第二話
彼――城野 真澄。彼女――酒匂 梢のふたり。そして僕……一二三。僕はこれから語るごく短い物語の、狂言回しの役どころだ。
僕らは大学のサークルで知り合った。城野と僕は同期。梢は一期下。足早な世情とは無縁の地方の私大で、僕たちには風が合った。
ヨットってやつは、ひどくのんびりしたスポーツのように思われがちだが、実際はなかなか過酷だ。体力も使う。強風の時は恐ろしいぐらいの速さで疾走し、すれすれの高さで見る青黒い海面の迫力や、のしかかってくるような高波、風に体ごと持ち上げられるような震える高揚はちょっと説明のしようがない。そんな日、一日海に出た後は腿が上がらなかったり、ペットボトルのキャップを開ける力も残っていないぐらい体力を消耗することもある。
特に冬の最中はあまりの寒さに体の芯まで凍え、顔がしもやけでひび割れてごわごわしたり、転覆した海の中の方が寒くなく、そのまま艇にはいあがるのがいやだったりもした。
僕たちの部が所有していたヨットは470級という、オリンピックの正式種目にもなっているメジャーな二人乗りのクラスだ。もちろんエンジンはついていない。完全に風だけで走る。スキッパー(艇長)とクルー(操帆手)で二枚ないし三枚のセールを操り、舵とメインセールはスキッパーが、ジブセイル(前帆)、スピネーカーという追い風用の薄いセール、そして艇のバランスをクルーが担当する。
僕も城野も初心者で、入学時の勧誘に何となくイメージで入った口だったが、意外な過酷さに驚いた。同期にはもう一人いたのだが、彼は早々に退部した。
二回生になって梢たちが入部した。彼女の同期は六人で、僕たちの代にくらべると大漁だった。二回生の途中から、城野は梢とペアを組むようになった。僕も一回生をクルーにし、スキッパーに昇格した。部員の少ない僕たちは、早くから二回生はスキッパーを経験しなければならなかったのだ。
インカレに出場もしたが、下から数えたほうが早いというぐらいの順位で、腕前の方は推して知るべしだ。
なかなか大変なこともあったが、しかし大体において僕には居心地がよく、このまま卒業して何年かしたら、OB会で酒でも呑みながらそのころのことを懐かしく思ったりしただろう。
それから一年、僕たちが三回生の夏、七月三十一日。一週間の夏合宿も明日で終わりという日。主将は城野。副将が僕だった。
一週間の合宿となると、不思議なことに一日ぐらい、すうっと示しあわせたように全員の気合がぬける時がある。明日で合宿も終わりということもあって、その日がまさにそうだった。それでも僕たちは自分たちなりに真剣だったし、何かがおきるなんてことは、当たり前だが考えてもみなかった。
この夏一番暑い日で、風はわずかに白波がおきるぐらい。波はうねりもなく、年に何回もないベストコンディションだった。
普段は四、五艇が沖の航路灯を目印にバラけないように並走していたのだが、その日はどういうわけか練習というより、各自好きに走るような感じになっていた。一艇一艇の間隔がずいぶん空き、しかしそれが気にはならない程度に秩序はあった。
城野と梢の艇は最後尾を帆走していた。
一体どういうわけだったのか?転覆する風の強さではなかった。
ふと後方を見た時、城野・梢艇が九十度、横倒しになっていた。俗に云う半沈というやつだ。
沈した艇が出た場合、念のため集まるようになっていたが、この風で危険なんてありそうもなかった。しかし一応副将としてクルーの渡辺に「もどるぞ」と声をかけると、彼も初めて気がついて「うおっ?城野さん、何、沈してるんスか?」と笑った。
ジャイブして風下にバウをむけた時、他の艇はまだ気がついていなかったようだ。
風下にむかうランニングは船足が速い。たちまち城野・梢艇に近づくと、横になっている艇の上に梢だけがまたがっていた。その顔は水面につかっているセールを、真剣に見つめていた。
僕たちが近づいた気配に気がついた梢が、はっと顔を上げた。その瞬間、嫌な気分がこみあげてきた。城野はどこだ?
僕たちは必ずライフジャケットを身に着けている。転覆して艇から引きはがされても、何時間でも浮かんでいられる。辺りの海面に、城野のグレーのジャケットは見あたらない。艇の影にも見あたらない。
半沈した時一番怖いことは、海に落ちてセールに上からおおいかぶさられてしまうことだ。なまじライフジャケットを着ているため、潜って逃げにくく、窒息してしまう危険がある。といっても、ジャケットを脱いで、数メートル潜ればすぐ脱出できる。慌てなければまったく問題はない。それに海に落ちる時も、風の強さに耐えきれずにひっくり返るのだから、セールの方が先に着水する。よほど妙な落ち方をしないかぎり、セールの下に閉じこめられることなどない。
実際、僕はただの一度もそんな経験はない。城野もだ。
だけど……セールの真ん中の、奇妙なふくらみは一体……
「酒匂!」
僕の声に梢はびくりと体を震わせた。その時の、胃に石でもつめこまれたような感覚を憶えている。
「渡辺!近づけろ!」
ラダーを切り、シートを引いて城野・梢艇にぐるっと回りこむ。やはり城野はいない。
スターン(艇尾)側から近づき、本当ならスキッパーである自分がするべきではないのだが「渡辺、そのまま待ってろ」と云い、飛び移った。
FRP製の船体はぬれてすべり、横倒しになった艇はぐらぐらと不安定に揺れた。
「酒匂!何してる、艇起こせ!」
センターボードに足をかけて叫ぶと、梢はのろのろとこっち側へやってくる。艇のふちに手をかけ、後方に体重をかけた。セールの抵抗がぐんと背中にかかるが、それは水の中から引っこぬかれるまでのほんのすこしの間だ。やがて人の重みで横倒しになった艇が、あっさりと起き上がる。
そのタイミングにあわせて艇内に転がりこんだ。くそッ、滑車で思いっきり顔をうつ。飛沫がまるで雨みたいに降りそそいだ。
「城野さん!」
渡辺の喚く声が妙に近くで聞こえた。
顔を上げた。今までセールのあったあたりに、グレーのジャケットが出現していた。
情けない話だが、膝が震えていた。梢の気配を背中に感じた。彼女は僕のシャツのすそをつかんでいた。
ライフジャケットで沈まない城野の体が、ゆうるりと波に揺れていた。
真夏の太陽を見上げた顔の白さが、網膜に焼きついた。城野はもっと陽に焼けていたんじゃなかったか?何であんなに白いんだろう……?
他の艇が近づいているのが、視界の端にみとめられた。みんな集まってきたのか……ぼんやりとそう思った。
その年の七月三十一日の太陽は、その夏で一番の太陽だった。それなのに城野の瞳は閉じられていた。
(つづく)
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