わってくる。彼女が生きていることを実感する。
「今日も色々なことがあったんだよ……」
俺は手を握ったまま、今日一日に起きた出来事を彩に語りかけた。ほんの些細なことも漏らさず、ゆっくり丁寧に説明する。
朝、千春に物理の勉強を教えたこと。
あいつも春から受験生だ。ようやく勉強に本腰を入れ始めた。
二限の線形代数の小テストで満点をとったこと。
あの教授の小テストはかなり難しい。満点を取れたのは、正直かなり嬉しかった。
昼ごはんは高貴と学食で食べたこと。
学食のラーメンは安くてなかなか美味しい。
夕方は家でバイオリンの動画を撮影していたこと。
三年前に比べると、かなり上達したと思う。ぜひ彩とデュエットしてみたいものだ。
「今日はこんな所かな……」
一通り話し終えたが、何か忘れているような……。ああ、思い出した。
「昨日の夜、手紙が届いたんだよ。浅村さんから……」
浅村正雄。三年前に俺を刃物で刺した張本人だ。その後、彼は殺人未遂の容疑で起訴され、今は刑務所の中で暮らしている。
「手紙の内容は……ほとんどが俺と彩に対する謝罪だったよ。文面から、本当に反省してるんだろうなってことが伝わってきた。まあ、それでも簡単に許す気にはなれないけどさ……」
当然だ。俺は殺されかけ、彩は精神的に大きなダメージを受けたのだから。
「でも、あの人だってまだ若いんだ。やり直すチャンスはきっとある。俺はそう思う」
人は誰だって変われる。この三年で、俺はそのことを学んだ。それは彼だって例外ではない。
一通り話を終えて、俺は一息つく。
壁にかけられた時計に目をやると、二つの針は午後七時過ぎを示していた。面会終了の時刻の八時までは、もう少し余裕がある。もう要件は果たしたので、このまま帰ってもいいのだが、せっかくならギリギリまで彩と一緒にいたい。
そう思った俺は、膝の上でノートパソコンを開いた。授業で出されていたレポート課題を、ここで済ませてしまおうと考えたのだ。
俺はプリントに目を通す。書かれていたのは、二つの天体の軌道と、その速度を求める問題だ。俗に言う二体問題というやつで、計算は若干煩雑なものの、やることは決まっているので俺は軽快にキーボードを叩いた。
急げば八時までに終わりそうだ……。
そんなことを考えながら、俺は一心不乱にノートパソコンの画面とにらめっこしていた。そのまま黙々と作業を進めること約三十分。それは起きた。
いや、本来それは、わざわざこうして取り立てて言うほどのことでは無いのかもしれない。
よくありがちな変換ミスだ。しかし、そのミスは俺の作業の手を止めさせた。
正しくは《この天体の軌跡は……》とすべき部分を、《この天体の奇跡は……》と打ってしまったのだ。
《軌跡》と《奇跡》。
変換キーを一回多く押してしまっただけの、大したことのないミス。
しかし俺は、その二文字をじっと見つめたまま動けずにいた。
そういえば……。
昔のことを思い出す。
俺、奇跡って言葉が嫌いだったんだよな……。
ベテルギウスが超新星爆発した時、皆が奇跡、奇跡って叫んでいて、その言葉の響きが安っぽく聞こえたからだ。
なら、今の俺はどう思う?
俺はノートパソコンを脇にどけて考える。
もしもまた超新星爆発のようなことが起こって、皆が奇跡と騒ぎ始めたら、きっと俺は嫌悪感を抱くだろう。
でもたったそれだけの理由で、奇跡という言葉そのものを嫌いになる必要は無いのではないだろうか? 皆の騒ぎ方が気に入らないのなら、奇跡という言葉の定義を自分の中できっちり決めておけば良い。
そうすれば、皆が奇跡と騒いでも、
あぁ、言葉の使い方を間違えてるんだな……
と思うだけで済む。奇跡という言葉自体は傷つかない。
そんな、高校生時代には思いつきもしなかった発想が湧いた。この三年間で培った様々な経験が、俺の頭を柔らかくしてくれたのかもしれない。
なら……
奇跡。
その単語が持つ意味は一体何なのだろう?
俺は数秒間、頭を捻(ひね)る。そして結論を導き出した。
俺の考える奇跡とは、
然るべき努力をして前に進み続けた人に対して、気まぐれな神様が与えてくれるご褒美のようなもの……だ。
確かに奇跡というのは、結局の所、運がいいというだけの話だ。それだけだと、やっぱりチープな意味を持つ言葉のように思える。
けれど、それは違う。きっと奇跡の恩恵を本当に受けることが出来るのは、なにかに対して真摯に取り組んだ人だけなのだ。
例えば短距離走の選手の場合を考えてみよう。重要なレースの日、たまたまコンディションが良くて、普段よりも〇・一秒だけ良いタイムが出せたとする。短距離走において、〇・一秒というのはかなり大きな差だ。相当運がいい。でも、例えその運を引き寄せたとしても、元々のタイムが悪くては意味がないのだ。練習に練習を積み重ねて、トップの選手との差が〇・一秒も無いレベルにまで仕上がった時に初めて、その運の恩恵を受けることが出来る。その時、引き寄せた運のことを奇跡というのだろう。
つまり努力とは、奇跡と出会うための準備のようなものなのだ。
少なくとも俺はそう信じている。
ひとまず結論が出た所で、俺は思考の渦から脱出して我に返った。
時計を見ると、既に時刻は七時四十五分。かなり急がないとレポートが完成しない。
そう思って一時退避させていたノートパソコンに手を伸ばしかけたその時……
視界の端で何かが動いた。
首を回して、そこを視界の中心に持ってくる。
今、俺が見つめているのは……彩の右手だ。
さっき動いたのはもしかして……?
そう思った瞬間、白い指先が微かに、注意して見ていないと気づかないくらい微かに震える。
俺はすぐさま、その右手を握りしめた。俺の手のひらは、僅かな振動を何度も捉えた。彩の意思が手を通して伝わってくる。
「頑張れ」
気づけば俺は声を出していた。
彩はもう、夢の出口まであと一歩の所まで来ている。
そう俺は直感していた。
だから俺は、強く祈る。
「頑張れ! 後少しだよ、彩!」
ここが病室であることも忘れて、俺は大声で叫んだ。
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