せっかく綴った物語が、評価されず、誰にも読んでもらえない。
怖ろしいことにネットに投稿サイトが出来てから、そんな、「読んでもらえない」人の数も激増してしまった。
目に見えて分かる、人気の差。
X(Twitter)の呟きのごときが、或いはテンプレと呼ばれる作品が、みるみるうちに多くの評価を集めて書籍化していくその裏で、私たちのような「読まれない」側の者たちは、フランス革命前夜、第一身分第二身分を遠く仰いでいた第三身分98%であるかのように、底辺にうず高く、埃のように、くすぶって積もっている。
そんな中、衞藤萬里さんは創作ノートを燃やした。
文字どおり、炎の中で灰にしたのである。
作家になりたい。
わが作品は世の中に認められて人気作家になるはずだ。
そう確信しながら十代の頃の衞藤萬里さんが書いてきた小説の数々。
数十年に及ぶその一途な夢を、創作ノートの中に踊っていた物語を、自ら永久に葬り去ったのだ。
作品には関係のないことを差し挟むのがわたしのレビュースタイルなのでおゆるし頂きたいのだが、ここに、「南の島に雪が降る」という本がある。
著者は加東大介。
1975年に他界した役者。
黒沢明監督「七人の侍」の七郎次といえば分かる人も多いだろう。
加東大介の実兄は沢村国太郎、実姉は沢村貞子だ。
公演の途中で赤紙が届き、ニューギニア戦線に送られた加東。
坂道を転がり落ちるようにして戦局は悪化し、ニューギニア島は「抵抗する力もはやなし」と見做されたものか、アメリカ軍がさっさと見捨てて通り過ぎてしまった。
島といっても、ニューギニア島の面積は日本よりもある。
その各所に、ぽつんぽつんと、支部隊が置き去りにされている。
彼らに食料を届ける船はすべて途中で撃沈されて、島には届かない。
孤立無援となった兵隊は、たまにある空襲よりも、飢餓と病魔に晒されることになった。
どのくらい飢えていたのかというと、芋の葉やヘタが最大のご馳走であり、マラリアや赤痢で死んだ者の墓を掘っている間に、墓穴を掘っている者もぱたぱたと倒れて死ぬという具合だ。
何しろ敵が来ないので、守備にせよ攻勢にせよそこにいる目的もなく、無為のまま兵士はただ飢えて、食料として捕らえたとかげ一匹のことでも殺し合いになりかねないほど殺伐としていた。
これはいけない。
慰問として演劇をやってはどうか。
そんなことを想い付く将がいた。
そこで、加東大介が呼び出され、残留部隊から演劇に心得のあるものを選び出し、ニューギニア島に歌舞伎座ができる。
これは電撃のような興奮を兵たちにもたらした。
こんな地獄のような南国で、内地(日本)で親しんだ芝居を観ることが出来る……?
加東たちは芝居をそこでやった。
入隊する前は洋裁屋だった者が衣裳を縫い、美術に心得のある者が背景を描き、バナナの繊維でかつらをこしらえ、口紅としてマーキュロを代用した。
学芸会のようなものかと想ったら大間違いで、その芝居は本格的なものだった。
演芸場からして場所を決め、本職の大工がジャングルの中に建てた花道のある本建築だ。
生まれ落ちた時から芝居漬けだった加東がいて、三度の飯より劇や映画が好きだった者がいて、脚本家がいて、歌手がいる。
三百名ほど入る立派な演芸場に、今日はあちら、明日はあちらと順繰りに部隊を招待して、一か月の公演で島に散らばる七千人に芝居を見せていった。
死にかけの病人が、翌月芝居の観覧だぞと云われると、元気になる。
死にかけの病人が、芝居を観た直後に息を引き取る。
そんなことが何度もあった。
隔離されるようにしていちばん痩せた土地に押し込められた「わけあり」の工兵部隊が、幽鬼のような姿で山を越え、大河を渡り、野宿しながらよろよろと芝居小屋に辿り着く。
前回見かけた者はもう死んでおり、人数が減っている。
それでも「日本の芝居が観たい」その一心で、彼らはまた骨と皮のような姿を引きずって、翌月の公演に現れるのだ。
映像もなければ写真もわずかにしかなく、引き揚げと同時にこの世から消え去った南の島の幻の歌舞伎座。
劇を見た者は、生涯、その劇を忘れることはなかった。
演芸場の中には遠い故国があった。
