第四話

 ずいぶん長い間、僕たちは互いを見つめあっていた。

 梢はずっと泣きそうなくせに、決して泣かなかった。

 そうか――僕は思った。彼女もまた終わりにするためにここに来たのだ。そしてその記憶の澱をこそぎ落とすために、彼女と同じ体験を共有する僕というものを選んだのだ。僕は梢にとって、そのための道具にすぎなかったんだ。

 まったく、こいつは……どこまで勝手で、強いんだろうか。

 愛らしいな。本当に愛らしいなと梢のことを想って、僕はたまらなかった。あぁ、愛らしいな。哀しいな。城野、お前と梢のことだよ。

 だから悪いけれど、ちょっとだけ城野に嫉妬した。赦せ、多分これが最後だ。   哀しくて、僕は哀しくて、だから城野のために、梢のために、ひとりの恋人とひとりの友人の死を、僕たちは風の中で、この海にどこまでもまき散らした。

 乾いた海の風の中で、僕たちはあの日の僕たちに、哀しく、いとおしく、別れを告げた。


 風が吹きぬけていく。帰る時間だ。

 花束はもう見えない。きっと城野が受けとったんだろう。

 城野、さようならだ。僕たちは、ひとつの儀礼を終えた。お前のことは、今初めて過去になっていく旅をはじめたんだ。もう遠ざかっていくだけだよ。

 だから……本当にさようならだ。

 シートを引くと、かりりりりと滑車が応える。ブームが引きこまれ、セールが風がはらみ、新しい力がこの艇を動かすのだ。ぐいと艇が推進力を得た。たちまちラダーをにぎる手に、確かな力を感じた。このもっとも原始的なエンジンを持つ艇に乗って、僕は梢と陸に帰る。

 太陽が海面に反射して、僕の眼をくらませた。

 操りながら、梢とはもう言葉を交わさなかった。

 厳密には、梢はやはり城野を見殺しにしたってことになるのだろう。もしかしたら何かの罪になるのかもしれない。

 ずいぶん多くの人たちが彼の死を泣いた。特に彼の妹の泣き顔を憶い出すと、そのことだけはどうしても心が痛む。

 本当なら、僕は沈黙を守るべきではないかもしれない。

 だけど僕は誰にも云うことはないだろう。ひょっとしたら忘れてしまうかもしれない。

 彼女ももしかしたら、自分の罪を何らかの方法で問うことがあるかもしれない。  でもそれはまた別の話だ。

 それにきっと僕はもう梢とは会わないだろう。

 ハーバーに着いて、ヨットの艤装をといて、僕たちは別れる。

 海の上でのひとつの目的のために組み合わさり、同じ方向を目指していたパーツは、陸の上で別れを告げ、まったく別の場所に収まるのだ。

 彼女は自分の住む町に帰っていく。そこで彼女の次の物語がはじまるだろう。僕もそうする。

 僕と梢、それに城野が交わる時間は終わったんだ。

 艇の後方から乾いた風を受け、僕たちは今ハーバーへともどっていく。

 陸にもどったら何をしようか。不思議に心が浮き立ちはじめた。

 こんな暑い日は、海からあがってシャワーを浴びて、うんと冷たい生ビールを呑むのに最高な日だ。

 渡辺のやつに電話してみようか?津山といっしょに来いって。あいつならきっと飛んでくるだろう。「いいっスよ、すぐ行きますっ!」って感じだ。

 そうだ、もう一度ヨットはじめたっていいな。今度はシングルハンドでも。

 あぁ!どうしてこんなに、心が素敵に乾いているんだろう。

 あの日から五年後の七月三十一日……その日は、今年で一番の、暑く輝くような夏だった。


(了)

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風の中で僕らは(元) 衞藤萬里 @ethoubannri

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