第三話
時間が流れ、僕たちはあの夏の日をゆっくりと忘却していくことになる。
ただ何人かで苦労して艇に引っぱりあげた彼の体が、まだ温かかったこと。
ハーバーにやってきた救急車や警察車両の威容。
葬儀の日泣いていた少女が城野の妹で、まだ中学生だったってこと。
その葬儀で稲光のようにたかれたフラッシュの閃光に、僕たちは怯え、焼香することがすごく恐ろしかったこと。
そんなことは、きっと忘れることはできない……
城野の死は事故として取りあつかわれたが、法的に僕たちの立場がどうだったのかは今でもよくわからない。ただ、安全面で何らかの問題があったのは間違いなかったようだ。だから退学者がいなかったり、期限なしの休部が甘い処分だったのかどうかもよくわからない。
城野が死に、副将だった僕が部内を取り仕切らなければならなかったが、自分の無力さをいやというほど味あわされただけだった。
あの時期の他人の言葉で、記憶にのこってるものなんてほとんどない。僕は人の言葉にもみくちゃにされ、流され、おびえ、激しい怒りと、むなしさと、後悔と、そんなものがないまぜになった形容しがたい感情の中、ただただ呆然としているだけで精一杯だった。
部員を集めて重苦しい空気の中、休部の決定をみんなに伝えた時の、何もかもなくしてしまった感覚。
それからは一度もヨットには乗っていない。僕たちはもう、そのような場所を失ってしまったのだ。
同じ時間をすごした者たちの間にも、わずかなすれ違いが生じ、それはいつの間にか互いに距離をとらせる苦々しさへと変わった。もちろんそうでない者もいたが、そのことがかえってすれ違っていることを実感させられたのも事実だった。
しかし何より僕が耐えがたいのは、自分が城野のことを忘れつつあるということだ。あの時の記憶の上に時間と新しい記憶が堆積し、思い出すにはそれらをかき分けなくてはならなくなった。それなのに城野のことは、依然、問答無用で僕の中に巣くい、“友人を失った僕”を強要する。
当然笑うこともある。この五年の間につきあった彼女もいた。
なのにあの夏の日は、いつだって何の前触れもなく突然胸の奥からよみがえってきて、その度ごとに僕は忘却の罪悪感に激しくさいなまされる。
忘れることは、後ろめたいことだった。
苦い思い出……そんな安易な表現もできやしない。
* * *
城野が死んだ場所に花を供えたいと、電話してきたのは酒匂 梢だった。城野と一年間いっしょの艇に乗りつづけ、あの日も一番近くにいた。
彼女が僕をさそった理由、僕が断らなかった理由は何だったのだろうか?
卒業以来、初めて会った彼女は、幼さと形容すべきだったのかもしれない当時のまろみが減り、その分硬質が増していた。
二年前にサークルが再開してから入った僕たちの知らない後輩たちが、艇を準備してくれており、艤装まですんでいた。僕たちの卒業後、あの渡辺がずいぶんと苦労して再興させたらしい。結局僕は何も為さなかったのだ。ただ失っただけだ。
スロープから降ろし、海に出た。小さな花束を持ち、しばし陸との別れ。
五年前と変わらないこの海。
梢が僕をみつめている。僕は無視して波に揺れる花束をみつめる。 艇は油断しているとすぐに潮に流されてしまうので、ブームを切りかえたり、少しだけセールに風をはらませたりして、できるだけ元の位置を維持しようとした。
「あの日、なんで城野はセールの下になったんだ?」
花束をみつめつつ訊いた。梢から誘われた時から、ここで訊ねようと思っていた。
梢も僕の視線を追って花束に眼をやった。風が彼女の短い髪を、ふわりとつつみこんだ。
「一二三先輩、城野さんとあたしのこと、知ってるでしょ」
「みんな知ってた」
「あ、そ」梢が恥ずかしそうに笑った。「やっぱりなぁ。絶対、隠すの下手くそなんだもん、あの人」
「部内恋愛禁止って決まりはなかった。渡辺だって、津山と今度結婚するんだぞ」
「聞いた」
「……答えろよ」
梢がこまったように、押さえているブームをこつこつと指ではじく。
「先輩、ひょっとして妙なこと考えてません?」
僕のほうに向きなおると、笑いながらそう訊ねた。
あぁ、くそっ!僕は苛立つ。躊躇する。そんな風に微笑まれたら、何も云えなくなるじゃないかよ。
「城野があんな落ち方するもんか。あの日は風も強くなかった。何であいつがセールの下になるんだよ」
「事故です」梢が無表情に断言する。「ありえないけれど、本当に」
「じゃあ何で!お前は……」
助けに行かなかったんだ?と言葉にすることが、どうしてもできなかった。五年の間ずっとだ。
僕たちが近づくまで、彼女は横倒しになった艇の上で、城野が下になってるあたりのセールをじっとみつめていた。声をかけた時の、びくりとした梢あの表情は忘れられない。
位置の関係で、おそらく渡辺は見ていない。僕だけが知っている。
「……やっぱり、見てたんですね」ぽつりと梢がつぶやいた。「ばかだなぁ、あたし……」
艇がわずかに進みだしたので、梢はブームを切りかえた。セールがばたつく音だけが、やけに大きく聞こえる。