そこには入隊する前に通った芝居や映画の記憶があり、懐かしい父母が登場し、背景画にはなだらかな日本の山と、柿の木と、四季があった。
夜でも暑い南国の島、芝居の中では雪が降る。
それを見ると、東北の者たちはみな泣いたそうだ。
私たちは何故、創作するのだろう。
なぜまったく見向きもされず、時として「書く資格がない」とせせら嗤われ、ろくに読まれもしない小説を書くのだろう。
わたしの死と共に完全にこの世から消え失せる物語。
死後の片づけの際にゴミ袋に入れられていく細々とした手作り品や蒐集物と同様に、どれほど精魂を傾けようと、私たちの物語は消え失せると運命が決まっていて、ついには作者の手によって焼却炉がわりの薪ストーブに投げ込まれてしまうこともある。
小道具なのだからそんなに丹念にしなくてもいいんだよと加東が断っても、
「それはそうでしょう。でも、まあ、そういわずに、やらしておくんなさい。これをやっているあいだだけは、戦争を忘れられるんでさ」
そう云って、立派な長火鉢をこしらえた指物師。
これを云い変えるならば、どうせ誰も読まないし、たいした評価もつかないし、「書く資格がない」と下げられるだけのものだよと断っても、
「それはそうでしょう。でも、まあ、そういわずに、書かせておくんなさい。これをやっているあいだだけは、誰にも読まれないことも、忘れられるんでさ」
ということになるだろうか。
実にただしく、現実逃避的である。
では現実とは何なのか。
プロになることか。
何を書いても、ランキング上位を占めて、「今回も素晴らしいです」「天才です」と褒めそやされて天狗になり、評価の低い者をコケにしながら、そこのけとばかりに、のし歩くことだろうか。
加東大介は生き残る確率が高い転属を断り、飢餓の島となった現地に残り、七千人のやせ衰えた将兵のために芝居を続けた。
それは加東の役者根性であったし、自分の芝居を観て笑ったり泣いたりしてくれる観客のためであったし、加東大介自身が、芝居を途中で見捨てることが出来なかったからではないか。
誰かが演じなければ脚本はあってもそこに芝居は生まれない。
私たちが書かなければ、構想はあっても、物語は生まれない。
「今度は何を書こうかな」と何処にいても、私たちはそのことで頭をいっぱいにしている。
書きあげた時の満足や倖せを知っている。
「この作品よかったです」と人が評価をつけて通り過ぎてくれることも無いわけではない。
いや、目的はプロになることだったのだから、もう筆を折るのだ。
それもいいと想う。
しかし物語が「外に出して」と呼び掛けているのであれば、やはり書かねばならないのだろう。
誰ひとり読む人がおらず。
誰ひとり評価してくれず。
熱心に書き続けた過去の創作ノートを燃やし、遠からず全ては忘却されて無と帰すのだと承知であっても、息をすることを止めることが出来ないように、生きている間は、小説の中の世界で私たちは遊んでいたいのだ。
燃やしました。
それがどうしたのだ。
他の誰の作品とても、半世紀後にはネットの海に消えて、跡形もないだろう。
復員船が来て、ジャングルの中で解体された本建築の芝居小屋。
終戦から八十年以上が経った。ニューギニアの現地で作詞作曲され、出し物の中に流れた歌は、録音されることもなく、それを口ずさめる者もすでにこの世にはない。
しかし芝居はあった。
役者がいた。
歓喜し、笑い、涙を流した。
世に知られぬまま密林の奥に消えたが、芝居は確かにそこにあったのだ。
本エッセイの中で、衞藤萬里さんはこう書いている。
『どうして私の物語は誰にも読まれることなく、消えていったのか?』
それはもともとから消えるものだからだと、私は答えたい。
小説を書く人にとって、生み出す物語とは、作者自身に付属している骨や手や眼のようなものだ。
だから作者の人生が終わると同時に、どのような作品であっても、私たちの脳や魂とともに焼却炉の中で消えるのですよと。
創作ノートを燃やした衞藤萬里さんの心境。
同調しない書き手は98%の中にはいないだろうし、日の当たるところにいる2%の者であっても、これが分からぬ者に小説は書けぬだろう。
南の島に雪が降る。
燃やされたノートの、その灰が、南の島に降った雪に重なる。