五、天の眼を以てしても、細い糸を見出すのは難しい

 涼やかな風が彼女の長いまつ毛を揺らした。閉じた瞼がぴくりと動いた。長い夢に囚われていた意識が、ゆっくりと浮上をはじめた。


 風の音がひゅるりと耳の中を漂った。川面を撫でるさざ波の音がそこに続いた。梁や茅葺の天井らしきものが見えてきた。喉のざらつきが不快で、息を吐いた。吐いた分だけ空気を吸ったら、濃厚な原っぱの香りが、乾いた乳の匂いが、胸をめぐった。


 彼女は、いよいよ大きく目を見開いた。二度三度と瞬きをした。

 そして、頭をめぐらそうとしたが、その瞬間、背中に稲妻のような痛みがはしった。呻き声がもれた。


「大丈夫!?」


 すると、女性の声がした。ばたばたと慌しい足音が聞こえてきた。


「お母さん?」


 彼女は呟いた。意識がまだ朦朧としていた。夢を見ているような気分だ。家にいるのだと彼女は思った。しかし、間もなく目の前に飛びこんできた顔には、まったく見覚えがなかった。まだ若そうだが、少女というにはややとうが立った女だった。


「目が覚めたのねぇ」


 女は、まるで彼女を幼い頃から知っているかのようだった。頬を撫で、笑いかけ、涙ぐみさえした。彼女は戸惑った。この女が何者なのか見当もつかなかった。おぼろな頭に鞭をいれ、記憶を刺激した。やはり女の顔に見覚えはなかったが、自身の境遇については様々なことが思い出されてきた。


 家も故郷もないこと。

 逃避行の最中、痩せ細り冷たくなっていく両親を看取ったこと。

 捜索隊に見つかり、死を覚悟して川に飛びこんだことも。


 彼女――エレーナは深い喪失と悲哀をそっとかき集めながら、やや身を強張らせ女に訊いた。


「あなた、だれ?」


 女は、ハッと涙を拭いた。そうよね、そうよねと明るい声を出した。ところが、質問の答えは返さず、さっさと背を向けてしまう。


「ちょっと待っててね! すぐ連れて来るから!」


 そして、呼び止める間もなく去って行った。

 エレーナは当惑し、ぱちくりと瞬くしかなかった。


 女は何者なのか。

 連れて来るとは、誰なのか。

 なにひとつ判然としないまま取り残されてしまった。


「はあ」


 不思議と不安は感じなかった。背中がじんと温かいおかげかもしれない。

 エレーナは、家族全員が暖炉の前に集まってお喋りをする、ある冬の日のことを思い出した。


 父は森の怪物を倒した武勇伝を語り、母は編み物を教えてくれた。兄はただニコニコとしながら、丸めた足の間にエレーナを抱いてくれていた。そして、いつも彼女は真っ先に眠ってしまうのだった。両親と兄と目端にうつる真っ白な何かに見守られながら。


「みんな……」


 だが、その誰ももうこの世にはいない。まなじりに涙が膨れ、やがて零れた。エレーナは腕がかろうじて動くことに気付いて、手の甲で涙を拭った。


 悲しむべきではいけないと思い直した。


 兄は家族のしあわせを願いながら村をでていった。

 両親は飢えや寒さの厳しさに息絶えたが、死の際に見せたのは微笑みだった。村をでてきてよかった。ここでは誰に鞭打たれることも、家族を蔑ろにすることもない。幾つかの苦しみはあっても、それだけだ、と。


 エレーナはきつく瞬きをした。

 兄が、両親が、そして、


『今までありがとう。大好きだよ、レヌーシュカ』


 もう一人の見えざる家族が託してくれたこの命を、やり遂げようと思った。

 この先、なにが待ち受けていても。

 万が一、あの女が捜索隊の味方だったとしても。

 自分以外の誰にも鞭を振るわせはしない。

 生き方も、死に方も自分で決めると心に誓った。


 その時、ドアのひらく音がした。ほら、とあの女が声をあげた。二人分の足音が近づいてくる。冷めた覚悟の中、エレーナは待った。すぐに、ふたつの顔が彼女は覗きこんできた。


 一方は、あの女だった。

 もう一方は、片目に眼帯をかけた男だった。古傷だらけの顔に、ただならぬものを感じた。どこぞの兵隊か。捜索隊か。エレーナは舌を噛み切る覚悟を、練り上げた。


 しかし互いの視線が交わった瞬間、男は目を見開き、口を押さえた。見る見るうちに瞳を潤ませ、嗚咽までもらし始めた。


 エレーナはすっかり困惑して、男の顔を見つめた。女に見覚えがなかったように、この男のこともきっと何も知らない。そう、半ば諦めを含んだ眼差しで。


「あ」


 ところが、相手の意外なほど柔らかな目つきに、エレーナは記憶を刺激された。自分のものではないような、重い腕を必死にもちあげ、男の腕にそっと触れた。その熱が、記憶のなかの温もりと重なった。エレーナはかすれた声で呟いた。


「にい、さん」

「わかるのか!」


 古傷だらけのボリースは、溢れる涙を拭おうともせず、食いつくように妹の手をとった。エレーナが頷くと、彼はその手を額に押しつけた。よかったよかった、そう繰り返し唸るような声をあげた。


「お飲み物を淹れてくるわね」


 女はそっと立ち去っていった。

 エレーナには、訊きたいことが山ほどあった。兄が生きていた。それだけでも彼女には信じ難い奇跡だったのだ。


 だが、ふたりは何も語らなかった。


 兵営から逃亡し、カザークの国に亡命したことも。

 家が燃え尽き、村から逃れてきたことも。

 カザークの国で新たな所帯をもったことも。

 逃避行の最中、両親が命を落としたことも。


 なにひとつ。

 ふたりは互いの生を尊び、再会にただただ涙した。長いときを経ても決して途切れることのなかった糸をたぐり寄せ、静かに、けれど情熱的に抱き合った。


 それもまた断ち切られるときが来るかもしれない。

 ふたりが生きているかいないかの間に、このカザークの国も解体されることになる。彼らの忌まわしい故郷が、周囲のものを呑みこみ、新たな時代の奔流を生みだしていくのだ。


 それでも未来のことは誰にもわからない。

 だからこそ、いまは、彼ら兄妹が再会した奇跡と、


「あ、これ」


 エレーナの指先が、ボリースの襟から絹のような真っ白い毛をつまみ上げた、その事実を語るだけで十分であろう。

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ドモヴォーイ~見えざる家族~ 笹野にゃん吉 @nyankawa

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