風は乾いている。いつもそうだった。夏の海を旅する風は、いつも乾いていた。 梢は僕から眼をそらし、今はもうずいぶん離れてしまったあの花束の行方を追った。その表情はまるで手にとどかない遠くへ行ってしまったものに、安堵しているかのようだった。
「本当に、事故だったんですよ」僕に向きなおることなく梢が云った。「信じてくれないかもしれないけれど。タックした時、急に風が回ったのかもしれない……ブームがものすごい勢いで、どういうはずみか城野さんをひっかけて。で……あっと思った時は、艇がひっくり返っていて、気がついたら城野さん、もう動かなくなってた……」
届きそうで届かない、そんなまどろっこしさが僕を苛立たせた。
「それは酒匂が前から云ってたことだろ?だから事故ってことになったんだ。僕が訊きたいのは本当のことだ」
「……」
「……酒匂」
「どうしてかな……」
梢が僕にむきなおり、ぽつりとつぶやいた。僕には理解しがたい微笑みが口元にうかんでいたが、瞳は夢でも見ているようにぼんやりとかすんでいた。
風の音が、波の音が――絶えた。
「セールの下になった城野さんが、ライジャケつけてたから、うまいこと動けなくて……セール、城野さんにかぶさった白いセールが変な具合にもがいて、それ見てたら、何かもう……あぁ、このままにしとこうって。彼が出てこなかったら、あたしが正しいんだ、彼が出てきたら、ごめんなさいって云おうって……」
「何を……」
ゆっくりと彼女の瞳に呑みこまれていくような、言葉に蕩かされていくような感覚があった。
「でも、彼は長い間、ずいぶん長い間もがいていたのに、とうとうそのまま動かなくなって。ばかだなぁ、ほんの二メートルぐらい移動したら、出ることできたのに。何でだろ……どうしてあんなことになったんだろ?」
「……」
自分の中にあるものが少しずつ、口からこぼれ出てくるかのような梢の言葉だった。
「動いてるセールが、近づいちゃいけないような、そのまま彼のことを見守っていなけりゃいけないような気がして。どうしても、どうしても近づくことができなくって……それがすごく不思議で……」
梢の言葉が不意に途切れ、風と波の音が再び戻ってきた。
僕は自分がこわばった表情で、彼女を凝視していたことに気がついた。
彼女の話をどんな風にとらえるべきなのだろうか?無造作にはらいのけるのを躊躇させる、澱のようなものを感じた。 そして同時に、僕は梢の言葉を事実であると直感した。
あのころ城野と梢の間に、トラブルがあったような記憶はない。
ふたりがただの先輩後輩の関係でないということは漠然と察していたし、静かに噂があった。そういうものは、僕たちのように始終互いを眼で追っているような時期に隠しきることなんて不可能だろうし、僕たちは当然のように、まるでゲームのように、くすくすと忍び笑いつつ関係を築く。
城野と梢の関係も他の者の視線を意識した演技と、誇らしさがあったと思う。少なくとも僕は、ふたりの関係に不穏な空気を感じることはなかった。だけど僕のような男にはうかがうことができない何かが、ふたりの間にあったのだろうか?そしてそのことがあの日、城野と梢を分けたのだろうか?
そう考えると、ふたりに何の疑問をもたなかった自分がひどく幼稚なものに思えた。もちろんふたりに何かを感じとることができたとしても、そんなものはきっと何の役にも立たなかったろう。城野と梢の間に割って入ることなんて、誰にもできなかったのだ。
ふたりの間に一体何があったか、僕はもう知ることはないだろう。
あの時ですら、僕と彼らふたりは同じ海の上にいて、はるかに隔たっていたのだ。そして僕は、その隔たりすらも知ることはなかった。
愚かにも胸がうずく。
なくしてしまったもの、いや……僕が眼にすることがなかったものの存在は、どうしてずっと後になって、こんなにまばゆく感じるのだろうか?梢のことよりも、城野のことよりも、そのことが僕を傷つけて透明にした。
でも……
その時のふたりを想いうかべる。帆布一枚を隔ててもがいていたのだ。城野は水の中で。梢は風の中で。必死に。どのような顔をして?
何てどうしようもなく、哀しく、無意味なふたりだったんだろう。
「お前たち、何があったんだ」
彼女は答えないだろうという確信がありながら訊ねた。僕は無力だった。
梢の眼には、城野をか、僕をか、それとも自分をか哀れむような色があった。そしてはっきりとした拒絶が。
「……先輩には、関係ないです」
「でも、お前は、自分のしたことの意味わかってるはずだ。お前は城野を見殺しにしたんだ」
「先輩に云うようなことは、何もありません」
梢は僕の眼をまっすぐ見て、何も迷うところがなく城野の死と自分を貫きとおした。
あんまり清々しく、そして真摯で、城野の死はその瞬間初めて清められ、そしてようやく後悔と忘却の原をぬけて、新しい場所へたどりついたような気がした。
ことり――と、世界のどこか遠くで、引き出しのしまる音がした。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます